私のMTB遍歴



1989年 〜 別れと、出会い

 今から14年前、横浜から秋田県天王町に越してきた、当時小学6年生の私。
今は他人の手に渡った、当時の新居に、はじめ、私のチャリはなかった。
それまで乗ってきたのは、当時の小学生にはおなじみだったはずの、センターフレーム上に6段の変速器がついたものであったが、引越しの際、捨てられた。
 秋田に来て、誰一人友達もいない。
言葉も、半ば通じない。
未知の環境だった。
心細かったはずだ。

 わたしは、ほぼ全ての小学生男子がそうであるように、チャリでの遠出が好きであったし、横浜でも度を越して、よく叱られていた。
そして、秋田での、はじめのチャリとの出会い。

…実はまったく記憶にないのだ。
さびしい私を慰めてくれたはずの、初代“山チャリ”。
その出会いの記憶は、どういうわけか、全然 ない。

1991年 〜 初代MTB

 私の記憶の中に、初めてMTBが登場するのが、この頃だ。
中学2年の頃、友人の少ない私ではあったが、すでに保土ヶ谷と出会い、信頼できる友となっていた。
その保土ヶ谷との、最初の“山チャリ”(当時はまったくそんな言葉は知らなかったが)は、自宅近くの出戸浜の防砂林の中、得体の知れないモノとの戦慄の鬼ごっこであった。
そのとき、私の股間には、間違いなくアノMTB独特の細いサドルが挟まっていた。

 この初夏のある日より、わが山チャリ人生の2輪は、回り始めたのだ。
そしてそれは、次第に加速度をつけ、勢いを増していった。
保土ヶ谷と巡った、今思うと余りにも小さな、しかし当時は命がけだったサイクリングの数々に、燃えた。

 しかし、初代の写真はまったくと言って良いほど残っていない。
確か、…黒いボディ、MTBというには余りにお粗末な…ひ弱なパーツたち…、変速は一応ついていたが、後期には、まったく機能していなかった…。
 1992年、ホリプロとも出会い、まもなく「チャリ馬鹿トリオ」(この名も後付けだが)が結成されるに至る。


1993年 〜 脱輪死!

 そんな初代にも、ついに最期の日がおとづれた。
忘れもしない、1993年の夏の日、自宅から10km以上離れた男鹿市船川、当時国道昇格を果たしたばかりだった男鹿大橋を自宅方向へ走行中、突如…。
突如、後輪が外れ、私は転倒したのだ。
余りの出来事に唖然としながらも、狭い歩道に身を寄せ、祈るような気持ちで愛車を触ってみる。

…このとき、なぜ、後輪が走行中に外れたのか、私には分からない。
ただひとつ言える事は、購入からの2年間、一度たりとも、メンテナンスと言えるようなことをシテイナカッタ!

 結局、初代は助からなかった。
正確には、捨てたのだ。
愛車が二度と動けぬとふんだ私は、なんとその場に、捨ててきてしまったのだ。
 …後悔はあった。
しかし、2代目を手にした私が、次にそこに行った時、もう、あの黒いボディーは、どこにもなかった。(←あたりまえだ!)


初代、1993年夏 永眠。 過労死であった。

1994年 〜 短命だった2代目

 そうして、おねだりによって手に入れた二代目であったが、財布を握る親により、値段のみを判断材料に与えられたそのチャリは、初代にもまして、陳腐な雰囲気を纏っていた。
ボディーは、銀。
機能面では、初代と同等のようであった。
 しかし、チャリの性能云々で私の山チャリに揺るぎはない。
トリオでの、方々の林道に困難を求め彷徨う日々が、再開された!

