廃線レポート
藤琴粕毛内川林鉄 最終回
2005.5.14
今度は、下流へと進む。
2005.5.3 10:57
約1時間15分ぶりに、車を止めている場所のすぐ傍である、内川橋に戻ってきた。
このすぐ下流には、内川に流れ込む小さな支沢を半弦を描きつつ跨ぐ林鉄橋が残っており、繰り返し目を惹く。
ここから、私とくじ氏は、半弦橋を再び渡って、下流へと林鉄跡を下ってみることにした。
再び困難な道行きが予想されたが、上流にあれほどの遺構を残している内川林鉄である、まだ何か、大きな遺構が下流にも残っている可能性は、低くない。
この日はダムが満水であり、粕毛林鉄本線との分岐点などは、完全に湖底に沈んでいることが予想されたが、とりあえず、湖に阻まれるまで、下ってみることにした。
一方、沢装備ではないふみやん氏と、体調が今ひとつ優れないというパタ氏は、この橋の袂で、お留守番と言うことになった。
私とくじ氏は、再び、行動を開始した。
★今回のレポでは、実験的に写真を多用してみました。
是非貴方のご感想を、感想板へどうぞ。
内川林鉄を下流へと進む、もっとも手っ取り早い方法は、林鉄跡の橋を渡ってそのまま林鉄跡を歩くことだろう。
素直にそう考えて、私とくじ氏は、再び、半弦橋を渡った。
楽しいなー。
しかし、それ以上下流へと、軌道跡を歩くことは叶わなかった。
右の写真の通り、半弦橋の下流側の袂には、もはや軌道がそこにあった痕跡など無かった。
自然に崩壊したものもあるだろうし、この斜面の20mほど上には林道が通っており(ちょうど我々の車が残雪で進めなくなった辺りだ)、林道工事で斜面が荒廃したのかも知れない。
いずれにしても、とても歩ける状況ではないと判断し、素直に、河床へと降りて沢歩きをすることにした。
橋の袂は、石垣の橋台であり、凹凸のある石垣を手懸かりに、慎重に河床へと降りた。
内川林鉄最大の遺構と言って良い、半弦橋の勇士を、今一度ご覧頂きたい。
いかにも林鉄らしい、幅の狭いコンクリート橋である。
従来の木造橋では、かなり技術的に高度なものが要求された、半弧を描くような線形だが、コンクリート製故に、かなり自由な設計も出来るのだろう。
とはいえ、終点まであと僅か1kmほどという位置、しかも支線であるにもかかわらず、これだけの橋が建造されたことに興奮を禁じ得ない。
この白神山地の森林鉄道には、従来知られている県内林鉄の常識が通用しないのかも知れないという、そんな期待を抱かせるには十分な、橋であった。
県内最後の林鉄のユートピアが、この一帯なのではないかと、私は今も考えている。
引き続きパタ氏から預かっている無線機に、定期的に現状を報告して歩いた。
しかし、ある程度歩くと、次第に音声が乱れ、仕舞いには聞こえなくなってしまったが。
林鉄跡を、左岸の岩肌に、痕跡として確かめながら、決定的な遺構を見ることもなく、淡々と、河原を歩いていく。
「淡々」とはいっても、それは林道を歩くときの「淡々」とは、根本的に違う次元であって、楽しくて、たまらない。
まあ、林鉄歩きはどれも楽しいが、特に、今回のように、地図上には示されていない路線を探し歩くときが、一番、面白い。
それは、どんな遺構があるか想像も付かないということであるし、何もかもが、新発見なのだから。
脇沢をいくつも集めつつ、徐々に水量を増していく内川を、水の流れに押されながら、下っていく。
勾配は、緩い。
くじ氏は、子供のように、崖によじ登ると、どう見ても歩くには足りないだろう軌道跡の、縁の名残のような危うい地形に、チャレンジしている。
まあ、落ちてもお笑い程度の高さなのだが、楽しそうに歩く姿を見ていると、私もつい、年甲斐もなく、よじ登り始める。
私: 「どうだー いげるがー?(行けるかー?)」
くじ氏: 「…。」
私: 「いま、おれもいっでみるー!」
まるで、兄弟猿のように、崖を跳び回る二人なのであった。
20代も後半を迎えた私は、彼の足回りには叶わないが、気持ちは負けていないつもりだ。
でも、チャリ馬鹿トリオで野山を駆けた10代前半を、もう懐かしい気持ちでしか思い出せない私は、体力のピークが過ぎたことを感じる。
