No.001なぜ、チャリなのか?
99.4.25UP/03.2.3再修正

 一言で山を走るといっても、舗装路もあれば、砂利道も、廃道もある。道だけではない、時には已む無く道なき道を切り開くこともある。
そんな山の道を探索する足として、私は、自転車(以下:チャリ)を選んだ。
無免許の私にとって、選択の余地は余りないのだが、それでもチャリには、チャリならではの魅力があると思う。
さらに言えば、チャリこそが、機動性と踏破性、そして楽しさと辛さ、これらのバランスが最もとれた手段ではないかとさえ思う。

 まず、機動性と踏破性についてだ。
山でも街でも最大勢力なのが自動車だ。自動車は高い機動性を提供する一方、悪条件の道においてはあまりに踏破性が低い。
ここで言う悪条件というのは、並みの悪路などといったものではなく、路肩の半分以上が落ちてしまったような道を言う。
そんな道は、ひとたび山に入れば、ごまんとあるのだ。
さらには、旧道や廃道といった、通行することを快く思われない場所では封鎖の憂き目に会うことも多いが、専らこれらは、自動車には越えられない。
 徒歩では、チャリに踏破性で勝るものの、機動力が低すぎる。
広大なだけに山には冗長な景色も多いものである。多少のスピード感は、必要だと思う。
 バイクという手もある。
チャリと自動車のいいとこどりの感じもする。
たしかに、バイクは魅力的だ。自転車同様、直に風を感じられるのが嬉しいし、その機動性は、チャリの比ではない。
免許があれば、私もバイクを選んでいたかもしれない。
強いて難点を挙げるならば、やはり踏破性において、やや不安が残るということか。
…チャリとバイクの可搬性の違いが影響するほどの(たとえば、“担ぎ”など)、そんな悪条件は、そうはないのだが…。

 私の選んだ足、チャリはどうだろう。
踏破性においては、なにも言うことはない。
難点は機動性だが、やはり平地や上りは、大変に遅い。
下りにおいては、道路状況によっては、自動車にも勝る機動性を誇るが…。
また、チャリは構造が単純なので故障等のアクシデントに強いのは、ものぐさでメカ音痴の私には特に嬉しい。

 次に、楽しさと辛さについてなのだが、なんといっても、「道を直に感じられる」というのが大きい。
この点が、私がチャリを選ぶ理由の最大のものだと断言する。
上りの辛さは、その山の地形や景観をもろに反映してきて、印象深いものだ。
また、下りの楽しさは、高速でチャリを操ることの楽しさのみならず、ヒートアップした体にぶつかってくる空気は際限なく快感を誘発する。
それに、なんと言っても、峠に立ったときの達成感や征服感だ。
これは、楽しいどころではなく、一度味わうと、止められなくなってしまう。
このとき初めて、登って来た辛さが、意味を持つのである。

即ち、完全にチャリが人力駆動である点が、山でチャリを選ぶもう一つの理由である。


以上により、私は山にはチャリが最適と考え、それ故に「山チャリ」を愛し、己の足に選んだのである。


No.002山チャリの快楽
00.3.31UP

 山チャリが楽しいかと問われれば、答えは「YES」。
しかし、山チャリの最中に問われれば、おそらく、「NO」と答えるだろう。
山チャリ中は、辛いことばかり。
平凡な道はたるいし、尻は痛いし、疲れて眠い、大抵寒いか熱いし、なんと言っても、上りが地獄だ。
 ではなんで山チャリが楽しいと答えるかといえば、山チャリは”終わった後”に快楽が訪れるからである。
例えば、旅が終わり無事帰宅したとき、上りが終わり峠に立ったとき、道が終わり終点に達したとき、などである。
やり遂げた充実感、困難への勝利による達成感、そして征服感。
これらが大挙して訪れることによる、快楽。

 まるでこの道は、鞍部をわざと避け、このまま山頂に至るのではないかと思えてくるような、執拗かつ、急峻な上り坂。
一体幾つの九十九折のコーナーを曲がったのだろうか、もう数え切れない。
「これで最後だ…、きっと。」
全身を奮い立たせ次のコーナーを曲がっても、その先にはまたも同じ光景が繰り返される。
次も、その次も、またその次も…。

 一際きつい上りだ。
地面を見ながら一心に漕ぐ、額から滴る汗で、目が痛い。
その先に見えてきたのは、またも九十九折。
「多分また…。」
峠など、このまま永遠に無いのでは?
不安になる心。足は鉛のように重く、力も入らない。影も明らかに伸びてきた。
コーナーを曲がる、前を見る。

 その先には、空が現れた。
これまでずっと登りを見つづけてきた視角には、空が。
その左右には、深くえぐられた切り通しの崖が見て取れる。
今、登っているものこそ、この峠の最後の上りなのだった。
「ピ、ピークだ!」

観念したのは、山だった、道だった。
勝利者の名は、山チャリストだった。

うっひょーーーー、サイコーーーー!


