JR花輪線 魅惑の駅達  広末駅編 
公開日 2005.11.2


 これまで、ただの一話として命の危険を冒さないレポの無かった廃線レポであるが、たまには毛色を変えてみようと思う。
あなたのお口に合うかは分からないが、とりあえず、ご賞味召され。

 なお、旅の案内人は、ヨッキれんと、伝説のツナギスト・ミリンダ細田でお伝えする。


 JR花輪線 末広駅
 いつか 夕暮れ時

 失われた詩 

夕暮れ

 JR花輪線、十和田南駅から大館に向って一つめの駅は、末広(すえひろ)という。
かつて十和田村の中心地だった末広地区にある駅だが、なんとも、良い名前の駅だと思う。
そしてこの駅、以前たった一度見ただけで、心底惚れ込んでしまった駅なのだ。

 私が陶酔した話は後回しにして、まずは駅の歴史だ。
前回紹介したとおりこの花輪線には、国鉄花輪線として開業する以前に、民営の秋田鉄道によって敷かれた区間があるのだが、この末広は秋田鉄道時代の駅の1つである。
大館から伸びてきた鉄路が3度の部分開通を経て、1915年大正4年に辿り着いたのが、この末広の地だった。
その後5年間は、秋田鉄道の終点駅として「毛馬内」という駅名だったが、実際に大正9年に毛馬内まで鉄路が延び、そこに毛馬内駅(現:十和田南駅)が出来ると、ほぼ同時に当駅は末広という現在の名前に改名されている。
余談だが、「毛馬内」という駅名は、場所を変えながら当線で2度も使われているにもかかわらず、結局は消滅してしまった駅名なのだ。



 さて、末広駅には俗に言う停車場線県道が、かつて存在した。
その道は、一般県道139号「末広停車場末広線」といい、昭和34年に全長169mと僅かな延長ではあるが、確かに県によって県道に指定を受けている。
しかし、昭和52年にどういう訳か、県道指定を解除されたまま、現在までこの番号は欠番となっている。
おそらくは、駅としての重要度が下がり、駅前の道を県道として整備する必要が無くなった為なのだろう…。
ともかく、その指定延長から考えると、同県道は国道103号線との分岐から、駅までの道が指定されていたものと思われる。
いまも、分岐地点には草臥れた白看が佇んでいる。
また、この国道自体もバイパスの開通により、とっくに国道指定を解除され、市道となっている。


 私の日常の生活のなかでは、もう何十年生きようとも、まず利用することも、おそらく車窓の外から見ることも無いだろう駅を、一度は直に見ておこうと思い、2004年のある日の夕暮れ、私はチャリに跨りここへ来た。
そこにあった駅舎は、別に貴重な物とも思われない、いたって平凡なものだったが、なんとなく惹かれるものを感じた。
駅前の駐輪スペースに無造作に置かれた、数台の通学用ママチャリ。
淡い夕暮れの空に照らされた、背後の山影のしんと静まりかえった様子。
涼しい空気が、優しい風景にとけ込んでいる。

 吸い込まれるように無人の母屋をくぐり、島式のホームに立ってみる。
もっとも、島式ホームの片側だけに単線のレールが敷かれているだけで、ホームの片面は草に覆われている。
開業当時は、地域最大の集落毛馬内の名を冠し、少し遠いが同地域からの旅客や貨物を欲しいままにしていた、終着駅。
沢山の施設があったに違いない。

 しかし、現在残っているもので、当時を少しでも偲ばせるのは、単線の無人駅にしては妙に立派な、ホームの一部を覆う上屋くらいなものか。
廃レールを利用した上屋は、元々あった物の一部分だけが残っているらしく、ホームの中央付近の僅かだけしか覆ってはくれない。
それでも、建っているホームの規模や、普通列車が一日数度止まるだけの当駅にとっては、とても立派なものだ。
その代わりか、ホームに待合室はない。




 ホームの反対側に線路を背にして待っている、猫背のお客。

もっとも、本当に彼も列車を待っているのかは分からないが。




 いつまで待っていても、列車などこないのではないか。

そんな気にさせる、無人のホーム。

本当に、静かだ。

もう、一日など終わったかのように。


 駅の母屋からは離れになっていたトイレ。
国鉄時代に掲げられていた、「便所LRAVATORY」の表示が、何とも言えない存在感を醸し出していた。
しかし、トイレの周囲は盛りを終えた夏草によって囲まれており、一般の人がここで用を足そうとは思わないだろう。
その上、何の説明もなく、唯一の入口が薄板によって×の字に塞がれている。

 中を覗くと、異臭がするわけでもなく、もはや完全に時の止まったような暗がりがあった。
片隅には、緑色で描かれた十字のマークと、清潔の二文字。
トイレだった廃屋は、このまま取り壊されることもなく、鉄道が廃止されるまで、ここに存在し続けるように見えた。



 私にとって、この駅が特に印象深い物となった理由は、駅の母屋の壁にあった。

コンクリートの敷きっぱなしのガランとした待合室だが、かつては有人だった駅だけ有って、窓口がある。
もっとも、日焼けしたカーテンと小さな窓ガラスが、かつての栄華と現実とを隔絶するかのように閉じられていた。
いくつかの椅子が並ぶ殺風景な待合室だが、片隅には本棚があった(様に記憶している)。
また、落書きが一杯の「駅ノート」もあった様な気がするが、自信がない。
ただ、間違いなくこの駅にあったのは、壁に描かれた、2編の誌だった。

 内容からは、おそらくこの駅を使い続けた地元の高校生が、卒業に際して悪戯書きしたものと思われた。
一部を抜粋して紹介するが、文中にはこんな素直な心情が吐露されていた。

陸上一筋 青春賭(ママ)けて
目指すは男 インターハイ
(中略)
叫ぶ拍手と歓声に
紛れて見えた 母の顔
(中略)
我が青春に 悔い なし
         H15.3.21 PM3:16
 卒業式のあと、自宅への最後の汽車を降りた“彼”が、
高校生活を振り返って刻んだ言葉だったのか。



昔は本当に バカだった
意味もなくカッコつけてばかり
クソみたいな歌を毎日歌ってた
おまけにいつも夜明けまで外で遊んだ
随分ひどいこともした
君を見つけるまで

今夜は果てしなく、一晩中続くだろう
誰が残して行ったのか、愛のない悔しさ
朝日が目を覚まして
俺らを包み込んで また一日が始まる
そして俺らが目を覚ます頃に
ラジオはあの曲を流すだろう

俺の中には、俺が濃厚に詰まっていて
時々、それが多い

       H15.8.8 AM5:21

 その彼は、卒業後おそらくは上京したのだろうか。
だが、その年の夏には、この地に戻ってきて、再び詩を書き記した。
半年前を惜しむような、詩を。









そして、2005年10月。

あの詩の続きを探しに、当駅を訪れた私が、見た姿。


そこには、
すっかり分相応な姿に変貌した、

真新しい駅があった。

壁は、真っ白だった。

ただ、
停められた自転車の台数だけが、
変わっていなかった。










続く

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