あと何年、こうして跳ね回れるだろう。
時々は寂しく感じることもあるけれど、好きなれば、続けていきたい。己の背丈にあった冒険を。
誇りを持って。
最終局面へのカウントダウン
11:10
結局、直ぐに軌道跡から退去させられ、またも河床の人となった。
かと思えば、今度は河床に進める場所が無くなってしまった。
目の前には、渦を巻く淵が続いている。
対岸に渡ることも考えたが、よくよく見てみると、軌道跡が、直ぐ頭上に復活している。
徒労に終わる危険性もあったが、またも軌道跡へとよじ登る。
すると、思いがけず視界が開けた。
そこには、淵を巻くために設けられた、岩切りの道が、まっすぐ続いていたのである。
こういう、先人の設計の妙を追体験できるのもまた、楽しみである。
残雪が多く残る切り通しへ、躍り込んだ。
隧道になるには少し役不足だったようだが、かなりの深さを持つ切り通し。
好きな、景色だ。
川の音が、岩肌に遮られて、急に遠く感じられる。
僅かな厚みでも、岩肌は音をよく遮る。
この切り通しが、結果的に、林鉄遺構として断定できるものとしては、もっとも下流のものとなった。
ここまで、出発地点から約500mほど。
これより先の景色は、 一変する。
切り通しの先は、軌道跡が消失する。
それも、突然だ。
河床自体が急に幅広くなり、そこは山菜が豊富に生える、栄養豊富そうな土の地面となった。
谷間を埋める土の平坦地は、幅が50m以上あり、その中央にいくつもの河痕を従えた清流が、粒の小さな玉砂利の上を穏やかに流れる。
ダムが近いのだろうか?
下流に来たから、谷が幅広くなっていると言うことなのか。
しかし、なんとなく、突然すぎる景色の豹変に、違和感を感じていた。
不自然なのだ。
くじ氏と私は、一緒にきょろきょろと軌道跡を探して歩いたが、もはや、その行方はようとして知れなかった。
本当に、どこへ消えてしまったのだろう。
地形が急峻な場所ほど、軌道跡を特定しやすいというのはあるが、これだけ平坦な河原のどこかには軌道が通っていた築堤などがあったとしても、不思議はないはずなのに…。
歩けども、歩けども、それらしいものは見えず、かといって、なかなかダム湖の水面も見えてはこなかった。
そうこうしているうちに、左の斜面上遠くに、さっき車で通った粕毛林道のカーブミラーが見えた。
林道から、そう遠くない場所を歩いていることを知り、少しホッとした。
ただし、日を受けてキラリと光るカーブミラーは、100mも頭上彼方に、蜃気楼のように見えていたに過ぎず、私は冗談交じりで、くじ氏に言った。
「なんかたいした発見もねーし、帰りはスッキリとこの崖を登って帰るか?!」
半分は冗談。
もう半分は、「このスリルは楽しいかも知れないな」と言う、私のイケナイ虫だった。
次々と合流してくる脇沢を、徒渉を繰り返しながら前進する。
相変わらず、軌道跡は全く判然としない。
ときおり、それらしい平場を傍の山際に見出したりするものの、長く続くことはなかった。
橋や枕木、無論レールも、全く見あたらなくなってしまった。
出発から、20分近くを経過しており、そろそろ帰途につかないと、パタ氏たちを心配させてしまうおそれがある。
焦りを、感じ始めた。
しかし、景色に変化は現れなかった。
ただ淡彩な早春の森が、平坦すぎる河原に、続く。
両岸の山肌は、岩場混じりで険しいのに、河床のみが異様に、平坦で、ノッペリとしているのだ。
不思議な地形だと言うよりも、もう、おかしい地形、異常な地形だという感想を持った。
ダム湖が近いはずだが、これは堆積による地形なのだろうと、考え始めていた。
しかし、それにしては、木々はよく茂り、時折でも水没している気配はないし、そもそも今日の水位が満水だったはずだ。
わからない。
源流近い景色とは思えない、幅広な内川の景観。
こんな場所を、10分以上歩き続けた。
ペースはかなり速くなったが、引き返す口実もないままに、進んだ。
もう、軌道跡など、その気配もない。
我々は口々に、「ない」「ない」「どこさいっだ?」を繰り返しながら、歩いた。
いよいよ、水面が谷底の平坦地の大半に広がった。
ダム湖の始まりなのか?