No.003秋田という場所
00.4.2UP

 私は、秋田という地で山チャリに目覚め、専ら秋田専属の山チャリストである。
これは、実は私のコンプレックスに繋がっている、”井の中の蛙”では無いかと。
東北の地図を開くと県外にも、物凄そうな林道がゴロゴロしている。ソソリまくりの旧道廃道の情報も知っている。
「行きたい!!」
のだが、いかんせん足と時間が無い。
県内は走りすぎて、県外に出るまでの長い長い道が退屈すぎて耐えられない!
じゃあ、車かといえば、免許が無い。(ついでに言えば、取る時間が無い。)
致命的なのは、仕事が忙しく休みが少ない、よって遠くに行く時間が無い。
 このコンプレックスは、実際に全国を走る機会に恵まれ、全国を知るまで解消されないだろうが。
ま、全国を知ったら海外が気になるかもしれないし…。この方向に志向していては、きりが無いと思う。
だから私は、執拗に秋田に拘り、「秋田最強」に拘る!
別に、知る限りライバルはいない。でも、どんな奴が現れても負けんだけの、経験が欲しいのだ!
だから、”浅く広く”ではなく、”とことんディープに、しつこく!もっとしつこく!”走るのである。

 秋田の林道を他地域と比較して云々、というテーマで書きたかったが、前置きが長くなりすぎてしまった…。
本題に移ろう。
秋田の林道は、一言でいえば「荒れてる」。
整備が行き届いておらず、地図にある道でも廃道化してることが、よくある。
当然殆どダート、廃道一歩手前の草道状態も多い。舗装はごくごく僅か。
異常に長いものも少ないが、山は多いので数は多い。だから、林道総距離も東北では長い方らしい。 
秋田の国道は、一応すべて舗装済。総じて狭い。
県道…、どこでもそうだろうけど、山じゃ林道と区別つかないパターンあり。

 あー、これしか書けない。
とにかく、「林道はいっぱいあるよ。」ということで。
それともうひとつ、単体で長い林道は無くとも、山が多いから、どこいっても平坦路は少ない。


No.004山チャリストは最強?
00.4.2UP

 多分、山チャリストは、自意識過剰だと思う。
多分、現役山チャリストは皆、「俺って最強。」と、少なからず思っているのではないだろうか?
皆、それぞれいろいろな経験をしてきて、修羅場も死線も潜り抜けてきた自負があると思う。
「こんなこと、誰もやんないよなー。」と思うことが、山では常ではなかろうか?
そして、誰もやってないことに、興味が尽きない…。
なんか、自分がそうだからそんな気がする。
ホリプロなんかも、「俺らしかやってないって、この道は!」といった発言が常になってるしなー。

 皆さんは、いかがっすか?

 これじゃコラムになってないので、まとめます。

山チャリは、誰しもが最強を自称したくなるだけの、(バカな)経験をたくさん提供してくれます。
これといって取り柄が無いとお悩みの方に、お勧めです。
あなたにも自称最強の快感を!!(良いんです自称で、絶対に比較できませんから山チャリは!)

 Let’s 山チャリ!



