廃線レポート 定義森林軌道 その3
2004.11.15


 午前8時12分。

山行がかかつて遭遇したなかで、最も巨大な木造橋梁を渡り終えた。
やり遂げたという満足感はもちろんあったが、どうにも足がまだ地に着いていないような、奇妙な感覚が続いていた。
両足が、ぷるぷると小刻みに震えていることを、私は認めざるを得なかった。
その恐怖が、現実のものだったことを、体は素直に示していた。

だが、浮き足立っている場合ではない。

定義森林軌道は、まだ始まったばかりだった!



大倉川橋梁 対岸
2004.11.3 8:12


 心臓バクバク状態で辿り着いた対岸。
即座に振り返り、己の斃した獲物を確認するように、おもむろに撮影する。
それが、この一枚。

こちらから見た方が、何倍か恐ろしく見える。
それは、恐怖を知った後だからというのもあろうが、そればかりではない。

一つは、すぐ傍に、一番恐かった主梁の破損箇所が、見えていること。(枕木が傾いている場所だ)


もう一つは、
ご覧の通り、此方側は渡り初めの最初の一歩から、いきなり垂直の崖を乗り越えて、暗い水面上なのである。

逆に言えば、此方側から初めの数歩が踏み出せるなら、渡りきることも、そう難しいことではないだろう。

仲間達は、崖下で大倉川を渡渉し、軌道跡へと斜面を登り始めている。
合流するべく、橋の袂を離れる。


 橋の袂へ至る軌道は、崖を削って得られた荒々しい道となっている。
流石に、自動車の轍は残ってはいない。
所々に、枕木の埋もれているのが確認できる。

十里平の入山地点からここまでは、おおよそ1km。
終点までの距離は、推定4kmほどである。
車道化されなかった、純な軌道跡の出現が、期待される。


 仲間達を迎えるべく、軌道跡から少し川へと降りる。
途中、橋を振り返ると、見る者を黙らせる圧倒的な迫力を持って、その大木造アーチが紅葉の向こうに見え隠れする。
敢えて上部構造だけを観察し、手早く渡ってしまったのは、正解だったかも知れない。
じっくりと見れば見るほど、私などが渡ることを赦されないような、迫力がある。

切り出した木々を満載したトロッコが、おそらくは小型の気動車に引かれて、コトコトとこの橋を渡っていたのだろう。
おおよそ45年前の12月のある日を境に、二度と見ることが出来なくなった景色である。
役目を終えた橋は今も倒壊することなく、スリルと冒険を我々にもたらさんとするかの如きに、そこにあり続ける。



 仲間と合流し、再び軌道跡へと登る。
仲間達は、私の功績を讃えてくれたと思うが、まだこの時私は平常心にはほど遠い状態で、その受け答えはよく覚えていない。

袂付近の険しい軌道跡。
法面は素のままだが、路肩は苔生した丸石で固められている。

軌道上に戻り、前進を再開する。


 矢尽沢橋梁 
2004.11.3 8:18


 軌道跡は、所々ご覧のような崩壊に見舞われているが、くじ氏と私で楽しいルートファインディングに興じつつ、細田氏を誘導して進む。
崩壊地を進む楽しさというのに取り付かれた男が、くじ氏である。
私も、まんざらではない。



 なお、時系列順ではないが、帰りは直接大倉川本流と歩いた。
この辺りは、非常に川幅が広く、多少の増水があっても、容易に歩ける。(無論、要沢装備)



 同じく帰り道。
本流を歩いていくと、堰堤の落とす滝の向こうに現れる、大倉川橋梁の姿。
何度見ても、やはり衝撃的なお姿である。

今回レポを書くにあたって、一帯の名山である船形山の登山家達の記録や、大倉川やその支流を遡行した記録にあたったが、“その道”ではこの橋の存在は広く知られているようである。
もっとも、写真を上げているサイトには出会わなかったので、余り重要視されているものでもないらしい。
特筆すべきは、1993年の時点で既に「今にも崩れ落ちそうな」状況になっていたということ。
そして、この時には、ヒヤヒヤしながらも渡った方がおられると言うことである。

崩れ落ちそうながら、崩れ落ちない。
魔法の積木細工である。


 レポを往路に戻す。

軌道跡は、落ち葉や落石に路盤を埋めてはいるが、総じて良好に現存している。

雨は、未だ降り止まず、時折強まる。
帰り道に、大倉川が渡渉出来ないほどに増水したら、全員あの橋を渡らねばならぬことになる。
私とて、もう一度渡るつもりはない。

写真は、マトリックス避け状態のくじ氏。
なぜこのような写真が撮れていたのかは、不明である。



 橋から10分ほど歩くと、軌道跡は大倉川本流から少し離れ、左支川である矢尽沢を左に見つつ進む。
そして間もなく、この矢尽沢も第二の木造橋梁で渡ることになるのだが…。




 支流、矢尽沢を渡る木造橋。
規模は先ほどの大倉川橋梁に比して小さいが、それでも、他所で見られる木造橋の多くよりも巨大である。
そして、なによりも、いまだその原形を留めていることが、素晴らしい。

延長、30m。
高さ、4mほどの、好ましい木造橋である。

明らかに腐築しているが、大物の攻略で気持ち大きくなっていた私は、おもむろに下調べもせず、渡りはじめた。


 が。
沢全体の3分の2まで来た私は、驚きを隠さなかった。

なななんと、橋は2本目の木造橋脚を境に、すっかりと流出していたのである。


え?

わざとらしい?
渡る前に、気がつかないはずがない?
ヤラセじゃないかって?


テヘヘ。
ヤラセです。


 上部構造は大倉川橋梁と瓜二つの矢尽沢橋梁。
左岸側3分の2は健在だが、残りの右岸側は消失している。
橋台は石造であり、脆そうだ。
おそらく、死因は右岸の橋台の崩壊だと思われる。
現在は、右岸はごっそり土砂が流出し、橋台の欠片も見えない。

くじ氏は、何を思ったか、切れ目の橋脚によじ登り、橋の上に行って見せた。
誰も写真撮ってないし…。

なお、本橋についても、先に挙げた1993年の某サイト山行記録によれば、健在であったようだ。
ただ、当時からもう渡れないほどに朽ちていたらしい。





 矢尽沢橋梁から4分ほどで、軌道跡は再び大きな崩落地に出会う。
いつの間にか脇には大倉川本流が戻ってきていたが、約10mほど下手の川原に対し、鋭角に切れ込む崩落である。
このまま軌道敷きを進むか、ここで一旦川原へと迂回するかを選択させられる展開だが、山側の木々に手がかり有りと判断した我々は、くじ氏を先頭に正面突破を敢行した。

だんだんと、軌道自体がアスレチカルな展開になりつつあった。









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