隧道レポート 玉川森林鉄道 旧線 鎧畑ダム水没隧道群 第1回

所在地 秋田県仙北市
探索日 2005.8.10
公開日 2005.8.27


以前公開した廃線レポート「玉川森林鉄道」では、玉川森林鉄道のうち、起点から玉川ダムまでの区間を探索・紹介したが、途中の鎧畑ダム周辺にある新旧線については、新線のみを紹介している。
ダム湖(秋扇湖)に水没した旧線については、素通りせざるを得なかったのである。

だが、2005年7月末、ユウタ氏が当サイトの掲示板に投稿された写真を見て、私は驚いた。
そこに写っていたのは、これまでいくらダム湖の水位が下がっても決して地上には現れることがなかった、旧軌道跡の隧道のように思われたからだ。

再調査の必要を感じた私は、細田ミリンダ氏を誘って現地へ向かった。

→ 問題の投稿写真。(ユウタさん ありがとうございます!)
角度がよく分からないものの、従来対岸から見えていた水没隧道よりもさらに深い位置にあるものに見えた。




本文に入る前に、玉川林鉄について簡単におさらいしておこう。

玉川森林鉄道は、大正10年に生保内より玉川沿いを北上するように敷かれ始めた森林鉄道で、昭和初期には鳩ノ湯付近まで約40kmの本線が開通し、その後も大小の支線が建設された。
本線は運材の用に供されるのみならず、沿線住民の足や上流にある玉川温泉への旅客輸送にも利用され、昭和38年に全廃されるまで、玉川上流地域の交通の中核を担っていた。

なお、昭和27年から33年にかけて、途中の鎧畑地区で県営のダム建設が進められ、林鉄も水没することとなった。
そのため、昭和31年までに約10kmもの軌道が新線へ付け替えられた。
この新線は大部分が自動車道との併用軌道として建設され、昭和38年に軌道が廃止された後には、国道341号線として利用された。

一方の旧線は、ダム湖によって約5kmが水没して、地上から姿を消した。
しかし、ダム湖の水位が下がると、今でも水没した隧道が湖面に現れることがあるようだ。

今回の探索の目的は、旧線の隧道群を出来るだけ近くから確認することである



若葉萌ゆる湖底の廃線跡



2005年8月10日午前7時50分。
これまで幾度となく往来した、国道341号玉川大橋の下に、我々の姿はあった。
実はこの日付って、森吉の粒沢へと合同調査に行く3日前。
私も細田氏も、この鎧畑探索の3日後に玉川源流の一つである渋黒沢上流から峰越で森吉粒沢へと入山したのだった。
もちろんそのときにも、行き帰りに玉川大橋は渡った。

玉川大橋の直下は既に鎧畑ダムの湛水域だが、夏場は滅多に水没することはなく、旧国道から砂利道で車ごと降りることも出来る。
そこは、一面の草原だ。



なんだか、車のCMのワンシーンみたいな写真が撮れた。
適当な草原に車を止めて、いざ対岸の軌道跡目指して探索を開始する。
しかし、この時期の風物詩(?)として、車を出ると猛烈に虻が集ってくる。
しかも、虻は人を好んで刺すし、刺されると一週間ぐらいは腫れが引かないし痒いしで、蚊の数倍は質が悪い。
そんな虻には、市販の虫除けスプレーは殆ど効果が無く、例年この時期の山行ではうざい存在だ。

対策としては、ハッカ油というのは今年初めて試してみたのだが、かなり効果覿面だった。
約一日分で800円程度とやや高いのだが、薬店薬局でも品薄気味になっているほどで、天然素材ながら害虫忌避効果の高さが人気のようだ。
また、車に寄ってくる虻は、アイドリングを止めてしばらくすると、全くいなくなる。



改めて、今回探索を企てた範囲を地図上で紹介しよう。

左の地図の灰色の実線の部分が、今回の計画範囲である。
たいがい地形図に示されている水線は水量が最大の場合の汀線なので、ダム湖の場合は渇水時の地形が地形図から読みずらい。
そこで、旧軌道がまだ現役で描かれている昭和初期の地形図を持ち出してきて、現在の地形図上にトレースしたところ、左の地図のような旧軌道敷きが明らかになったのである。

