かつて飛騨地方の北辺、高原川沿いの険しい山間部において、軌間610mmという鉱山軌道でありながら旅客営業をも行っていた神岡軌道。
その希有な存在は“参考文献”などによって世に知らしめられ、廃線を愛する人々には広く知られてきたものであるが、その廃線跡の詳細な現状については、全長50km近い総延長や長期間の放置による路盤荒廃のため、ほとんど明らかではなかった。
長大な廃線跡の全貌をこの目で確かめるべく、私と永冨氏が合同して平成20年7月に2日間をかけた最初の探索を行った。
このときの探索目標は、全線中でも特に長く利用され旅客営業も行われていた、猪谷〜神岡町間(23.9km)。(右図参照)
探索は一定以上の成果をあげたものの、いかんせん真夏の藪の最も深い時期であったことや、徒歩と自転車という移動手段の貧弱さに苦しめられ、当初予定していた全線踏破には至らず、途中に何か所か「保留」とさせて貰った区間があった。
これを大いに心残りと思っていた私であったが、平成21年の春先になって地元の読者様の強い薦め (冬の斜面に新しい何かが見えてるよ〜) を受けたこともあって、急遽単独での再踏査を実施することにしたのであった。
そんなわけで、草葉の萌え出ずる勢いに負けじと、平成21年4月27日および28日の二日間にねじ込んだ神岡軌道「第二次探索」であったが、その主眼は2つ。
ひとつは、前回踏査区間である猪谷〜神岡町間の再訪であり、特に前回は「保留」とした数カ所の実踏調査をすること。
もうひとつは、神岡軌道としては初期の施設群である笹津〜東猪谷間の廃線探索を新規に行うことであった。
なお、ここで整理のため、今一度右の図を見ていただきたいのだが、実はこれを書いている時点では、第一次探索のレポートが未完結である。
第12回まで公開済みであるが、なお3分の1ほどの分量を残している。
よって、この後のレポートの執筆・公開の順序としては、「保留」部分の再訪編(このレポです)を優先し、第12回の到達地点である「漆山」付近まで追いついてから、改めて2回分の成果を利用して「第13回」以降を作成したいと思う。
…ぶっちゃけ、この流れでいくと、笹津〜東猪谷間はいつになるか分からないが… まあ、皆様の反響と私の気分次第で何があるか分からないのも「山行が」だ…。
とまあ、ここまでが「第二次探索」の“総”前書きのような部分で、これからが再訪した具体的な探索の内容に入っていく。
まず、前回探索において「第4回」の最後に「不本意だが、茂住へワープ!!」として端折った区間(右図の赤い部分)を再訪してみた。
探索の時系列順でも、これが第二次探索の最初である。
この区間の事を少し振り返ってみると、東猪谷側から富山・岐阜の県境にある例の絶壁(写真)区間を踏破した2人は、そのまま横山集落の裏手の山を横切って、さらに1本の隧道を通過。そして荒田沢にぶつかった。
しかし、荒田沢に架かっていたはずの大鉄橋は、橋台や橋脚のみを残して消えており、谷を渡ることは出来なかった。
そのため一旦前進を断念したのだが、ちょうど時間がおしてきていたことから、国道41号と並行して近接していることを理由に荒田沢〜杉山(茂住駅)間を割愛して、「第5回」の探索を東茂住から開始したのであった。
そんなわけで、まずは荒田沢〜杉山(茂住駅)間の実踏である。
地形図を見る限りこの区間の延長は1kmほどで、軌道が現役であった当時の古地形図を見ても、特に橋や隧道があった様子はない。
しかし、並行する国道との高低差は県境の断崖部に準ずるほど大きく、さらに国道上には杉山トンネルや連続するロックシェッドがあるために、その状況を下からうかがい知ることは難しい区間なのである。
前回の探索で横山付近から撮影した、今回踏査区間の遠景。(赤い部分)
まあ、何も無さそうっちゃあ無さそうだったが… はたして。
まあ、 もし何も出て来なくても…
気持ちだけはスッキリするだろう。
そんな軽い気持ちで、私は臨んだ。
参考文献:『鉄道廃線跡を歩く〈8〉 JTBキャンブックス』
2009/4/27 12:58 《現在地》
ここは右図中のA地点。
ちょうど国道が荒田沢を渡るところにある「荒田口不動尊」前の駐車スペースだ。
前回の真夏の探索では、この清水に本当にお世話になったっけな。
今は遠くで別の探索をしているはずの盟友の顔を思い浮かべつつ、愛車から愛車を降ろす。
今回は一人で長距離を点々と見て回るプランということで、必殺の探索技を使わせて貰う。
といっても、自動車+自転車+徒歩で探索する人はみんなやっていると思うけど、「A-B-Cコンボ」と呼んでいる立ち回りだ。
