隧道レポート 金沢市夕日寺町の廃隧道(夕日寺隧道) 第1回

所在地 石川県金沢市
探索日 2018.11.13
公開日 2019.04.04


※このレポートは、隧道レポート「金沢市御所町の廃隧道」と内容を共有しており、当該レポートの既読を前提としていますので、先にあちらを読まれることをオススメします。


御所隧道(仮称)の探索をした同じ日、その直前に行ったのが、この夕日寺隧道(仮称)だ。
御所隧道から約2.5km東南東にあり、同じ尾根筋を貫いている。

この隧道を知ったきっかけは、御所隧道探索のきっかけとなったぶるにゃん氏の投稿である。
そこに「夕日寺隧道」という名前が出ており、当時ぜんぜん土地鑑がなかった私としては、妙にノスタルジックなそのネーミングに興味をひかれた。
それで手元の地図(右図)を見てみると、金沢市東部の金腐(かなくさり)川流域に、まさに夕日寺(ゆうひでら)町という地名(町名)が見つかったうえに、そこに1本だけ長くて細いトンネルが描かれていたものだから、まさしくこれが「夕日寺隧道」なのであろうなぁと簡単に納得してしまった次第である。
(ただ、厳密には、隧道のある場所は夕日寺町ではなく、隣の東長江町であるし、隧道の正式名も明らかでない。)

夕日寺という変わった地名の由来について、『角川日本地名辞典石川県』の解説によると、「地名は河北郡五箇(ごか)荘にある朝日村に対して名づけられたとも(加賀志徴)、越中国射水(いみず)郡朝日の観音に対し、行基が当地に夕日寺を建立し、寺号が地名となったとも(三州奇談)、また同じく越中朝日の観音像と当地のものが同木でつくられており、朝日のものが本木、当地のものが末木にあたることから夕日の名が付けられたともいわれる(加越能御絵図覚書)」というふうにいくつかの説を上げているが、いずれも朝日という地名との対比であるところが印象的だ。全国に朝日を冠する土地はたくさんあるが、夕日は珍しい。昔から朝日は縁起のよいものとされていたが、夕日には不吉なイメージもあるせいだろうか。


夕日寺隧道は、興味を持つきっかけとなった御所隧道とは異なり、最近の道路地図や最新の地理院地図(右図)にもしっかり表記されている。

それゆえに、私は何の事前準備も……気構えもなく、向かってしまった。

コノヤロウ!と思ったが、後の祭りであった。

これ以上のネタバレは止すが……、

右図の通り、隧道はいかにも狭そうに描かれているし、それに結構長い。読図によれば、160mくらいの長さがある。廃隧道だけではなく、狭小隧道も大好きな私としては、そそられるものがあった。だからこそ、本格的な廃隧道探索となる可能性を感じていた御所隧道をやる“前哨戦”として、いっちょこの夕日寺隧道を揉んでやろうという気持ちになったのだった。

そんなわけで、探索は御所隧道の直前であった。
そのために私にとって金沢市内初探索地ともなった。
2018年11月13日(火)午前6時過ぎ、朝日が昇る前の夕日寺町に私は降り立った!




夕日寺町で香ばしい出迎えを受ける


2018/11/13 6:22 《現在地》

また不興を買いそうな薄暗い写真で恐縮です。
ここは金腐川沿いを走る石川県道210号清水小坂線、夕日寺町バス停の前だ。
夕日寺町の集落は川沿いの低地ではなく、ここから市道を少し上った所にある。
そして目指す隧道は、集落背後の稜線直下に近い高所である。

私は今から5分ほど前に、すぐ近くの旧県道路肩から自転車に跨がって出発したばかり。
額に光らせているライトは間もなく消すことができるだろうが、その後すぐに夕日寺隧道と御所隧道を照らして貰わなければならない。この2本の隧道を終えるまでが今日の最初の探索である。(既にレポート公開済みである御所隧道の探索開始時刻が9:11、あと3時間近くあるのは……)



