私は以前、電子同人雑誌である【日本の廃道】のレギュラーメンバーとして、2005年から相当長い期間にわたって執筆を行っていたことがある。
当時、同誌の編集長であり、もちろん【オブローダー】「オブローダー」という語も、同誌の立ち上げにあたって彼と私が中心になって生み出した造語だったの第一人者でもある永冨謙(nagajis)氏とは、一緒に探索を行ったことは数えるほどしかなかったが、彼一流の筆致で描き出される主に西日本の廃道レポートは、東日本で活動していた私にとっては未知の世界がとても刺激的に見え、いずれは自分の足で歩き、この目で見たいと思う廃道がいくつもあった。
今回皆さまに紹介するのは、かつて永冨氏が“発見”して『日本の廃道』で発表した、偉大な探索の成果を追体験することを主として、わずかながら未解明と思われる部分に立ち向かおうとした私の記録である。
具体的な探索の対象は、永冨氏が「池郷川口軌道」という表題で『日本の廃道 2012年10月号(第78号)』に発表した軌道跡と、それに関連する林業の遺構だ。
もっとも、この路線名は仮称であり、正式名といえるものが別に有ったとしても、それは未だ判明していないし、私もこの部分で新たな調べを起こそうとは考えていない。ここでの体験の重要なテーマは、名前にはない。しかし、この路線名で検索してヒットする情報があるとしたら、それは永冨氏の“発見”を起点としたものである可能性が高いと思う。それほどまでに、この軌道の一次資料は少なく、永冨氏の発表が果たした役割は大きい。
探索の舞台は、紀伊半島の大部を占める紀伊山地の奥地、奈良県の南端に近い吉野郡下北山村を流れる池郷川(いけごうがわ、熊野川水系北山川の支流)の畔である。
池郷川で検索すると、ゴルジュというワードとセットで、沢山の“沢や”の人たちの活動記録がヒットするはず。ここは深淵の規模や数量においては日本屈指とされる美渓の地である。
とはいえ、岳人たちが命がけで躍動する領域はこの川の奥地であり、一方私たちオブローダーが探ろうとしているのはずっと入口に近い、右の地図に赤色の鉄道記号を描いた辺りである。
このような立地を根拠に、彼はここを池郷“川口”軌道と名付けたのではないかと思う。
見ての通り、短い軌道であり(おそらく全長700m程度)、特筆すべきシーンがあるようにも思えない地図上の姿だと思う。
そもそも、もとの地理院地図にはこの道は全く描かれていないし、古いものにさかのぼっても同様で、この軌道は一度も地形図に描かれたことがない。もし一度でも描かれていたら、こんなマイナーなはずもない。
彼がこのマイナーな軌道を“発見”した経緯についても、かいつまんで紹介しよう。
全ての始まりは、ある経緯で入手した2枚の古い絵葉書だったらしい。
その絵葉書は、「笹川商店林業部」が発行したもので、いずれも表題に「池郷山」という地名が入り、見知らぬトロ軌道が写っていた。
そこから興味を引かれ、池郷という地名をもとに調べを進めていくと、どうやら下北山の池郷川沿いには、明治末か大正時代といったかなり早い時期から、民間の製材所が設置した軌道が複数存在していたことが分かった。ここまでの内容は、『下北山村史』などに短い文章ではあるが記載があった。
笹川商店林業部についての情報は見当らなかったものの、同社が絵葉書を残した軌道も、そうした池郷川沿いの民営林用軌道の一つではなかったかと彼は考えた。
そしてここに新たな情報が加わり、探索への意欲が高まった。
永冨氏の探索仲間でベテランの沢やでもあるmasa氏が、かつて沢歩きで訪れた池郷川の林用軌道跡には長い隧道があったという記憶を、彼に話したのである。
このことで、絵葉書の軌道と同一のものであるかは不明ながら、とりあえず池郷川には確かに軌道跡が存在していて、しかも長い隧道があるという、具体的な探索を志すに十分な魅力的情報となった。
平成24(2012)年8月23日に、彼とその同行者である磯田氏が現地探索を行い、先ほどの図に描いた位置に軌道跡を見事に発見。
さらにその上流の“不動滝”の近くで、masa氏が沢登りの最中に出会ったものと同一と考えられる、全長100m超級とみられる廃隧道をも発見した。
余談だが、私は当時その探索の模様をレポートとして読んで、そこに著わされていた光景のあまりの凄まじさに目を剥いた記憶しかない。
発見された軌道跡の全体量としては、当初彼が想定していたよりもかなり短いものでしかなく、絵葉書の場面との一致についても、確たる証拠は得られなかった。(だからこの軌道は仮称のままなのである。もし絵葉書の軌道だと確定すれば、「笹川商店林用軌道」と呼ぶべきだろう)