一応説明すると、A地点に車(Car)を停めて自転車(Bicycle)でB地点に向かう。そこに自転車を停めて、後は歩き(Aruki)で探索しながらA地点へと戻ってくる。後は車でB地点に行き自転車を回収して、一つの探索が完了となる。
峠の(自転車も通れないような)旧道の探索とか、歩きでしか辿れない廃線の探索なんかでは、とても効率的に見て回ることが出来る技だ。
早速出発。
自転車で国道を走り始める。
間もなく青色のロックシェッドが始まり、そのまま空を見ることなく杉山隧道に入る。
昭和42年に竣功した全長426mの隧道は、歩道が無いばかりか、路肩さえほとんど無い。
それなのに、富山と名古屋を結ぶ重要幹線国道ということで大型車の往来がとても多い。
これを通るのは2度目だけど、はっきり言って生きた心地がしないのである。
(3度目じゃないのは、前回の帰り道はトンネル脇の旧道…結構荒れている…を通っているから)
13:04 【現在地(B地点)】
そして、隧道を出たところがさっきの地図の「B地点」であり、神岡軌道の茂住駅への最短の入口である。
左に見えるスロープの上にそれはある。
自転車でも登っていけるが、チェーンが張ってあって車では入れない。
よって、予定通りにこの広場に自転車を駐めて行くことにする。
こっからは歩きだ。
振り返り見る、杉山隧道の神岡側坑口。
軌道はこの急斜面のだいぶ上の方。
おそらくは30〜40mも上部を通行していると思われ、前回同様、下からその気配を掴むことは出来なかった。
これは、たとえ緑が全くなかったとしても、おそらく見えまい。
そのくらいは離れている感じがする。
チェーンの脇に設置された、「この先入ったら自己責任」の旨を伝える神岡鉱山の警告文に目を通す。
そして、さらに進むと「茂住鉱山」という巨大な表札が掲げられた門扉があった。
扉は開け放たれたままである。
写真では少々分かりづらいが、この坂はもの凄い急坂で、一気に軌道跡のある高さ。すなわち神岡鉱山茂住鉱業所の敷地へと上り詰めていく。
茂住には神岡鉱山系の中では主要な鉱脈の一つがあり、また精錬所も置かれて長い間栄えたところである。
現在は、旧坑道を利用した大深度地下に「スーパーカミオカンデ」なる宇宙線観測施設が置かれ、学都としての飛騨市(神岡)を支えているのである。
一度目の切り返し。
切り返して北を向いても、まだ上りはその手綱を緩めてくれない。
このくらい急になると、自転車で無くても疲労する。
前方のライムとダークグリーンが斑になった山を、軌道跡は通行しているはず。
これから向かうのも、その中だ。
しかしまずは、茂住駅。
茂住駅にたどり着かねば始まらない。
また同じくらいの距離と高さを登ったところで、2度目の切り返し。
そして、ようやく平坦なレベルが現れた。
やはり、国道路面からは30mは高い。
ここが、神岡軌道にとっての茂住である。
人が住む茂住や杉山の集落は国道沿いにあるのに対し、軌道に面しているのは、みな鉱山(ヤマ)の施設たちである。
そう。
この写真奥に写っている、三角屋根の建物でさえも…
もずみスッポン!
これも立派な鉱山関連施設であろう…。
ヤマで働くというのは、それだけ堪えるのだよ…。きっと。
13:08 《現在地》
スッポン工場の真ん前に広がっているこの空き地。
ここに茂住駅はあったらしい。
前回の探索では、神岡側から“橋になったトンネル?”(写真)を潜り抜けて、このすぐ向こう側のカーブまで来ているのだが、たまたま左に写る精錬場の解体工事が行われていた関係で、それ以上こちらへ近づけなかった。
でも、今は見たところ無人のようだ。
残念ながら駅そのものの遺構は残っていないようだが、この敷地の廓大さは、複数の積み込み側線を持つ、途中駅としては随一の規模を誇る駅だったことを伝えている。
昭和41年10月から翌年3月27日まで、全廃を控えた神岡軌道の最後の営業区間は、この茂住駅から国鉄と連絡する猪谷駅までの7.5kmであった。
(←)
茂住駅跡から猪谷方向へと軌道跡を歩き始める。
どうも、スッポン工場脇の草むした空き地がそれであるらしい。
なんか、今ひとつ盛り上がらないが…(笑)。
(→)
側溝の蓋は、廃レールを細かく裁断したものだった。
一応は軌道跡の遺構といえるだろうか。
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13:09
…。
なんだか、良くは分からない。
道があるといえばあるし、ただの空き地だといわれればそんな感じ。
少し離れたところに国道を走る車の音を感じながら、少しばかり締まりのない景色の中を歩いていくのである。
うおおぉおぉ!