 が、その日はあっという間に訪れた。
当時、秋田市の高校に通うようになった私は、出戸浜駅までは、愛車で通っていた。
学校の帰り、駅に降り立った私を、わが忠犬は、待っていなかったのだ。
いくら猫が好きだからって、それはあんまりの仕打ちであった。
なぜに!
なぜにわが愛車が、盗られねばならぬのだ!!
怒髪天をついた私が最後に導き出した結論は、『カギをかけよう』という、至極当たり前のものであった…。

2代目代、1994年春 失踪。 誘拐された模様。


1994年 〜 3代目 キャンプ・チャレンジ 

 私にとって、チャリのない生活など考えられぬものだ。
それは今も昔も変わらない。
またも、激しくおねだりして、(少しは子遣いも出したと思うのよ)ゲットした3代目は、紫と黒の渋い色調を纏った、幾分高級感のある、しかし安い、チャリであった。
性能面では前2台と同等であった。

 この1994年の夏休みからは、4年連続で、トリオ最大のイベント「キャンプサイクリング」を実行している。
これは、3人がキャンプに必要な道具一式を手分けしてチャリに積み込み、2泊〜4泊程度のロングドライブを行うというもの。
その重さからくる恐ろしい疲労感に、挫けそうになること度々であったが、3人力をあわせて乗り切るのが、また醍醐味であった。
そのキャンプサイクリング、記念すべき1回目を供にしたのが、この3代目であった。

 しかし、余りにも私たちの旅は、過酷であった。
その上、余りにも、チャリを省みなかった。
その結果、この3代目も、次のキャンプサイクリングまで生存することが出来なかった…。

 ここまで、年一台のペースで愛車を代えてきた私だったが、つにい。
ついに!
遂に、タフなヤローに出会う。

3代目代、1995年春 永眠。 下半身の病であった。


1995年 〜4代目 “アイム ルーキー!”

 4代目は、3代目を踏襲した紫主体のボディカラー。性能面でも、特に変化はない。
しかしこの4代目は、わが山チャリ人生ではじめて、愛称が与えられることとなった、歴史的名機である。
トリオのメンバー全てが、愛着と、ほんの少しの侮蔑を込めて、呼んだ、その名は、

“ルーキー”

新人にのみ与えられる名が、生涯、彼の名となった。

 彼は、初めての山チャリに、やや侮りを持って望んでいた節がある(以下、作者の妄想含む)。
しかし、山チャリはそんな彼の甘えを、許さなかった。
代償として、彼は、トリオの前で最大の屈辱を晒すことを余儀なくされる。
処女サイクリング、出発から僅か1時間、男鹿市脇本で、その豊満であるべき後輪の膨らみが見る見るうちに萎み、ズルズルと無様な音を立てた。

 世に言う「パンク」であった。

 挑むべき林道の、その入り口にも立たぬうちに“果てて”しまったこの出来事は、後世まで語り継がれる名機“ルーキー”の誕生を示していた。



1996年 〜 サドル事件

 “ルーキー”は、働いた。
1995年のキャンプサイクリングに続いて、1996年のキャンプサイクリングをも、こなしたのだ。
特に私のメンテ術が向上したとは思えないので(というか相変わらず、一切ノーメンテである)、やはり、これが“ルーキー”の地力であったのだろう。
しかし、この1996年キャンプサイクリングの直前、さらに彼を忘れられぬ一台にしてくれた、事件があった。

 トリオは夜通し走っていた。
上新城から入山した我々は、知り尽くした林道の、まだ見ぬ夜の顔を知るべく、灯りひとつない闇夜を漕いだ。
今考えても、さすがに、夜一人では絶対行きたくない場所ばっかりだった。
 朝方、五城目の杉沢林道に降り立った我々だったが、ここで彼の身に、異変が起きた。
主人である私を載せるべき、そのサドルが、突如、落ちたのだ。
サドルが地に落ち、なおも私はまだそこに跨っていた。
一瞬、私には何がなんだか、分からなかった。

