このタイトルなのに「橋梁レポート」?
何かの間違いじゃないの??
そう思われるかも知れない。
だが、この県道の近くには、是非とも紹介したい橋が2つある。
この県道、一般県道375号十里塚遊佐線は、右の地図の通りの短い路線である。
遊佐町の役場所在地である遊佐と、海岸沿いの十里塚とを結ぶ、わずか5km足らずの道だ。
だが、この道は2つの顔を持ち合わせている。
一つは西の海岸線近く、砂丘の防砂林を越える小さな峠区間。
残る東側は広大な田園風景である。
僅かばかり、遊佐の街並みの景色もある。
そして、私が紹介したい橋は、ちょうど路線の中程の江地(えち・えぢ)地区にある。
レポートは、終点である遊佐より始まる。
時は夕暮れ。
ご覧頂こう。
霊峰鳥海の南の一角を占める遊佐(ゆざ)町。
平成の大合併でも、巨大化した酒田市に呑み込まれることを回避し、観光に根ざした独自の町作りが模索されている。
鳥海山の奥深い谷川や裾野から湧き出す幾つもの清水。それらを束ねて月光川が平野部を貫流し、松の生い茂る河口をへて日本海へと流れだす、その全てをこの町土は見届ける。
町の最も栄えている所は国道7号の通う海沿いの吹浦(ふくら)だが、役場があるのは町の名の由来となった、ここ遊佐である。
無人ではないが、活況とは到底言えそうもない商店街に、淡い斜日が降り注ぐ。
この町中を縦断するのは国道345号だが、通行量は思いのほか少ない。
そして、県道375号の短い道のりは、この信号もない交差点より始まる。
角を曲がると、ひっそりとした通りが続いている。
時計を見ると、時刻は夕方の4時半。
自転車の高校生が、立ち止まる私を追い越して走り去っていった。
昭和を感じさせる街並みに懐かしさを感じるのは、私がいよいよ30代まで残り一年を切ったからだろうか。
国道と平行して、一本西側を通っている旧国道を突っ切って、県道は海を目指す。
写真の交差点を横切っているのが、1車線の狭い旧国道だ。
商店街を出ると、お定まりのパターンで住宅地が現れた。
歩道もなく、車道にはみ出した電柱がドライバーにうるさがられていそうな道だ。
少し行くと踏切を渡る。
JR羽越線の池島踏切だ。
ただでさえ狭い道が、駅が近いために複線になっている踏切のせいで、更に狭くなっている。
通行量は多くないが、車は詰まり気味だ。
撮影をする私を、今度はスクーターがすいすいと追い越していく。
踏切板を乗り越える時に発せられる独特の軽い音が、嫌に耳障りだった。
砂丘に沈もうと急ぐ太陽の末期的な輝きに目を細めながら、一路西へ向かう。
踏切の先で家並みが途切れ、そこから幾らか行くと、車が多く通り過ぎる道が行く手に現れた。
これも国道345号である。
ここでは国道345号が従来の道とバイパスと、両方とも現道として国道指定されている。
バイパスの一部がまだ完成していないせいだろうか。
町中の国道の車が少なかったのは、この道があるからだったのか。
県道は、この交差点も真っ直ぐ突っ切る。
ここでまたしても、ヨッキ 野に放たれる!
黄金色に輝く沃野の向こう、気の遠くなるほどの時をかけて海が作り出した巨大な砂丘山が、松原を身に纏い真っ黒なシルエットを見せている。
終点は、あの山の向こう側である。
県道は、ここからは何の不満もない2車線の快走路となり、自由な線形を描いて砂丘山の麓を目指す。
車なら、あっという間に着いてしまうだろう。
綺麗な道があると、そこに旧道の存在を疑い、そして探してしまうのは、もはや私の体に染みついた習性のようなものである。
事前に地図と睨めっこをしていた私であったが、この快走路の旧道については確信を持つことが出来ないでいた。
この何の変哲もない県道の旧道が予想できなかったのは、地形に不自然な部分があったからだろう。
集落と川の位置との間に、不自然さを感じていた。
そして私が現地で見たのは、旧道候補だった道にある真新しい橋の姿である。
架け替えられただけなのだろうか?