No.005廃道って好き?
99.5.4UP/00.4.18加筆修正

 廃道とは、通るものがほとんど無い為に、荒れ、通行が困難になってしまった道全般を指す言葉だが。
その、廃道というヤツが好きかと問われれば、答は「嫌い!」につきます。


だって、思い出してみてよ。

あのしつこく体に絡みついてくる倒木の枝、
チクチクヒリヒリ汗塗れの体にススキの洗礼、
草むらで静かに忍び寄る蛭の恐怖、
疲れと蒸し暑さに立ち止まると目の前に群がり飛ぶ虻や蚊、
毛虫まみれの葉っぱ、
気の狂ったような登り、
チャリになどまったく乗れない岩場、
泥沼に沈んだ道、
etc etc・・。

そして何より苦しいのが、
もう行き止まりだって分かってるのに、どうしても完璧に道が消えるまで進まねば負け犬になってしまうという恐ろしい脅迫観念。

 べつに廃道走りになんて面白味は無い。
最低でも、走ってる最中は。
唯一の廃道に良いところが有るとしたら、攻略完了時の達成感がすこぶる大きいということぐらいかな・・・。
万が一にも、廃道が行き止まりでなく貫通できたときの快感は、とても言葉では言い表せません!!
「俺最強!」
って感じだとだけ言っておきましょう。

いずれ、当研究会でも新人さんには決してお勧めしていません。
一発で山チャリが嫌いになるほど辛いので。

分かってるのに…、道が廃道化すると、悔しさと好奇心に身を任せて、突っ込んでしまうんだよなぁ。懲りずに。 廃道の魔力か!?

 クソ、廃道め!!!


No.006山チャリとレースの関係
00.4.18UP

 自転車競技は、山チャリと似ていて非なるものである。
私の山チャリには一切の競技性がない。
人と競うことは、たぶん永遠に極まらない究極の名題であろうが、山チャリは、人とは競わない。
競うことがあるとすれば、それは、自然であり。
道であり。
また、自分の肉体や精神、即ち自分自身である。

急がされるのが嫌いなので、自分のペースで走りたいと思う。
あと、競技用、自転車用に設計された道が面白くないのだ。

こんな理由から、ヨッキれん含め、当研究会と自転車競技との関係はきわめて薄い。


No.007地図あれこれ
00.4.19UP

 信頼できる地図こそは、山チャリ成功の最大のパートナーと考える。
計画無き旅であっても、地図まで持たないのでは、余りに無謀であろう。
命綱といっても過言ではない。
同時に地図こそは、最も俺の山チャリスト魂を最も燃え上がらせるアイテムだ。

 私のお気に入りの地図は、なんといっても愛用の秋田県広域道路地図[東京人文社発行、5万分の1]である。県別にリリースされているこの地図は、一部例外を除いてほぼ全図が5万分の1というかなりの大縮尺で書かれており、非常に使いやすい。
私の版は92年発行のもので、いっつも旅のお供をしているので年季が入ってる。しかし新しい情報はいち早く自分で書き込んでいるので市販の最新のどの地図よりも最新だ。
それに自分で見つけた林道なども全て書き込んでいるために地域によっては地形図以上に細かくなった。 この地図の唯一の難点は重いということだが、全ページをばらし、旅先周辺のみ持っていくことでこの問題は解決した。
最近の版では遂に県道の路線番号もプロットされ益々充実のこの地図が、一番のお勧めだ。
 ほかに私が現役で使っているのは、東北圏広域道路地図[東京人文社発行、10万分の1]と、県別マップル5 秋田県広域詳細道路地図[昭文社発行、5千〜20万分の1]の2つ。
 前者は、道路地図帳としてはダントツの林道情報量を誇る。
計画立案時には最も頼れる一冊で、この地図以外には決して載ってないような林道が多く記載されている。
これも大変お勧めの一冊だ。
 もう一冊は、有名なマップルシリーズの県別版である。
流石にまんべんなく高水準で、特に市街部の細かさはダントツだ。見た目にも美しく見ていて楽しいのだが、難点は山岳部の縮尺が小さくいま一つなのと、感覚的に分かりにくい縮尺の図が多く距離感が掴みにくいということだ。様々な縮尺の図が混ざってるのもちょっと・・・。
 それと自分では持ってないが、情報収拾に欠かせないのが地形図だ。
特に2万5千分の1地形図は、あらゆる林道を網羅している、とまでは行かないがあらゆる道路地図帳以上の細かさだ。
それと、歴地形図(古い地形図)も楽しい。
地形図は、多くの図書館でただで閲覧できると思う。

 お気に入りの地図は、それそのものが、あなたの走りの履歴であり、
同時に、次なる旅へと誘う、コンパスのようなものだと思う。



No.008山チャリグルメ
00.7.1UP

 山チャリ中の食生活とは如何なるものなのか?
その謎に迫ってみたい。

 とは言ったもののなんてことはない、普段の食事と大して変わらないものを食している。
日帰り程度だから、好きなものを食べていても、特に栄養が云々といった問題は起きないと思う。
何を食べるかよりも、どれだけ食べるかが重要である。