 ノーメンテがたたり、金属疲労によってサドル取り付け部が破損。
前代未聞のサドル脱落故障を、人はこう呼んだ。

サドル事件と。

 その後の私には、常人には与り知れぬであろう悲惨な末路が待っていた。
尻に突き刺さる剥き出しのサドルバー。
その苦痛は、未だに、私の脳裏に染み付いて離れない。


番外編 その1  幻となった2代目の復活

 じつは、1994年に誘拐され行方不明となっていた2代目が、1996年頃、飯田川町の旧国道7号線の脇で発見された。
かなりくたびれてはいたが、その銀のボディーは、紛れもなく2代目であった。
2年越しの再開を喜んだのもつかの間、どんな仕打ちを受けたものか、よく見るとひどい有様であった。
カバーが破れスポンジがはみ出したサドル。
風化で裂けたらしいタイヤからはみ出すチューブ。
緩み、錆びつき、まったく用を成さなくなったワイヤー類。
それによって、変速も、ブレーキすらも、使い物にはならなかった。

 手元に戻った2代目であったが、発見地から10kmも離れていない自宅への走行が、ラストランとなった。
その後、パーツ取りも検討され、しばらくガレージにあったが、雨風によってさらに劣化し、いつの間にか棄てられていた。

 もっとも不幸なMTBは、この2代目であっただろう。


1997年 〜 事故死

 1997年、4年目のキャンプサイクリングは、トリオの実質最後の活動といってよい。
そのフィナーレは、1日半ぶっ通しの林道攻略という、まさに、無茶さにかけては常に最強を誇ったトリオらしい、暴挙であった。
 そして、この最後のキャンプサイクリングも、ルーキーが活躍した。
老朽化をものともせず、このまま生涯を共にするのかとさえ思えてきた、ルーキーとの蜜月にも、…着実に終わりの日は、近付いていた。

 キャンプサイクリング終了後。
私はすでに大学生であったし(その後中退したが)、ホリプロにしても、就職活動が本格化し、いよいよ、トリオでの活動にも終焉ムードが流れていた。
なにより、保土ヶ谷もホリプロも、車をゲットし、興味がそちらへと移っていった。
私はそんな空気を感じ取り、そして…

 走った。

ただもう、ひたすらに走った。
単独での、仙台一泊3日サイクリングを始め、狂気じみた山チャリを繰り返した。
そして、そんな傷心の日々の中、
来るべくして、そのときは、訪れたのだった。

 夕暮れ時、秋田市新国道。
歩道を土崎方向に進行中。
交差点で、走行する自動車に接触。


 ― 信号を確認していなかった私の、史上最高に愚かしいクラッシュであった。



4代目代、1997年秋 永眠。 事故死。

1998年 〜 5代目 “ルーキー 2nd”

 さすがに、この交通事故は堪えた。
この年は、死んだルーキーを買い換えることもせず、冬を迎え。
春が来た。

 モリモリモリ モリッ!!

 やはり、私は生涯現役だった。
土を割る新芽のごとく、私の山チャリ魂も、激しく私を突き動かし始めたのだ。
結局、私は5代目を得た。

 5代目は、黒いボディ。
一目見て、これまでよりも屈強な、いかにもMTBというデザインであった。
そう。こいつには、わが山チャリ人生初めて「サスペンション」が搭載されていたのだ。(リアだけだったが)
このサスとの出会いは衝撃的であった。
それまで、トリオのメンバーの一部などは、砂利道での余りの衝撃の多さに、『手が痒い』などと意味不明なことを口走っていたものだが、もう、そんな心配は無用とさえ思えるほどであった。
一言でいうと、その快適さの、虜になっていたのだ。

 意気揚々と挑んだは、上小阿仁村姫ヶ岳林道。県央有数の峰越林道である。
その長いのぼりで、“ルーキー”は、再び我が前に帰ってきた。

 2代目“ルーキー”との出会い。
それは、処女サイクリングでのパンク。
それ以外には、有り得なかった。
…愛したルーキーとの再会…

 それは、うれしくも何ともない、
むしろ、非常に憎たらしいものであった。

番外編 その2  生き続けるルーキー

 さて、衝撃の事故死で、山チャリの表舞台から消え去った初代“ルーキー”であるが、実は、この2003年にもなって、未だに生き続けているのだ。
MTBの心臓部といっても良いリアディレイラーが、廃車寸前に取り外され、当時「移植なくしては余命僅か」とも言われていた、ホリプロの愛車“アルカディア号”に移植されたのだ。
この大手術は見事成功し、今日でも彼の愛車の雄姿は、ガレージの中だが、見ることが出来る。
しかしわたしは、そのリアディレイラーを直視できない。