これまで私が探索を完了しているのは、緑色の実線の部分に限られる。
玉川大橋より200m程度南下した地点まで行ったことがあったが、そこには大変短い素掘り隧道一門があった。
大橋より上流にも数本の小隧道が確認されており、これらはあまりにも短かったせいか、旧地形図にも記載がなかった。
旧地形図に記載がある隧道は、ダム湖のただ中にある一本だけなのだが、これまでこの隧道の坑口は確認されたことがない。
推定では、その坑口は喫水線よりも20m程度深い位置にあるようだ。
並みの渇水では、とてもその姿を確認することは出来ないと考えられていた。

しかし、今回読者から提供された写真の穴は、これまで見たいずれの隧道とも明らかに異なるし、喫水線から坑口までの比高も優に10mを越えているようだ。
もしかしたら、この隧道こそが、まだ見ぬ最深水没隧道なのではないだろうかと、私は考えた。

今回の計画では、玉川大橋から軌道跡を可能な限り下流へと進むことにした。



湖畔の探索と言うことで、濡れても良い装備で進行を開始した我々だが、なんと右岸へと渡るどころか、左岸の川岸に到達する以前に、パンツまでぐっしょりと濡れてしまった。

細田氏の下半身を覆い隠す一面の花畑は、朝露をたっぷりと含んでおり、あっという間に我々を湿らせたのだった。
我々の進路上には、車から河畔までどう歩いても50m以上の草原があり、この濡れはいかんともしがたかった。

まあいい、迷いは早く捨てた方がいいからな(笑)。



河畔に辿り着いてから、玉川大橋の対岸を見返す。

この広大な草原もまた、冬期や春先の最大水位時にはすっかりと冠水している。
それなのに毎年これだけの植生が発生するのは、地中に落ちた種子が零度近い水面下で数ヶ月も生きながらえて、春を迎えていることを意味する。



そして、玉川の流れ。

って、殆ど何も流れていない。
ただ、だだっ広い河原が天日をもろに受けてジリジリと熱せられている。
川幅は広く、相当の水量を想像させる姿なのに、まったく気持ち悪いほどに水はチョロチョロとしか流れていない。

そして、この原因はたった一つ。
この僅か3km上流にある玉川ダムが、玉川を殆ど完全に堰き止めているのだ。
こんな無茶な水量制御をしても、我々のすぐ下流は鎧畑ダムであり、二つのダムの連携により、より下流の玉川の水量はほぼ完全に人工制御されている。
この景色だけ見ていると、異常な干魃を想像させるが、これはあくまでも玉川ダムがもたらした一時の姿でしかない。

躊躇いなく、我々は玉川を徒渉し、軌道跡のある右岸へと移った。



2003年に探索した7号隧道(仮称)から300mほど下流の右岸に我々はいた。
下流方向へと、明らかに築堤と分かる緩やかな曲線が、相当の距離続いているのが見える。

一見、一面の夏草に覆われて大変歩きづらい場所に見えるかもしれないが、実際にはそうでもない。
春までは湖底に沈んでいただけあって、数ヶ月以内に生えたばかりの草原は、季節が真夏でありながらも、まだ新芽のようにしなやかで鮮やかだ。
草原でも河原でも、どこでも好きな場所を歩くことが出来た。

それにしても、なんだかメチャクチャ気持ちいい廃線跡です。
眺めが日本離れしているというか…、北海道の夏の湖とかってこんな感じか?



右の写真は、2003年11月に撮影した写真である。
比較のためにご覧頂きたい。

これはちょうど、7号隧道(仮称)の南口から下流を撮影したのだが、いま我々がいる草原などは完全に湖底に沈んでいる事が分かる。



玉川大橋直下から約1.2kmほど玉川を下ってくると、ご覧のような広大な草原が現れた。
このあたりまで来ると、さすがに脇の玉川は湖面へと変わっているのだが、対岸との距離は20mほどしかない。
ここまで水位が下がっているのは初めて見た気がするが、毎年夏場はこんなだったのだろうか。
いずれにしても、数ヶ月前は湖底だった陸地の面積は広大で、東京人だったらおもむろに東京ドーム換算したくなるほどだろうし、秋田県人だったら、こまちスタジアムに換算したくなるだろう(なりませんか?そうですか。)