水深10cm程度の、水遊びにはまたとないような適地が、ひとしきり続いた。
しかし、 「世界の終わり」 は、唐突に訪れたのだった。
か、
川がない…!
子供の頃、何かの本で読んだ世界観が、脳裏をよぎる。
中世ヨーロッパの学者たちは、まだ地球という天体を、宇宙に存在する球として認識する術を持たず、ただ平坦な、お盆のような世界観を持っていた。
お盆の上には、星や月や、太陽などが(どこからか)つり下げられており、空が動き、昼と夜が交代する(天動説)。
そんな世界観の突飛さは、小学生の私でさえ笑った。
が、その世界観のある一点に、強く惹かれたのだった。
なぜならば、「世界の果て」という、“言葉としてはあるが、現実にはどこにも存在しない地”が、その世界観には、たしかにあったから。
世界の果て
それは、この景色のように…、
海が、虚空へと落ちて、地平(水平線というべきか)が潰える、絶対的な「端」である。
そんな、この世の果て、地上の果て、世界の果てに、
夢見がちだった、子供の私は、強く惹かれたのである。
そんなことを、思い出していた。私は。
無論ここは、世界の果てなどではない。
ダム湖に落ち込む、最終砂防ダムの、その突端である。
しかし、この砂防ダムは、今まで私が見た同種のものの中では、もっとも大きな部類に入る。
まさに、川という小世界の、果てだという景色だった。
軌道跡を探していたことも忘れ、この異様な迫力に、私は魅入られていた。
幸い、限りなく分散された流れは穏やかで、ギリギリまで近づくことを、許した。
突端に立つ。
首を下に向ければ、そこは内川の最期。
長らく続いてきた穏やかな流れは、突如、重力だけに委ねられた奔湍となり、そして、刹那、
底の見えない青に落ちて、湖と同化する。
私は、何を感激しているのか不思議だったが、この内川の最期の姿は、とにかく私の心をとらえて、容易には放さなかった。
くじ氏は覗き込もうともしなかったが、私はしばし、憑かれたように、世界の果てから落ちる水の行方を、見ていた。
継続する轟音が耳空を麻痺させ、意識が落ち込みそうな、異様な恍惚を、私は感じた。
あ、
危ない。
これ以上見ていると、本当に、フラリと、落ちていきそうだ。
危ない。危ない。
これが、素波里ダム湖によって沈んだ、内川の続きである。
まだ、粕毛川本流までは、推定1000m以上あるが、とてもとても、接近できる手だてはない。
肝心の軌道跡も、おそらくは既に水中…。
全く、見あたらない。
先ほどからずうっと平坦な沢が続いて来たのも、この巨大砂防ダムによって堆積した膨大な量の土砂による、破壊された環境であったのだ。
軌道跡なども、既に堆積に飲み込まれ、地中に消えたものと、推定される。
軌道跡喪失の謎は、完全な形ではないものの、半ば解けた。
あとは、下流側よりダムの水位が低い時期に、また来てみたいものだ。
残念ながら、上流に見られたような濃密な発見は、下流には成されなかった。
しかし、砂防ダムが引き起こした、地形の恐るべき改変を、我々は見た。
近年では、日本中に増えすぎた砂防ダムが及ぼす環境への影響が、取りざたされ始めている。
それは、この砂防ダムがまさに典型例だと思うが、堆積によって砂防ダム本来の貯砂能力(洪水の緩和能力)が失われること。(浚渫工事には莫大な予算が必要)
それに、河川という一つの連続する生態系を、砂防ダムは圧倒的に途絶する。
私が「世界の果て」と感じたのは、水中生活者にとっては、真なる現実なのである。
とは言っても、下流に多くの人口を抱える日本の大多数の河川において、砂防ダムを用いない治水は困難なのかも知れないが…。
功成せ無かった我々は、帰投時間の短縮もかねて、先ほど目撃した、カーブミラーへの直接登攀を、帰路に選んだ。
私にとって、この100mの崖登りは、それはもう、一発で目が醒めた。
そして、様々な想いを紡いだ200分が、終わった。
いつの間にか、私の中で主役が、林鉄から、川そのものに変わってしまったという、稀な探索であった。
完
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