山形県酒田市にあり最上川に架かる両羽橋は、2004年より解体工事が始められている。
計画では、3年がかりで完全に撤去されるという。
押しも押されもせぬ日本海岸第一位の幹線・国道7号線にあり、50年以上もその交通を支え続けた両羽橋。
その歴史は、昭和11年に始まる。
一級国道7号線に、それまであった木橋に代わり竣工した2代目両羽橋は、当時の長大橋を象徴するワーレントラスが誇らしげな全長713.9m。
その長さは、竣工当時東北一、全国でも第6位に数えられるものであった。
戦後、交通量の増大や大型化、橋自体の老朽化など、同時期に架けられた橋の多くと同様の問題が顕在化し、さらに悪いことに、橋の南側の袂がちょうど国道47号線の起点の交差点になっていることから、致命的な渋滞に見まわれ続けた。
将来の4車線化が計画されることとなり、まずは現在使われている新・両羽橋のうち上り2車線分が、昭和51年に完成し、新旧橋を利用した4車線交通が行われた。
そして、平成3年になり、新両羽橋の残り2車線が開通したことにより、遂に旧両羽橋は55年間の役目を終えたのである。
その後も再び道として利用されることはなく、現橋に寄り添うようにただ架かっていた旧橋は、平成15年、遂に解体工事が始められた。
旧橋の解体が遅れたのは、ただ単に予算の都合上であったと言われている。
酒田市両羽町と同市落野目の間に架かる両羽橋。
両羽町側が酒田市の中心市街地で、落野目側、すなわち最上川左岸は、今も広大な水田が主体の農村地帯である。
国道7号線は、橋を含め延々と4車線で、落野目の国道47号線との交差点も、まるでジャンクションのような型式になっている。
そして、そこを広田インターチェンジと呼んでいるようだ。
写真は、両羽町側の両羽橋袂の登り。
堤防を緩い上りで登り切ってから、橋が始まる。
現在の両羽橋は、中央分離帯を設けた4車線。
しかし実は4車線分まとめて開通したわけではないのは、前述の通り。
困ったことに、歩道もより新しい下り線の橋にしか設けられておらず、上り車線側にはない。
容易には横断できぬ4車線路でこの有様は、大変頂けない。
そして、目指す旧橋は、この下り線の脇に、一段低く架かっている。
現橋から10mほど下流側に、2003年2月3日の段階では、ご覧の通り封鎖された橋が架かっていた。
2005年の現在では、おそらくかなり解体工事も進んでいることだろう。
さすが東北一位の長さを誇ったこともある橋だ。
700m以上も遠い対岸は、霞んで見える。
轍はおろか、足跡一つ無い雪原が、河川敷に長々と渡っている。
最上川の黒い流れは、まだ遠い。
橋の翼。
この翼部分の造りなど、どうしても秋田大橋を思い出す。
もとより、この橋の造りも、その解体に至る経過や、橋が特に地元に愛され廃止後に記念誌が発行された点など、秋田市で雄物川を渡っていた旧秋田大橋と、この旧両羽橋は、似ている点が多い。
まるで、同じ国道7号線に架かる橋台橋といっても良いとさえ思う。
旧秋田大橋については、以前紹介しているので、先ほどのリンク先をご覧頂ければ幸いである。
延長こそ両羽橋が勝るが、竣工は秋田大橋が3年ばかり古い。
そして、いずれも近年に解体されている。
アスファルトが敷かれた路面は、薄い雪の下で見えない。
チャリは、強引にバリケードの上を放って進入させている。
このまま渡って、対岸へ進むつもりだ。
朝のラッシュにのろのろ運転の現橋を尻目に、快調に雪原を割って走る。
橋は、三つの構造に分かれており、中央部分の4連のワーレントラス、その左右にはそれぞれ4連のポニートラス、さらにガーダーが連なっている。
トラス12連という壮そうたる景色は、現橋の無味乾燥ぶりを嘆かわしめるに充分なものである。
ポニートラスを経て、中央部のワーレントラスが始まる。
水色という控えめな色のトラスは、最上川の清らかで豊富な水量をイメージさせもするし、間近な海から吹き抜ける爽やかな風も感じさせる。
そして、南に月山、北に鳥海山を望む、その素晴らしき眺めが、空色のトラスに邪魔されることなく目に飛び込んでくる …筈、
この日は生憎の空模様だが。
対する秋田大橋が、金色の稲穂をイメージさせる淡い黄色だったのを、思い出した。
ガーダー橋部分には、コンクリート製の重厚な欄干が隙間無く設置されていたが、それでも現在の橋に比べると、ぜんぜん低い造りだと思った。
大人の腰くらいの高さも無かったので。
そして、、ポニートラス部分では、隙間も殆どなかったので気にならなかったが、
トラス部分に欄干無し!
ぎゃはははは。
こりゃ、なかなか恐い。
なんせ、猛烈な冬の海風が、横っ面を殴るし、煽られれば、頼りの欄干もない。
しかも、アスファルトの上には、雪と思ったら大間違い。
雪は全て吹き飛ばされ、あるのは、氷。
真っ黒のアスファルトが透き通る、透明な氷。
もう、まじめにツルッツル。
チャリどころでない。
歩けないほどツルルン。
雪に見える場所も、その底はツルッツルの氷の層である。
排水が上手く成されていないようで、橋上はスケートリンクになっていた。
これは、危険極まりない。
お陰で、写真も殆ど撮れなかった。
ネタでなく、本当に、滑って落ちるかと思ったもの。
幅8mくらいあってこんなに恐い橋は、最初で最後っぽい。
なぜ、
なぜに欄干を取り外しているのか、真意が全く分からない…。
このトラスは、昭和9年の製造で、沃野造船所というところが建築している。
いまも、その刻印がトラスの一部に残されている。
よろよろと走り、何とか渡りきった。
途中何度転んだことか。
写真は、背景に鳥海山。
少し脇に回り込んで撮影。
奥には、一段高い位置を渡る現橋が見える。
全部で幾つの橋脚があるのか、数え切れないほどに、沢山ある。
長い橋だという印象よりも、とにかく、恐かった…。
あの海風の強さは、命の危機を感じさせた。
落野目側の様子。
こちらもしっかりとバリケードで封鎖されていた。
なお、親柱に銘板は一切残っていない。
というか、欄干の状態よりも圧倒的に風化している親柱だが、これには秘密がある。
実はこの親柱、こんなショボイものではなかったのだ。
すぐ傍に、元来の親柱を復元したモニュメントが、立っている。
橋から30mほど離れた場所にある広田地下道(歩道)の入り口に、まるで門番のように二本のモニュメントが立っている。
まるでロケットのような尖塔は、親柱としては未だかつて無い大きなもの。
これが、旧両羽橋の親柱を復元したものだ。
使われている石材は新しいもののようだが、扁額だけは当時からのものだという。
なんというか、ちゃんとした場所にないせいか、安っぽく見えてしまう。
扁額も、これは本物だというのに、周りがショボイと、その辺の民家の表札にしか見えない。
失われゆく橋の思い出を、形として残すというのは良いことだと思うが。
なお、元来の親柱が無惨だったのは、廃止後に故意に破壊されたようだ。
それが、モニュメントの建設と関係しているのかは分からないが。
モニュメントは、この落野目側に二つ、両羽町側にも一つ立っている。
2005.1.22