
駅周辺には人家が一軒もないところ
乗降客はほとんどない。秘境の道標のごとく駅が建つ
50年前の書物において、既に上記のような表現がなされていた、国鉄の伝説的秘境駅。
それが、宗谷本線(旭川―稚内)の143.1km地点に、かつて存在した、「神路駅」だ。
この駅は、上川地方の最北端に位置する中川郡中川町大字神路の天塩川の畔にあった。
そして、この駅に附属するように、神路集落が存在していた。
最盛期には、20世帯(100人)以上の住人が暮らしていたというが、いまは駅も集落もともに消えた。
神路集落の最大の特徴は、その歴史のほとんどの期間について、陸路により到達する手段を、この神路駅による鉄道以外に持たなかったことだ。
神路駅と神路集落は、この世界に二人きりで誕生し、二人きりでほとんどの時間を過ごし、そして二人きりで消えていったのである。
そんな濃密な空間が、昼夜を問わず多くの車が行き交う国道40号の“向こう岸”に、かつて存在していた。
そんな事実に、私は大きなロマンを感じる。
@ 大正12(1923)年 | ![]() |
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A 昭和31(1956)年 | |
B 地理院地図(現在) |
神路駅があった時代を含む、3世代の地形図を見てみよう。
@は大正12(1923)年の地形図である。
大正11(1922)年11月8日に官設鉄道天塩線の延伸により開業したばかりの神路駅が中央に見える。
この後の大正15年に稚内まで開業した天塩線は、昭和5年に宗谷本線へ改名された。
この時点で既に駅の周辺には数戸の建物が描かれているが、これが誕生したばかりの神路集落である。
地図左上に地名が見えている対岸の「幌萌(ほろもい)」へ明治末頃より入植していた開拓民たちが、駅の開業前後に挙って駅前へ移住したことで集落が誕生した。
また、同駅には交換設備が設けられていたことから鉄道員が常駐しており、彼らが住む鉄道官舎も集落の一員であった。
Aは昭和31(1956)年版で、神路集落としての最盛期である。
駅前を中心に十数戸の建物が並び、他の何処にも繋がらない孤立した車道も駅から1kmほど延びている。中川町立神路小学校と呼ばれた学校の記号もある。
駅の対岸には、この年に初めて自動車道として完成した一級国道40号(旭川〜稚内)が描かれているが、集落との接点は持たなかった。国道沿いの幌萌にも数軒の人家が見える。
Bは最新の地理院地図で、鉄道と国道は変わらぬ位置にあるが、神路駅と神路集落は共に綺麗さっぱりなくなっている。
集落があった辺りは、悲しいほどまっさらだ……。

今度は航空写真でも見較べてみよう。
最初に表示しているのは昭和23(1948)年版で、駅がある右岸側の川沿い低地の全体に耕地を示すモザイク状の模様が見える。
だが、チェンジ後の令和2(2020)年版では、この広大な農地であったところも、駅や集落がまとまっていた辺りも、山と全く見分けがつかないくらい山林に埋れていることが分かる。
以上のように、歴代の地形図や航空写真の変遷からは、未開の原野に現れた鉄道駅という文明の利器が、いくらかの住民を誘引して当地に根付かせたが、最終的には駅も集落も消えてしまったことが分かる。
それでは、なぜ駅と集落は消えてしまったのか。
単純に、過疎化ということは考えられるか、他の要因もあるのだろうか。
実は、決定的に集落の消失を早める出来事があったという。
そこには、歴代全ての地形図にも航空写真にも描かれることがなかった、とても短命な存在が関わっていた…。
それは、対岸の国道40号と神路集落を結んだ、“幻の橋”の存在だ。だ。
昭和30年代には駅のある右岸(神路)と国道がある左岸(幌萌)に分れ、開拓民や鉄道員その家族ら合わせ100人以上が暮らしていた大字神路地区であったが、国道と鉄道が存在していても交通が不便であることに変わりはなかった。右岸は鉄道以外に道がない不便さがあり、左岸の国道は冬期間除雪がされず杜絶するため、こちらも不便であった。両岸を結ぶ手段として渡船があったが、雪解けの時期は増水のため途絶えがちで、通学するにも事欠いた。
さらには川岸の地形であるため度々水害にも脅かされ、通学路としても、緊急時の避難路としても、両岸を結ぶ渡船に代わる架橋の実現が強く望まれたのは必然の趨勢であった。
住民の要望を受けた中川町からの陳情は、農水省による開拓予算による農道事業としての架橋へと結実を見る。
事業化は昭和37(1962)年であり、その翌年の昭和38(1963)年5月20日に待望の開通式を迎えている。
完成したのは、全長125mの堂々たる鋼製吊橋で、その名も「神路大橋」と名付けられた。