ともかく、この景色はちょっと衝撃だった。
なにせ、この浮かび上がった草原というのは、ダム湖が出来る以前には、集落や田畑、その生活を支える山林であったと考えられるからだ。
記録によれば、水没した集落は尻高集落一村で11世帯。
田畑15ha、山林76ha、水没道路は県道と林道の合計で22kmあったという。
特に軌道敷きについて水没した記録は残っていないが、おそらくは当時の「林道」というのが、それだと思われる。

尻高集落は、旧軌道の対岸で国道側つまり左岸にあったようで、いま我々が立っている草原は、かつて軌道が鬱蒼とした林の中を築堤で突き進んでいたのだと想像できる。
それとにた景色は、玉川林鉄に下流でも見られる。

この地が一年の半分以上を湖底で過ごすようになって半世紀を経過しつつあるが、未だたくさんの伐根が墓標のように立ち並んでいた。



地形を観察してみても、水田の跡などがあるかと思ったのだが、軌道の築堤以外に人工的な痕跡は見つけられなかった。
ここに沈んだものは、村共有の財産だった山林であったのだろうか。
ダムの最大水位線までは、青々と茂る夏の森が押し寄せてきている。
だが、ここにこんなに肥沃な草原があるのに、森はこれ以上前進できない。

よく見ると、森の木々のなかには、部分的に固まって杉も混じっている。
おそらくは、かつてダムが出来る前に造林されたものなのだろう。
しかし、いまはもう、我々のように時期を選んで水を避け、徒歩で立ち入るしかない森。
とてももう、管理されているとは思えない。



さらに下流へと、灼熱の日光に喘ぎながらも、我々は前進した。

いよいよ、青々と広がる湖面が見えてきた。
読者さんから頂いた写真の隧道は、いま見えている湖畔のさらに下流と思われ、さすがに水位が低まっているとはいえ、接近することは出来ない感じだな…。
まあ、そこまでは行けなくとも、その手前にも、いままで時々見えていたけれど近づくことがなかった隧道が、二つも、あるはずなのだ。

そして、その二つの隧道のうち一つめが、乾いた大地の向こうに、見えてきた。



草原は約700mも続き、鮮明な築堤が続いていたのだが、その穏やかな地形にも終止符が打たれる。

無名の沢がダム湖に注ぐ合流地点の先に、その隧道は見えていた。
既に、出口も見えているから、相当に短いらしい。予想は出来ていたが。

そして、これは今回初めて近づいてみて気がついたのだが、この無名の沢を跨ぐ場所には、木橋の橋脚の痕跡があった。
やや幅広の沢だったらしく、並んで2カ所の橋脚跡が確認された。




旧軌道の橋梁跡。

何の変哲もない木橋だったと見える。
路盤との高低差もほとんど無く、穏やかな地形であったことが伺える。

そして、いよいよ隧道が間近に迫った。

岩場にぽっかりと開いた口が、塞がらない。

あれ?
「岩場にぽっかりと空いた隧道に、我々の口が塞がらない」の間違いだ。



橋脚跡からいま来た方向を振り返って撮影。

細田氏と比較しても、以下にダイナミックな草原が広がっていたのか、感じていただけるだろう。

また、彼の右側に二つばかり見える石は、かつて橋梁の橋台を形成していた玉石と見える。
殆ど埋没してしまっているが、位置的には十分に考えられる。
木橋は、20m以上もの長さがあったようだ。



遂に接近!

これまで対岸から遠景しか確認できなかった、第六号隧道の姿である。
歩き出しから、ちょうど30分が経過し、時刻は午前8時30分。
距離的には、玉川大橋から1.6kmほどの場所で、推定される軌道跡は、この下流にダムまであとさらに3〜4kmも続いている。
しかし、いい加減汀線が近づいてきているが…。

ともかく、いまはこの隧道だ。
この軌道上で見られる他の隧道と同様、ガチガチの素堀である。
しかし、大迫力な岩盤直抜き隧道である。
シルエットも、美しい。





 かなりシチュエーションの良い廃線跡に、

 次回、 キターーーー! 連呼の予感?!






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