夕日寺町の入口には、上の写真に見える背の高い立派な石標と、右写真の石版が掲示されていた。

石標には、「千手観世音菩薩安置所」「昭和五年●月一日建之」と書かれており、この地名の風光よろしき地(実際の景色はこれから見る)が、古くからの観光地(観光というよりは巡礼といったほうが相応しい旅行者向けかもしれない)でもあったことが伺えた。

石版は、「夕日寺観世音ノ由来」と題字されており、次のようなことが書かれていた。隧道のことは出てこないが、ぜひご一読を。

寺伝ニヨレバ養老年間越州ノ泰澄大師ガ医王山ヲ下リテ当地方ヲ巡錫中一夜洞窟ニ宿リ夢ニ越中上日寺ノ観世音菩薩ヲ拝ミ覚メテ後西方ヲ仰ゲバ山上ニ瑞雲タナビキ夢中ノ観世音光明赫灼ト示現シ給エルノデ歓喜ノ余リ荊棘ヲ分ケテ同所ニ至レバ香気地ニ薫ズル辺ニ一柱ノ嘉木ヲ得タ大師乃チ一刀三礼恭シク二体ノ観世音ヲ刻ミ堂宇ヲ建立シテ養老山夕日寺ト名ヅケ更ニ白山権現ヲモ合祀シ尚余木ヲ以テ一対ノ高麗犬ヲ作リ共ニ寺内ニ安置シタトイフ
  昭和三十年三月石川郷土史学会

このように、夕日寺の建立にまつわる敬虔な宗教的場面が描かれているのだが、山中に光明を伴って現われた神仏を見た泰澄(たいちょう)大師が、「歓喜の余り荊棘を分けて同所に至る」という場面は、対岸に隧道を見つけてしまったオブローダーの行動そのものである。仕方ないよね、夢中になっちゃったならもうね。(初っ端からこんなことを茶化していたから、バチが当たったか……)



6:28 《現在地》

県道は標高40m付近を通っているが、夕日寺町の集落は50〜80mくらいの南向き緩斜面に塊村的な立地をなしている。
石標の地点から入ると最初から結構な急坂道で、しかも幅が狭い。路面が凍結したら集落へ出入りできるのか心配になるような道路風景だったが、地図を見るといまは西側に新しい少し緩やかな市道もあるようだった。

写真は、新旧の市道が合流する、おそらく集落の中心的な交差点だ。
昔ながらの掲示板が設置されていて、いかにもそれっぽい。
正面の道が最短距離で隧道へ向かうルートであり、私もそこを通ったが、少し迂回するやや広い道もあって、集落の抜け方は一つではない。
この辺りは隧道と直接関係がある道ではなさそうだし、とりあえず集落を抜けるまではと、一生懸命に自転車を漕いだ。
寝静まっている時刻ではないはずだが、途中で人の姿は見なかった。



6:30 《現在地》

海抜40mから80mまで、私が通った最短ルートは約400mで上り詰めた。計算上の平均は勾配10%となり、道の急さがよく分かるだろう。
写真は集落の一番上の辺りで、左に見えるのは弥名寺というお寺さんだ。地名となった夕日寺という寺は現存していない。
隧道へ行くには、ここからさらに昇る必要がある。

スリップ防止のパターン舗装が敷かれた極めて急な坂道を少し進むと、チェンジ後の画像の分岐地点に出た。
今度は切り返すように右の道へ入る。そしてまた少し上ると、夕日寺観音堂と菅原神社がある。



集落全体を見下ろす高まりに、高い社叢を従えて、夕日寺観音堂と菅原神社が並んでいる。
解説板には、先ほど入口で読んだ石版の内容が繰り返されていたが、新しい情報もあった。
例えば、開山者である泰澄大師のこの地での足取りについて、「医王山を開山した後、三ノ坂往来を通られ、一夜洞窟で「上日寺」の観世音菩薩の礼拝を夢に見て…」と書かれていた。

