アクシデント100連発! 「雨や雪にやられた話」



悲劇! 雨ガッパ誤認事件 (県北雨中行軍三部作第一話)
彼は、全く気づいていなかった、そう、びしょぬれになるまで…
1995年 キャンプサイクリング 1〜3日目
飽和度:200% 過飽和!これ以上濡れられない!     
屈辱度:80% カッパをちゃんと装備しましょう。     
 皆さんは、雨ガッパとウィンドブレーカーを区別できるだろうか?

この命題に、真っ向から立ち向かった一人の男がいた。
その男は、悲惨な運命を辿ることになった。
それもそのはず、降りしきる大粒の雨の中、彼が身につけていたもの…
「雨ガッパ」と信じ、その防水効果に全幅の信頼を置いていたそれが…
実は、ただの、ウィンドブレーカーだったのだから。

 彼は、雨の中、あっけなく己の体が、びしょぬれになった後、これはカッパじゃないんじゃあ?
と考えたが、遅かった。
すでに、彼の体には取り返しのつかない深部まで、雨水が浸入していたのだから…。
しかしそれでもやむことの無い豪雨の中、3日目に比内町の農協かなんかで、紛れも無いカッパを購入するまで、それを着つづけた。

 ここに、そのときの一枚の写真が残されている。
余りに生々しい、悲壮な光景である。 はっきり言って、公開にはためらいを禁じえなかった…。
しかし、今、ついに公開しよう。 これである…
 撮影者のカメラ内部にも雨水が浸入したため、お見苦しい写真で申し訳ないが、これは、2日目に霧雨の続くブナ森林道ピーク付近で撮られたものだ。
右の人物が、身につけているもの、それこそが、問題のカッパである…。

 …今見ると、
全然カッパには見えない。
いま、そう思った。はっきりと。
 なぜだ!
なぜ出発前、俺はオカンにそういわなかったんだ〜〜〜〜〜〜〜!!
おっと、この惨めな男が俺であると誤解されそうなので、最後に左の人物についても触れておこう。

 この男こそが、保土ヶ谷だ。
しっかりとカッパを身につけていることが見て取れる。
「赤いもの」が彼の愛車に掛かっているが、それが、「ごじーらくん」と呼ばれるものだ。(詳細不明)

 ちなみに、撮影者ホリプロの状況は、一見カッパを着込み、安寧なようであったが…。
彼の悲劇は、この日の終わりに明るみになった。
詳細は、寝袋冠水事故の項を参照されたい…。

 ああ、雨はなぜこれほどの犠牲を強いるのか?!
惨劇の夜! 寝袋冠水事故 (県北雨中行軍三部作第二話)
彼は、全く気づいていなかった、そう、その身をゆだねるまで…
1995年 キャンプサイクリング 2、3日目
飽和度:200% 過飽和!これ以上濡れられない!     
屈辱度:70% 寝袋の防水処置は必要です。     
 1995年のキャンプサイクリングは、トリオにとって最大の困難であった。
出発日から、期間直前まで延々と降り止まぬ雨は、全員の命をも、その身から洗い流すおそれすらあった。
地獄の山チャリであった。

 その地獄をいっそう悲劇的に彩ったのが、この事故だ。
私は見た。
ホリプロの寝袋は、ホリプロの愛車「アルカディア」の後部に括りつけられゆれていた。
勿論、この雨だ。防水のために大きなビニール袋の中にその姿が見て取れた。
そのビニール袋の中に、透き通った雨水が、涼しげに揺れていた。
それも止むを得ないだろう。この雨なのだから。
問題は、その揺れる水に、彼の寝袋が、直漬になっていた点だ。

 トリオのメンバーで唯一彼は、命の塞である寝袋の、二重包装を怠ったのだった…。

彼の惨劇は、夜訪れる。
「なんか、寝袋の中しけってるやぁ…」
から始まったのだった。
実際、彼の寝袋は、左半身、特に下半身を包むべき一帯が、かなり、びしょぬれだった。
唯一の体力回復の場が、この有様では、彼の命も危ぶまれた。