1999年 〜 遂に“ルーキー”との別れ

 この2代目“ルーキー”も、よく働いてくれた。
現役期間は、丸一年程度と長くはなかったが、この期間内に走った距離は、多分それまでの山チャリ全て以上であったと思う。それほどに、走りまくったのだ。

 結局、次第に蓄積した細かな不具合が、、私の下手なメンテによって、逆噴射。
手をかけてやっているのに! と憤る私が、さらに手を荒げるという、完全悪循環によって、もろくも、破壊。


5代目、1999年春 永眠。 下半身の病による。 医療事故の疑いも…。


1999年 〜 不屈のファイターの一生

 すでに現在地である、秋田市に越していた私は、ここで「しっかりしたモノ」に手を出すことを決意する。
予算は、いきなりの大台越えで、なんと14万円。
それまでの全部のチャリを合わせた以上の買い物であった。
 ゲットしたのは、当サイトの写真でも頻繁に登場している“カラフル”なMTBである。
ワイヤー式のディスクブレーキを搭載し、リアのみならず、フロントサスも搭載した憎い奴である。
機能の割りに(これでも)安かったのは、すでに型落ちであったからということには、このとき気がつかなかった。
しかし、そのことが、後々、保守部品不足という、笑えない事態を招くのであった。

 この後の軌跡は、もう、このサイトの数々のレポートに片鱗が覗かれるそのものだ。
簡単に記すと…

 1999年晩秋には、早くもリアディレイラーとフレームを破損。一式を交換した。
2001年に再び、同じ箇所を破損。またも一式の交換。
修理が終わったその日のうちに、またも同じ故障を迎えるという、さすがの私も笑えない事態に。
これで、3回のフレーム交換。
そのカラーも、カラフルさは変わらないものの、交換のたび微妙に変わっていった。
このほかに、なれないディスクブレーキがらみの故障も相次ぎ、2度ほど交換。
それでも、14万の元を取ってやろうと考えたか、いや、単に乗り心地が良くて愛着があったからなのだが、2002年を無事に迎える。
2002年、5月2日。そして5月23日。いずれも山形県内で、相次いでチェーンの故障。
しばしチェーンカッターとの格闘の日々が続いたが、結局手には負えず、チャリ屋で修理。
そして、6月6日。
チャリどころか、自身の命の火が揺らめいた、恐怖の松ノ木峠旧道を愛車と共に無事突破。
しかし。

 6月6日16時35分。
鳥海町直根林道、直根林道2号隧道坑口部にて、泥にぬかるみ転倒。
その衝撃で、この日の朝、雄勝町院内の奥羽本線廃隧道での無理な漕ぎによりやや変形していたリアディレラーが、全損。
自走不能に陥り、惰性走行によって帰途に着く。

このとき、故障の“点”と“点”が、遂に一つの像を描いた…。

そのまま、自宅には戻らず、秋田市の罹りつけのチャリ屋に緊急入院。


6代目代、2002年秋 永眠。 末期破損による。 全身に転移していた。

治療に絶対必要な、フレームが不足していたのが、直接の死因。



 
2003年 〜 7代目 現役!

 そして、2002年秋、すぐさま新車をゲット。
機能的にはほぼ、先代と同様だが、全体的にコストダウン。
ディスクブレーキは、泣く泣く諦め。

 早速いくつかの山チャリに挑戦。
ダメージを受けつつも、これをこなす。
失った体力を回復させるため、変に自分では手を出さず(←正解)、冬期療養させることに。
 そして、今に至る。


7代目代、2003年新春 
               今年の旅を、夢見つつ、療養中。