灰内沢での水路橋発見から3週間後、今度は独り自転車で、小阿仁川上流の谷間に来ていた。
ここは小阿仁川沿いでは最上流の集落となる八木沢で、灰内沢出合から本流を約3kmさかのぼった所にある。
ご覧の通り、山中としては願ってもない平地に開けた美しい集落だが、この日は本格的な冬を前にした1週間ぶりの晴天とあって、各家の軒先には冬囲の準備をする住民たちの姿を見る事が出来、普段以上の活気を感じる事が出来た。
私がお話しをお伺いしたご老人もそんな住人の一人で、今は秋田市内に住んでいるが、今日は戻って作業をしているとのことであった。
この日私がここを訪れた元よりの理由は、3週間前の水路橋の再調査などではなく、全く別件だった。
水路橋については前回満足していて、それ以上をことさら期待することもせず、次第に忘却の世界に傾きつつあったのだ。
しかし、私の聞きたかった廃道の話し、そしてかつてここを通じていた林鉄の話しと気分良く話し込んでいるうちに、最後に思い出して、「そういえば、水路が…」と切り出したのが発端だった。
結果、分かった。
水路全体のアウトライン。
なんでもこの水路、建設されたのは戦時中とのことで、目的は予想通り発電用。
小阿仁川の水を八木沢集落のすぐ下流で分水し、左岸の地下にほぼ水平の水路を掘ってこれを導水。約4.5km下流の大錠(おおじょう)地区で再び小阿仁川に水を落すが、このときの落差(推定50m)で発電所のタービンをまわして発電を行っていたというから、これは典型的な水路式発電所だったようだ。
実際、稼動していた当時、八木沢集落の人々もこの保全に携わったとのことで、秋場など大量の落葉が導水路に入り込んで水の流れが悪くなると、一時的に水門を閉めて水を止め、カンテラを持って隧道に潜っては、つまりの除去を行うような事もあったという。(あれだけ巨大な水路が落葉で詰まるというのもにわかには信じがたいが、長野県の別の発電水路では、ミズゴケの除去のために導水隧道の清掃をかつて定期的に行っていたという話しを聞いたことがある。或いはそういうこともあったかも知れない)
そしてしばらく水を止めていると、発電所の方から電話が掛かってきて、「水を流してくれ」と催促されるような事もあったと言うから、この通りならば些かのどかな風景を連想する。
しかし、少なくとも戦時中の建設当時は、苛烈な統制下の突貫工事が行われたそうで、朝鮮の人たちが大勢働いていたと仰っていた。当時の秋田県は全国有数の鉱産県であり、山をひとつ挟んだ所に阿仁銅山、また県北部には有名な尾去沢や花岡、小坂といった鉱山もあった。おそらくはこうした鉱山への電力供給を目処とした発電所だったのだろう。しかし、事業者が誰であったかは覚えていないという。
建設の当初には集落の盛衰にも多少の関わりを持ったであろう発電所であり発電水路であったが、その終焉は以外に早く訪れ、県営第一号となる萩形ダムが上流に完成した昭和41年に廃止された。これは同ダムが小阿仁川の水の大半を別の河川に導水するものであったため、流下する水量が極端に減少した事が原因だった。(現在も小阿仁川は川幅の割に水量が少なく、洪水時にのみ大河の様相を呈するが、この人工的な河川争奪の影響があるといわれる)
…こんな風に古老の証言は、件の水路橋にまつわる謎を、ほぼ全て解き明かしてくれた。
私は大いに満足したが、もうひとつ伺うことを忘れはしなかった。
おじいさん。水路の橋は灰内沢の1箇所だけだったスか?
「にゃ。2本あったナ。」
それは、どのくらいの大きさだったスベか?
「ハイナイのと同じくらいだったと思うナ。」
どこにあったんだスベ?
「コンブカサワダナ。」
地図を照らしてみると、なるほど灰内沢の2.5kmほど下流に、小阿仁川の左岸に注ぐ「小深沢」なる沢がある。
そこにも灰内沢にあるものと同程度の規模の水路橋があったという。
そして、そこへの行き方も教わることが出来た。
かつて大錠という集落があった所から沢に入れば、すぐだという。
私は丁重に礼を述べ、八木沢のムラを発った。
目指すは、小深沢の水路橋だ!