 奇跡的に彼も、雨音の中、翌朝を迎えることが出来た。
彼は、一晩中何度も体をひねり、必死に生き延びたのだった。

 我々は、教訓を得た。
真に重要なのは、雨ガッパ云々ではないのだ。
命のとりで「寝袋」なのだということを。


 彼の犠牲によって…。

※本文のこの写真は、とりあえず関係ありません。
怪奇! 「宇宙人の足」事件 (県北雨中行軍三部作最終話)
彼らは、全く気づいていなかった、そう、その雨のやむまで
1995年 キャンプサイクリング 3日目延長戦
飽和度:70% 止まない雨はないのです。     
屈辱度:0% 彼らは良く戦いました。     
 95年のキャンプサイクリングは、劇的なフィナーレを迎える。

 三日目には、我々は誰一人として濡れていない場所が無いほに濡れていた。
結局全く天候の改善せぬまま、旅は日程上の後半戦に突入していた。
八幡平から比内町に移動し、ここではじめてカッパを購入。(もう遅い)
 今思うと、余りに無謀だが、その目的地は白神山地の奥地「藤里町くるみ台国設野営場」にあった。
しかしながら、連日到着予定時間を大幅に超過しており、この日は、ついに計画の変更を迫られた。
目的地変更「鷹巣町田代岳キャンプ場」。
峠一本分計画は縮小された。それでも容赦なく夕暮れが迫ってくる。
最後に人家があった集落でキャンプ場までの道のりを尋ねていたのだが、そのオヤジの発言とは余りに食い違う現実がそこにあった。

 田代岳に向かい一直線に切れ込んでゆく薄市沢の濁流に沿い、急で、荒れ果てた林道(薄市林道)を登ってゆく。
あっという間に日は落ち、あたりは真っ暗になった。
もはや天の堰は壊れてしまったらしい、降り止まぬ雨は一際強くなり、頭上の木々の葉っぱで集められ、大きな大きな水滴となって降り注ぐ。
道は続いている。
か細いチャリのライトでは、全然先が見えない。
心細さは頂点に達そうとしていた。一人なら、間違いなく発狂するであろう状況…。

 結局キャンプ場が現れたのは、林道を小一時間(何が、15分だ!オヤジぃー!)も走った後、その林道の終点においてであった。
しかしそれは、期待していたものと余りに違った。
そこにあったのは、閉鎖された山小屋一軒と、出ない水道。真っ暗な辺りに人一人いるはずも無く…。
 「こんな場所に泊まっては、命が危ない。」
そう思ったのだろうか…、誰からとも無く、ある意見が出た。それが一瞬にして全員の総意となった。

 それは、「今すぐ家に帰ろう」という、他愛も無い単純な意見。
何だ、退却かと思われるだろうが、考えてみて欲しい、そのとき我々があった場所は、秋田市から最も離れたような白神の奥地である。時はすでに7時を回っていただろう。どう考えても、100Kmはある。家にたどり着いたとしても、間違いなく明日の明け方以降であろう…。
 それでも良かったのだ。
ただその時は――くさい言い方になるが、生活の、家族のぬくもりが、欲しかった。
その目的のためなら、残りの全ての体力をささげても良いと、考えたのだった(少なくとも俺はそうだった)。

 夜通し走りぬいた我々は、(途中いろいろあったが…、ホットドリンクが欲しくてたまらなかったこととか、保土ヶ谷の財布紛失、直後の着替え落としと、それに伴う一時パーティ解散、川となった国道で足首まで水に浸かったこと、忘れもしない俺の居眠り運転事故、寒くて侘しかったきみまちでのトンネル内食事休憩、富根では歩道の無い国道を避け農道に立ち入りさんざん迷ったこと、夜明け前もはや(睡魔で)動けず道端で仮眠を取ったこと(俺だけ?)、そして、雨がついに上がり、夜明け。
長い長い、充実とはまた違うんだろうけど、忘れられない夜だった。

 能代。
 晴れ。

 八竜。
 晴れ。

 そして、やっと表題の「宇宙人の足事件」である。(ホント長かった。)
何の事は無い、ふと靴と、靴下を脱いで見たら、己の足が、脳みそのような模様というか、しわくちゃな形状と化していたということ。
色はモヤシ色。
唖然となった。
もう完全には元に戻らないんじゃないかと、まじめに怖くなったが…すぐ戻った。
しかし、未だかつて、あそこまで肉体へのH0飽和実験を試みた奴がいたであろうか!!というほどの、有様であった。
それを見て誰から言い出したか、ついた名前が、「宇宙人の足」。言い得て妙なり。