 まずは飲み物だ。
暑い時期などは特にその消費量はすさまじく、一日で1,5リットルのペットボトル2本程度はいってしまう。
万が一にも、飲料の欠乏だけは避けねばならない。
生死に直結するのはもちろん、飲料が減ってくると精神的なプレッシャーは相当のもので、もはや山チャリを楽しむ余裕はなくなる。
水場の存在が絶望的な稜線林道などではもはや生きた心地はしない。
よって、麓で十分な量の飲料を調達しなければならないが、どの飲料も比重は水に殆ど等しいようなので(あたりまえ)、好きなドリンクを買う。
当然1,5リットル一本は確実に買うが、それだけでは心許ないので、予備として500mlペットも1,2本買うことが多い。
あまり早い時期に買うと、入山までにぬるくなるし重さも大変堪えるのだが、変にけちけちして農村部に入ってしまうと最悪自販機すらない状態に陥るし、自販機があっても缶ジュースしかないのでは終わったも同然だ。
余裕を持って調達するほうがよい。

 一応私の好みも記しておこう。
…、とおもったが、山で飲むドリンクはどれもあまりうまくはない。
意外かもしれないが、ぬるま湯のようになれば味にどうこう言いたい気持ちはなくなってくる。
甘くてもいいし、炭酸でも茶でも、好きなものを買ってよいだろう。
山での飲料は、ただ生きるために飲むものだ。味をどうこう言っている猶予はないのだ。
とはいいつつ、俺的には、茶は甘くなくて物足りないので、ポカリスエットなどの機能性飲料や果汁飲料をよく買う。

 ちなみに山中で飲料が尽きた場合だが。尽きそうだと思ったら、できるだけ早く水場を探すことだ。
尽きてしまった後に探すのは、精神衛生上良くない。
稜線やよほどの日照りでなければ、山には水がいたるところにある。
飲んで腹を壊すこともありえるが、飲まなければたおれるから、選択の余地はない。
運良く水場にありついたら、浴びるように飲むだけでなく、空のボトルなどにできるだけ汲んでおくことも忘れぬように。

 私の最大の飲料欠乏経験は、お恥ずかしいがあの河北林道であった。
何を思ったか、他のメンバーよりもハイピッチに手持ちのコークを飲み干した私だが、そこは郡境の峠のはるか手前、やっと稜線上にたどり着いた地点であった。
8月である、直後に汗も絶え絶えになってきた私は光速の速さで限界を超越し、血眼になって辺りに水を求めるもそこはガレた稜線。
どうやって峠にたどり着いたのか良く覚えていないが、(多分チャリを押して歩いたのだろう…)どういうわけか峠を少し下った場所で我が後輪はパンクし、強制的に止められたそこで初めて小川にありついたのだった。
このときすでにメンバー全員が水不足になっていた。
”野聖水”なる造語はこのときに生まれたもので、「野聖水のお世話になる」とは無計画を恥じる意である。
初の河北の苦い思い出である。(むしろ本当に苦かったのはこのパンクだったのだが…)


 次に食べ物だが、昔はお弁当スタイルだったが、近年はオニギリスタイルになった。
要するに、明確な食事タイムを設けず、食べたい時にオニギリをひとつずつ食べるスタイルだ。
朝などは止まらずに食べながら走るのが爽快だ。
(上り坂でこれをやると、オニギリを握る手に力が入り、オニギリがクラッシュするのでやってはいけない。)
この方法で一日にオニギリを5つから6つ位消耗する。
たぶん消費カロリーから考えると異常に少ないと思うが、あまりのハードさゆえ大量には喉を通らないし、食べすぎは俺を鈍くする(気がする。)。
しかし予備はたくさん持っていくのがやはり鉄則だ。
常に、2つは余裕を持って行動したい。
ちなみにオニギリはローソンのものに限る。
「オニギリ ビー デリシャス」

 もちろんこの私も、山での食事がオニギリだけでは寂しい。
そこで登場するのがチョコレートだ。
100円前後の12個入りくらいのチョコを食べるのだが、これもオニギリ同様、ひとつずつ食べるのが定番だ。
がんばった肉体へのご褒美の様に、峠を攻略するたびにひとつずつ与えるのが、楽しい。(文にしてみると怪しいなー…これ。)