探索時はこの記述を素通りしたが、御所隧道の机上調査で「三ノ坂越」という古道がここを通っていたことを知っている今ならば、大師の巡錫が伝説ではなく実際の出来事だったという実感が湧く。ちなみに、夕日寺における三ノ坂往来は、これから向かう隧道によって下を潜られている。

なお、この観音堂は南北朝時代の兵火で失われた夕日寺そのものではなく、延焼を免れた千手観音菩薩と狛犬を安置していた菅原神社の隣接地に、大正5年に改めて建立されたものだという。夕日寺の旧地は、「三ノ坂往来」の「堂屋敷跡」と呼ばれている場所(ここよりもさらに奥)にあったと考えられているそうだ。



観音堂前の路上から見渡す夕日寺集落の眺め。

歴史を感じさせる瓦屋根の家並みが並んでいるが、その立地がすばらしい。
集落と背比べするように見える川向いの朧に紅葉した山並みが、八雲立つ空に映えていた。
この彼我の対比が、この地の高度を実際より遙かに高く感じさせる効果を生んでおり、
名の知られた境内都市に通じるような神聖の空気を演出していた。



地図の上では大都市金沢の中心街から6〜7kmしか離れていないこの場所に、
このような古い街並みが、特別に保存された様子もなく自然に残っているのは興味深い。
金腐川沿いの数あるニュータウン開発は、この隣にある東長江地区で止まっている。
それが金沢の成長の限界なのか、自制から来たことなのかは、分からない。

集落を出ると道は直登を止め、トラバース気味に山腹を渡るようになった。
しかし依然としてかなりの急坂であり、しっかり力を入れて漕がねば進めなかった。




6:35 《現在地》

観音堂から120mほどで、海抜約90m、地図に描かれている隧道までの最終分岐点に達したが、


察した!

隧道の現状を察した。

隧道への唯一路である直進が、封鎖されていた。


それも… こんな…… ↓↓↓



隧道」を「」と書いちゃうような
おバカ看板に!

しかしこの看板、一笑に付して終わるには惜しい貴重な証言者かもしれない。

看板の全文は、「この先 隊道(トンネル)崩壊に付危険 通行止 夕日寺町生産組合」というもので、
最新の地図に描かれている隧道が、「崩壊の恐れ」ではなく、「崩壊に付通行止」と言い切られている衝撃もさることながら、
看板設置者が金沢市ではなく、「夕日寺町生産組合」となっていることは、道の素性を知る手掛かりになりそうだと思った。



これと一緒に掲示されていた小さめの看板には、こう書かれていた。

農・林道につき 一般車両の 通行を禁ずる 夕日寺町町会

はっきり、農・林道であると書かれていて、いわゆる道路法の道路ではないことが明示されていた。
農道や林道は、道路管理者の一存(本来の農道や林道としての利用に支障があるとの判断)で封鎖できる点で、
十分な理由がなければ決して一般通行を遮断できない道路法の道路と扱いが異なっている。

この看板は内容的に見て、隧道が封鎖される以前から付近に設置されていたと思われる。
設置者は夕日寺町町会となっており、この農道か林道の実質的な管理者になっているのかもしれない。
おそらく本来の農道や林道の管理者は、夕日寺町生産組合であろう。



……それにしても、見れば見るほどアナーキーだ、この看板群…。

ヘロヘロになった大小3枚の看板が、A型バリケードにチェーンとワイヤーで雁字搦めに固定されているというのは、
わが国の普段の道路行政の態度からは余り感じられない、カオスの匂いがする。やっつけ… 手作り感がとても濃い。

そもそも、一般の利用に供さないと管理者が定めた農道は、道路交通法の適応外であるなど、
市町村道以上の魔境であることは定説だ。それだけに、この通せんぼの向こう側は、怖い。
私の道路探索者としての理性が、そう訴えかけてきていた。



6:36 入(にゅう)。


滅(めつ)。

恐ろしく薄暗い夕日寺町の農道か林道へ、隧道目指して進入開始。


つづく


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