『中川町史』より(2枚とも)
『中川町史』(昭和50(1975)年)には、渡橋式の写真が2枚掲載されていた(右)。
1枚には、くす玉が飾られた主塔のもとに集まる20名ほどの人々が写っている。
橋の幅は2.5mと決して余裕のあるものではなかったが、小型車両の通行も可能な橋は集落の歴史に画期をもたらす存在として、おそらく全ての住人に歓迎されたことだろう。
しかし……、
この地の荘厳な「神路」という地名の由来となったアイヌ語の「カムイ・ルエサニ」(神の坂)こと、左岸の神居山(かむいやま)におわする神は、この地に根付いた文明に非情な試練を与える。
橋の完成からわずか7ヶ月後の同年12月18日午後11時頃、吊橋は突如として川へ落ち、流失してしまったのである。
調査によると、原因は神居山より吹き下ろした推定風速17mの強風であったという。
当地の独特の地形が引きおこした強風は、おそらく共振現象によって主索を限界以上に激しく揺らし、その結果、主索からハンガーが外れ、そのまま桁が墜落したものとみられた。
深夜の出来事であったため人的被害こそなかったが、待望の橋を一瞬にして失った住民達の落胆は計り知れなかった。
設計の不備も疑われたが、結局、橋が架け直しは行われなかった。
この落橋事故から2年後の昭和40(1965)年、左岸の幌萌地区の6戸が撤退、さらに2年後の昭和42年には右岸の神路地区に最後まで残っていた農家が撤退し、駅前には国鉄職員11人が住まう鉄道官舎だけが残された。この時点で開拓集落としての神路は歴史を終えたのである。
残された国鉄職員も間もなく通勤による勤務となったため、完全に集落は無人となった。
冒頭で紹介した神路駅の景色を伝える2つの文献(ともに昭和48(1973)年刊行)は、集落解散後のものである。
その後、利用者が皆無に近くなった駅の機能は徐々に縮小され、まずは昭和49(1974)年に貨物の取り扱いを廃止している。
次いで、昭和52(1977)年5月25日に神路駅は廃止となり、神路信号場となった。
が、この時点ではまだ時刻表に載らない仮乗降場として、交換業務に当る鉄道職員の通勤などの目的で最低限度の列車は停車を続けた。一般の乗客も乗降が出来たらしい。
だが、昭和60(1985)年3月14日に神路信号場も廃止となり、この瞬間、神路へ辿り着く一般的な手段は絶たれた。
以上のような神路駅と神路集落が辿った壮絶な盛衰史は、平成の鉄道ブームや秘境駅ブームの中で人々の興味を誘い、再発掘される機会に恵まれた。現存するウェブサイトに限っても、相当に多くの言及がなされている。
ウィキペディアに編まれた神路信号場や神路 (中川町)の解説ページは、その代表的なものであり、情報量が多く大いに参考にさせて貰った。
当然ながら、神路駅跡や神路集落跡へ(鉄道以外の手段で)到達することについても多くの人が試みている。
曰く、いくつかの候補となる接近ルートがあるらしいが、いずれにしても結局のところ、陸路による限りにおいては、どこかで一度踏切でない場所で線路を横断しなければ辿り着けないらしく、推奨できるルートは存在しないという結論であるらしい。
そのような事情や、ヒグマとの遭遇の危険性から、秘境駅のオーソリティ『秘境駅へ行こう!』にも、「決して訪問してはならない場所のひとつである。
」と述べられているほどだ。
私がこの神路駅を知ったのは、令和2(2020)年に旧神路集落研究会というハンドルネームを持つ読者さまからの詳細な情報提供による。
以来、私も大いに興味を持っていたのであるが、令和5(2023)年10月28日に、到達作戦を決行した。
当地方の往来における、もっとも旧来的な交通手段を手本にして……。

“EXPLORER K2” 出動!