何だよ何だよ!
あるじゃないかよ〜!
なんだー、あるじゃないか。
こんなオイシイ景色。
いやはや… 反省。
やはり実際に来てみないと、何があるかは分からないものである。
しかし、それにしてもここは複線だったのだろうか。
杉林の底に、斜面をかなり平らげた広い空き地が作られていた。
山側は丁寧な石垣(空積み)になっており、その作りなどは、昨年見た軌道跡のそれと酷似している。
とにかく、これが軌道跡と考えて間違いなさそうだ。
喜び勇んで進んでいくと、50mほどで石垣が途絶え、代わりに雪崩防止策がドデンと現れた。
これも前回よく見た光景だが、下の国道を守るための施設敷として軌道跡が使われているのだろう。
さらに進むと、等高線は嘘をつかないとばかりに周囲の傾斜は増してきて、路肩から優良な視界を得られるようになった。
神岡方のみであるが。
見下ろすと、まるで川の流れのように悠々と蛇行する国道と、先ほど私が登ってきた急坂の道とが見えた。
この高低差だ。
そりゃ下から伺おうなんて無理な話だった。
まあ良い。
前回果たせなかったからこそ、今またこうして、極上のドキワクを楽しめるのだから。
(nagajisさん、独り占めしてゴメンね…)
まずは石垣の出現にかるくジャブを当てられた感じで進んでいくと、今度はゴツゴツした岩場の浅い切り通しが現れた。
またしても右側は石垣。今度は谷積っぽい作りになっている。
そして、左側の岩場には、見慣れない少し大きめのコンクリート標柱が立っていた。
「二三六一」と大きく彫られているが、意味は何だろう。
距離標ならば、こんな中途半端な数字を示すとは思えないし、番地だろうか。
また、岩場の天辺には、電信柱の基礎と思われるものが残っていた。
やや傾斜の弱い石垣(この方が安定はするだろうが珍しい)を右に掘り割りを回り込むと、再び左が大きく開けた。
ここまでは綺麗だった路盤も、この先はどうだろうか。
前方の明るさに、もはや定番となった不安を抱く。
踏破困難な崩れや、それに伴う藪の激化。
そういった試練は、大概明るい太陽の下で花開く。
案の定、荒れてきた。
しかし、嬉しい発見もあった。
崩土に埋もれた法面から、何本も廃レールが突き出ている。
これはきっと、法面を抑える土留めの役割を果たしていたのだろう。
神岡軌道のレールは、明治43年に土〜茂住間5kmの馬車軌道としてスタートした当時は12ポンド。
大正4年にこれを笹津まで延長開業した際に、16ポンドへ。
昭和初期に内燃機関車が入線するようになってからは、順次25〜35ポンド(12〜16kg)に切り替えられてきた歴史がある。
詳しい人が見れば、いつの時代の廃レールかも分かるだろう。
うぐぐぐぐ…
ちょっと怖くなってきたぞ。
一つ間違えば、前進不能もあり得るような雰囲気になってきた。
軌道の右も左も非常に険しい斜面であり、迂回は一切考えられないような状況。
また、進めない場面が現れずとも、油断すれば自ら足を踏み外して死んでしまう危険性もある。
気付けば周りからあらゆる人工的な音も消えていた。
遙か崖下から、川の流れる音がゾウゾウと聞こえるのみ。
(←)
好きで見下ろしたくなくても、自然と下に目が向くような状況。
ほぼ垂直に切れ落ちた20mほど下に、ここよりもだいぶ広い帯状の平場が続いているのが見える。
その正体は旧国道。
前回そこを通ったが、真夏だったのと遅い夕暮れだったせいで、頭上の軌道跡には全然気付かなかった。
(→)
そして軌道上の前方。
なんだか、これって……。
有ったのか! ここにも!!