それとも、これは旧道ではないのだろうか。
答えは、意外とすぐにもたらされた。
橋の名は江地橋。
平成15年竣功であるから新しいわけだ。
川の名前は月光川だ。
旧道が川を渡るにしては橋が長すぎる気もするが、それは単に河川改修が行われたのに併せて橋を架け替えただけなのかも知れない。
と、
普通はそう思う。
私もそれで解決だと思った。
しかし、ここには思いがけない真相が別にあったのだ。
それに気がつかせてくれたのは、この江地橋の上から見えた“もう一つの江地橋”だった。
写真奥に、小さく橋が見えている。
真新しい江地橋を渡ると、現道との位置関係は月光川を挟みあう形になる。
そして、その間隙に江地の集落が広がっている。
それは問題ないのだが、さっき遠くに見えた橋が何を渡っているのか?
それが気になった。
だが、近付いてみると、そこにも川があった。
これは、どこからどう見ても、立派な川である。
そして、不思議なことに、これは地図には無い川だった。
地図にない川の、その川べりの道は、やはり、旧県道で間違いが無かった。
道端に、草に埋もれかけた3kmポストを発見したのである。
地図で測ると、ここは十里塚からは約3kmの地点である。
そして、橋が目前に現れた。
不思議な光景を引き連れて。
橋が架かっている。
しかし、水は全くと言っていいほど、ない。
この川幅をして、この水量は不自然過ぎる。
そればかりか、この川には、もう数ヶ月もの間だ水が流れていなかったのではないかと思われるほど、草生している。
川全体が一様に。
訝しがって来た道を振り返った私は、そこで全てを合点した。
川は、その流れを変えていたのだ。
人の手によって。
それは、廃川と呼ぶべき景色であった。
上流方向を振り返った私は、そこに川を塞ぐ巨大な土手が出来上がっている事を認めた。
土手の上には、先ほど渡った江地橋から続く道が通っている。
江地集落付近で蛇行して流れていた月光川を改良するために、新しく真っ直ぐな河道が掘られていたのだ。
おそらくは、全てが完成したのは平成15年頃のことだろう。
何千年とここにあったろう川が、ほんの数年で姿を消そうとしている。
やがて人は、この不自然な窪地となった川の跡も全て埋め立ててしまうだろう。
だが、今はまだ、川の歴史の残照のような景色がそこにある。
橋があり、河川敷があり、緑がある。
無いのは水だけ。
私は噛みしめるようにして、消えゆくものが集まる、その寂しい景色を味わった。
7トンの重量制限がある通り、この橋の構造はいかにも脆弱そうに見える。
いまでは珍しい存在となったスタイルの橋脚によって、薄い橋桁が支えられている。
この橋脚は、少しでも川の流れの持つ破壊力を体で受けないようにと、そして流れてくる倒木などを逃そうという当時の知恵である。
こうして大規模な河道の変更が行われた事からも分かるとおり、この月光川は流長が短いわりに勾配はきつく、鳥海山の雪解けのシーズンには氾濫することも度々だったのだ。
遂に、すっかりと牙を抜き去られてしまった、暴れ川。
そして、戦い終えて、おそらくは消えゆくだろう橋。
…これは、ドローゲームといったところか。
橋の上から、下流方向を臨む。
左岸の江地集落と右岸の宮田集落。
それを分かつ月光川の蛇行は消えた。
広大な窪地を遺して。
そして、この河道変更によって新たに江地集落は分断されてしまった。
この橋も、「江地橋」で間違いないと思われるが、親柱4柱が現存するものの、漢字名の銘板のみ消失している。
竣功年は「昭和卅一年五月」。
今は殆ど使われなくなった「卅」の字は、“じゅう”と読むが30の意味である。(“廿”も同じ読みで20を意味する)
また、当然のことではあるが、廃川にはなっても、銘板は「月光川」のままである。
現存するもう一つの銘板は、橋名の平仮名読みなのだが……。
…見てオドロキ、読んで恥ずかし…。
え
つ
ち
は
し
…ero!