また、確かに存在していた廃隧道(これが本当に凄まじいんだ…)との位置関係も、果たしてそれが軌道の一部を構成し得たかは大いに疑問が残るモノだった。隧道が発見された「不動滝」は、軌道跡として明確に辿ることが出来た地点よりも些か上流に離れて存在していたからである。
ともかく、現地探索によって軌道跡が発見され、隧道跡も見つかった。
素晴らしい。
だが、この話はそれで終わらなかった。
彼は、探索直後に現地の上池原集落で聞き取り調査を行い、そこで下北山最長老なる御年97才という住人から4時間にももわたって証言を引き出すことに成功。
その長老が語った内容がまた凄まじく、永冨氏は印象をこうまとめている。
軌道ではなく水路の隧道だったわけだけれども、かえって希少性の高い土木構造物だとわかり、それがいちばん「興奮した」。トロッコ軌道に隧道があるのは、いわば当たり前のことで、珍しくも何ともない。そうではなく、この場所、この谷を克服するための、ここでしか見られない創意工夫だったのだ。あの隧道は。
証言者が子供のころ、すなわち90年ほど前であるから大正末から昭和初期頃には、池郷川の川辺の「トチノキダイラ」という場所に製材所があり(会社名不明)、そこから池郷橋のあたりまでトロッコが通っていた。(この軌道跡を永冨氏たちは発見探索した)
池郷川の上流奥地で伐採をし、製材所まで原木を川に流して運んでいたが、不動滝をそのまま流すと、流れの曲がった部分で引っかかってしまうので、滝を迂回する「ハコドイ」を別に通して流していた。(ハコドイについては、私のレポートの本編で改めて触れる)
その「ハコドイ」の代わりに隧道が作られた。隧道に水を導き入れ、一緒に材木を流した。隧道が作られた時期を長老は覚えておられなかったが、永冨氏はいろいろな根拠を挙げて、昭和4年頃と推測した。
以上のようなことが、軌道や隧道について証言された内容だった。
永冨氏の「興奮した」が、私にもよく分かる。
確かにこれは興奮する。
ある意味で“普通の林鉄の隧道”と想像していたものが、実際はそうではなく、滝を迂回して材木を流送するために作られた“水路隧道”だったというのである。 それが、全国的に見ても貴重な“林業遺構”であることは間違いないはず。
当サイトの読者諸兄の中には、この話を聞いて、十津川村の芦廼瀬川上流にある、河中の巨石を貫く不思議な隧道のレポート(七泰の滝の下の謎の穴)を思い出した人がいるかも知れない。私がそこを探索したのは2020年であり、永冨氏の探索よりもだいぶ後だが、私は芦廼瀬川で、おそらく木材流送の為に掘られたとみられる隧道を探索している。
十津川村と下北山村は、かの有名な“酷道”425号白谷隧道で結ばれる、同じ熊野川水系の隣り合う山域である。直接的な交通の繋がりは、山が険しすぎて昔から乏しかったが、林業を主とする文化については共通点の多い地域である。
私は、2012年の彼らのレポートをひと目見た時から、いつかは自分もこの池郷川口の不動滝にある隧道を見てみたいと思っていたが、紀伊半島の奥深さは一朝一夕に北山の奥地に私を誘うことがなく、2013年の最初の紀伊半島での探索(高野山や矢ノ川峠に行った)から、10年目にしてようやく到達した。それがこのレポートだ。
私としては珍しい、他の探索者の追体験に重きを置いた内容で、大部分の先を知った状態で書くことになるが、一つだけ、新たな挑戦への野心を持って臨みたい。
それは何かというと、永冨氏たちは件の隧道の上流側の坑口を目撃することが叶わなかった。
なぜなら、隧道が閉塞していたためである。
その“閉塞”の模様がまた凄まじくて、永冨氏が(らしからぬ)下品な超ドデカフォントで「のわーっ!!!」と叫んである。
私としても、その“閉塞”を見る事もまた大きな楽しみであるのだが、そのために辿り着けなかった上流側の坑口への到達を、私の“最終目標”としたい。
いかがだろうか?
皆さまの興味は刺激されたであろうか?
敢えて、冒頭の地図1枚の他は画像を使わず文章だけで説明してみた。
だからまあ、皆さまの興味の高まりというか、期待感はたぶん、“そこそこ”なんじゃないかと思う。
……現地見たら、ぶっ飛ぶぜ、マジで……。
旧池郷橋越しに臨む、池郷川口の風景。
ここから軌道跡は始まり、約700m先で終わる。
不動滝“流材”隧道は、さらにその300mほど先に存在する。
いざ、参る!