 ちなみに、この旅はもうちょっと続くのであった。
メロン祭りオヤジ、ホリプロロングターボ!、さらには保土ヶ谷もまけじとターボ(俺既に鈍行各駅停車)、なぜか、遠回りして船越の中古ゲーム屋”JUMP”に寄り道(俺、セガサターン用ソフト「クロックワークナイト 上巻」購入。クサッ!)、二田から出戸浜までの異様に遠く感じたこと…、…

 帰還。
 晴れ。

全員無事。
今思い出すだけで、鳥肌が…。
1997年10月25日 鳥海山
飽和度:100% 完全濡れ!     
屈辱度:50% 天候には逆らえません。     
 今思い出すだけで、ぞっとする旅があった。
今俺の持っている、雨へのいやな印象を最も決定付けたのがこの旅だった。

 目的地は、鳥海山。
まだ輪行を知らなかった当時、秋田市から鳥海山への日帰りは、前夜からの出発を余儀無くした。
出発し、国道7号を黙々と、南下。
最も辛いのが、秋田本荘間の歩道もままならない単調な30Km余りだ。

 走っていると、次第に体に当たる空気が生ぬるくなってゆくのを感じていた。
実際に、出発時より気温が5℃以上上昇していたのだ。
その上、時折、遠くの空に雷光が無気味に光りだした。
相当に遠いらしく、音も無かったが、いやな予感は、的中するためにあるものだろうか?

 この単調な道は、いつも眠くなるが、この日の睡魔も容赦なかった。
ついに耐えかね、岩城町鶴潟のバス停で仮眠。

 一時間もたたず起きる。まだ真っ暗だ。それは良い。
今度は異常に、気温が下がっている。
この気温の変化は、予感を確信に変えた。
 「雨がくるな。」
出発前に見た最後の天気予報は、確か曇りであったはずだ。
 「行けるはずだ。降っても、通り雨だろう。」
己に言い聞かせ、なかなか明けぬ夜を、ただひたすら、走った。
明けが遅かった、よほど、雲が厚いのだろうと想像させた。

 目的地は、鳥海山5合目鉾立にあった。
当時の自己最高到達高度更新を狙った、単目的の旅だった。(今なら贅沢になっちゃって、絶対こんなプランじゃ行かないなー。)
目的は達成された。
結局、山形県遊佐町側から元有料道路の鳥海ブルーライン(現県道)を登り、標高1130m(だったと思う)の、鉾立てに至った。
そこまで、時折通り雨があったものの、何とか雨ガッパでしのげるレベルにあった。

 ロッジでしばし休み、いよいよ帰途につこうと、外にでる。
驚いた。
雪だ。 雪が舞っていたのだ。
気温は1℃を指していたのだから、異常でもないのだろうが。
こんなところで路面でも凍結されたら、堪らない。それこそ生きて降りれるか自信が無い。
慌てて、今度は秋田側に下り始める。
まもなく、登りがそうであった様に、九十九折を交えた、急な下りが始まった。

 …最も辛い下りであった。
少なくともこれまでで。

 なぜならば、雪は雹に、そして、すぐに霙に変わった。
時速40Km近くで走るとき、雨は上から下から、前から、あらゆる部位を一瞬で濡らす。
当然カッパ装着していたが、先ず、靴が死んだ。
ついで、目が死んだ。
ビニールの雨合羽は、湿気100%のこんな状況では、体が発したホンの少しの水分でも、排気することも出来ず、内側から濡らしてゆく。
結局、1000m以上も下って、里に降りた頃には、もう、いやな状況としかいい様が無かった。

 その後、霙は雨に変わっていたが、最後まで、止まなかった。
最後……、そう、家に着くまで降りつづけたのだ。
雨の中、来た道と同じ道をただひたすら走る。
まもなく、夕闇を迎え、それでもまだ本荘だった。
完全に真っ暗になった頃、朝に仮眠した岩城町を走りぬいた。寒い。
世の親父たちが、晩酌している頃、秋田市に終に、至った。寒すぎる!
が、当時、俺は天王町に住んでいた。 まだ20Km近くあった。
小学生の、就寝推奨時刻を越えたころ、やっと家に着いた。
顔がまっ青になっていた。でも生還。日帰り230Km。

 結局、余りにバカな計画と、天候の不運に祟られ、嫌な旅として、記憶に刻まれた。