えっち橋を渡らず、そのまま廃河川沿いの旧県道を進む。
右手には、集落内で大きく蛇行する川の跡。
旧県道は、集落内の生活道路となっており、狭いが手入れは行き届いている。
玉龍寺というお寺が廃河川と旧県道の間に建っている。
その横を通り抜けて更に進むと、大きく蛇行してきた川が再び現河道に近付く。
そして、そこにはご覧のような、川をせき止め塞ぐ為の巨大な築堤があった。この築堤の反対側は、普通に現河道の堤防となっている。
旧道が現道へ戻るためには、もう一度月光川を渡らねばならない。
この2度目に渡る橋は「ふれあい橋」という、個人的に好かない名前の橋だ。
銘板によれば平成11年の竣功で、河道の変更はその当時から進められてきたらしい。
図がないと事情が分かりにくいかも知れないので、現地の拡大図を用意した。
今辿ってきた旧県道(赤線)は、旧川に沿って集落内をカーブしていた。
だが、河道が変わったことにより旧道も分断され、その代わりに江地橋とふれあい橋という二つの橋が生み出されたということだ。
そして、旧川に架かっていたえっち橋が役目を終えつつある。
左の写真は上流側。遠くに見える赤い橋がさっき渡った江地橋だ。
旧川は左の江地集落内を流れていた。
一方、右の写真は下流側。
ブルーシートが張られている河川敷が、旧川のぶつかってきた地点である。
あのシートさえ無くなれば、何ら流れに違和感は感じないだろう。
ちなみに、この河道の変化によって、橋が必要になった部分の旧県道は、完全に消失してしまっている。
当然のことだ。
一旦現道に合流するが、すぐにまた旧道が右に分かれる。
旧道は下江地の集落に入る。
右の地図の赤ラインのように走行し、旧道へと進む。
すると、今度はとても目立たないが、2つめの死んだ橋がある。
そこには、橋の欄干と明らかに分かるものがあった。
しかし、橋はもはや地上の一部として埋め立てられてしまっている。
さらに悲しいかな、欄干の一部は取り外され、バス停待合室への通路に変化しているではないか。
こんな惨めな姿で残されている(残っていると言えるかも微妙だが)橋というのも、珍しい。
もう楽にしてあげて欲しいよ…。
橋は欄干の長さから想像するに、もともと3mほどの短いものだったようだ。
小さな川が街から消えていくことは珍しくはなく、むしろ、こんな状況でも欄干が残っていたのが奇跡なのだ。
普通なら完全に痕跡を失っていただろう。
橋を“渡って”振り返ると、普通の人が橋だと気付きにくいのもそのはずで、反対側の欄干は全く存在しないばかりか、ただの民家の家屋になっている。それこそ、川はどこへ行ってしまったのかという状況だ。
本来の橋の下からは姿を消した川だが、そのもの凄く近くから、渾々と湧き出していた。
公園として整備されているわけでもなく、至って自然な感じに大量の水が湧き出している姿は、何とも言えぬ迫力がある。
ただ、やはり勘違いしてしまう人もいるのか、近くには「飲めません」と但し書きが。
確かにこれはちょっと汲みたくなってしまうかも…。
所詮は道路の地下をヒューム管で通されていた川が、ここで地上に出現しただけなのだろう。
昔はちゃんと橋の下を流れていたことは疑いがないが。
この橋の凄いと思うところは、こんな状況でなお銘板が2枚とも健在であるということだ。
川の名前は、江地川。(地形図にもこの名前はない、元々の川ではなく水路だったのかもしれない)
橋の名前は、なかやしきだばし(中屋敷田橋?)である。
健気だ。
本当に。
このようにして、狭い範囲に2つの役目を終えた橋の姿を見ることが出来た。
普段なかなか目にすることのない景色だけに、とても印象に残った。
ちなみに、この江地川は50mほど下流で再び道路の下に姿を消すと、もう道路から見える場所には出てこなかった。
そのあと私は、そのまま旧県道を進んだ。
砂丘山に日が落ちてどんどん暗くなる稲田を駆け、起点である十里塚浜を目指した。
写真は、旧道沿いにあった古い穀物貯蔵庫。
今はもう使われていないようだが、木造瓦屋根の風格のある建物だ。
太陽が水平線へ沈むのが先か、私が海岸線へたどり着くが先か。
現県道に合流し(写真左)、そのまま真っ直ぐ砂丘山の麓の旧街道筋へ進む。
旧羽州街道である現在の一般県道353号吹浦酒田線は、かつて順当に国道7号に指定されていた時期もある。
しかし、昭和に入り現在の海沿いの砂丘道に切り換えられている。
以来、旧国道の雰囲気を徐々に薄めつつも、山裾の集落を繋ぐ生活道路になっている。
その県道353号と鍵型に交差し、県道375号最後の区間である砂丘山越えの峠路となる。
上り500m、下り500m足らずの小さな峠越え。
しかし、上りには一丁前にツヅラ折れなどあって、そこから見る鳥海山は優美である。
全てが日陰となった峠。
太陽はもう、沈んでしまったろうか。
勢いよく、峠を下る。
真っ直ぐな下りだった。
十里塚の海水浴場。
季節外れのこんな夕暮れ時、人の姿はない。
果たして太陽はまだ微かに水平線すれすれに残っていた。
そして、いっときも間をおかず、さようなら。
探索、終了!!