 私がタブーとしているのは、まず「スルメ」である。
塩を舐めながらの旅は苦痛であった。
「ガム」もいただけない。
どうやら、ハードな山チャリに於いて咀嚼運動ですら体力の消耗を早めるらしい。

 果物は大好きだが、飲料同様生ぬるい果物はあまりに不味く、その上副作用として大切なリュックを開けたくない場所へと変貌させやすいのであまりオススメしない。
特に「バナナ」は絶対に避けるべきであった。

 ちなみに過去数度の食べ物の欠乏は、私を野生に変えた。
あるとき私の野生は、巨大な飴玉を次々と歯牙にかけ、粉々に砕き去った。
あまりの空腹に、最後の食料であったそれを悠長に舐め続けることができなくなった瞬間、口の中の飴玉と共に理性も砕け散ったのだった。
「クレイジー」の発露である。


 食べ物ではないが、お金も大事なアイテムである。
何に使うのか?
当然食料である。
後は輪行の運賃も必要だ。
しかし山チャリは本当にリーズナブルな趣味だと思う。
秋田から仙台までチャリでは20時間はかかるが、お金は食料代の2000円くらいで何とかなる。
しかし、一時期そんな山チャリですら続行不能なほどに金銭に尽きたことがあった。

 日帰りでどこまで遠くにいけるかを目的に青森県碇ヶ関村に行った帰り、人生最大の屈辱に甘んじたことがある。
この日の手持ちは(=全財産)700円だった。
あっけなく全てを使い切った私は、ついに空腹に耐えかねて…。

…さすがにこれは掲載不能ですぅー。
ちょっと、逃げちゃった(てへ)。

 訓戒:
回胴遊技機は、ほどほどにしましょう。
特に「ぴゅー」などという音が鳴り、その音と脳汁の放出音をシンクロさせるような機種が危険である。
3連絵柄などもってのほかだ。


 話がいささか脱線したが、私の山チャリに於いては、総じて食事は脇役も脇役、食べなくてもいいのならば食わないくらいのものでしかない。時間ロス。

睡魔と食欲は、私の最強伝説の足かせとしてたびたび襲い来るものである。


No.009行き止まり万歳!
00.12.18UP

 あなたは行き止まりが好きですか?

こう問われれば、大抵の人が、否定的な答えをするであろう。
やはり、行き止まりのイメージは悪く、徒労や、断念といったマイナスの印象を誰もが受けることだろう。
しかし、殊に山チャリに関してはそうでもないように思える。

私は、行き止まりを捜し求めて、幾多の山道を走り続けてきた。
そういう風に断言できる。
初めは違かったと思う。
すべての道に、どこか、行き先を期待したし、行き止まりは、残念でしかなかった。
しかし、何時の頃からか、
「この道は、駄目だな。」
と言うのが分かるようになってしまった。どこにも抜けていないな、どうせ、行き止まりなんだろう、って。
すると、もはや、その道中は、苦痛でしかなくなってくる。

 お分かりだろう。
この状態において、行き止まりの出現は、唯一の救いに他ならない。

 最大のポイント、それは何処で”見切り”を付けるかだ。
分かりやすい、行き止まり(それは、大抵、計画された”終点”である。)ならいい。
納得できる。
 嫌なのは、廃道化した道だ。
行き止まりの道というのは、進めば進むほど、廃道化が進んでいるものだから、行き止まりと断定できる場所に到達することが困難な場合が多いのだ。

冷静に考えれば、廃道化した時点で、引き返しても何ら問題は無いのだが、「征服」に拘るならば、やはり、「引き返す」というイメージは嫌だ。
先に、道のほうにねをあげて貰わねばなるまい。

 結果、いつも、植物で身動きが取れなくなるまで進むか、チャリごと進めないほどの、崩落を目の当たりにするまで、終われないのだった。
もう一度言おう。

 行き止まり万歳!
分かりやすい、潔い、気持ちのいい行き止まり、万歳!!


   補足:ヨッキれんは普段、行き止まりのことを、「ルートエンド」。
   行き止まりの道のことを、「ピストンコース」「ピストン林道」などと呼んでいます。