廃線レポート 久渡沢の軌道跡隧道 捜索作戦 導入

公開日 2024.08.23
探索日 2019.01.29
所在地 山梨県山梨市


全ての始まりは、いまから10年前の2014年にいただいた、oostmaasという方からの一本の情報提供だった。

その全文は以下の枠内の通りのもので、山梨県山梨市(旧三富村)の広瀬から雁坂峠へ登る久渡沢(くどさわ、くどのさわ)という谷を舞台とする軌道跡に関する内容だが、非常に重要な問題として、現地探索を終えてレポートを書こうとしているこの時点でも、“下線部分”の追認が出来ておらず、大きな謎のままとなっている。


oostmaas氏の情報提供

山梨の旧三富村広瀬から雁坂峠に向かって久渡沢を遡上しながら登山した(秩父往還道)時、右岸上方の崖に洞窟のようなものが見えました。さして、気にしなかったのですが、最近、読んだ一連の山岳古書で明治末に始まった付近の森林開発に伴い、大正初期に開設された久渡沢軌道の隧道であることが、分りました。昭和29年版の「奥秩父の山と谷」には、登山道として記載がありますが、その後の改訂版では、記載されておりません。


久渡沢軌道の跡である隧道が存在するとのことだが、軌道の詳細は、今のところほとんど分からない。
そのいちばんの理由は、情報提供者が読んだという、久渡沢軌道の由来に言及した“一連の山岳古書”を特定出来ていないためである。
当時は情報提供にフォームを用いていたため、情報提供者に返信して内容を問い合わせる術もなかったのである。


『奥秩父の山と谷』の奥付
昭和33年5月発行である

情報提供文にタイトルが掲載された唯一の文献が『奥秩父の山と谷』であるが、調べてみると、山と渓谷社から昭和33年に奥秩父の山と谷 (登山地図帳)という登山ガイド本が出ていたので、これを図書館で借りて読んでみた。(いまは国会図書館デジタルコレクションでも読むことが出来る)

同書のp.156「天科から雁坂峠へ」に久渡沢沿いの登山道の記述があるのだが、残念ながら隧道や軌道は登場していなかった(具体的な内容は後述)。
私が読んだ『奥秩父の山と谷』は、彼の言う「昭和29年版の『奥秩父の山と谷』」ではなく、「その後の改訂版では記載されておりません」に該当するのだと思ったが、『奥秩父の山と谷 (登山地図帳)』に昭和33年よりも古い版の存在は確認できなかった。

情報をいただいてからこれまで約10年の間に、奥秩父を取り扱った山岳書の古典である田辺重治の『日本アルプスと秩父巡礼』(大正8年)復刻本や、山梨県の林政誌ともいえる『山梨県恩賜県有財産沿革誌』『山梨県恩賜県有財産御下賜40周年記念誌』『同50』『同60』『同70』『同80』『同90』『同100』のほか、『三富村誌 上/下巻』や、後述する三塩森林軌道や西沢森林軌道について記した『全国森林鉄道』『トワイライトゾ〜ンマニュアルIII』などの書物にもあたってみたが、この軌道や隧道に関する記述は見つけることは出来なかった。

最近全文検索が可能になった「国会図書館デジタルコレクション」でも、いくつかのキーワードを使って調べてみたものの、この軌道の存在を示す文献は発見できず、僅かに(前述の『奥秩父の山と谷』を含む)昭和30年代の複数の登山ガイド本より、当時の久渡沢沿いには登山道として利用された木馬(きんま)道があったことを推し量れる程度だった。(内容はこの後に紹介)

ネットで“久渡沢軌道”をキーワードに検索すると、「鉄道と(主に山梨の)滝」というサイトだけがヒットするが、ブログサービスの廃止によって内容を読むことは出来なくなっていた。(archiveもなし。なお、削除前に一度は読んだと思うのだが、内容を記憶できていなかった…)



こんな具合で、この軌道の実在や名称を担保する基礎的な文献の発見が未だに出来ていないのであるが、ずばり、旧版地形図には掲載されたことがある。それも、結構な長期間にわたって記載がされていた。
今度は歴代地形図の記述を見て行こう。


@
地理院地図
(現在)
A
昭和60(1985)年
B
昭和48(1973)年
C
昭和42(1967)年
D
昭和4(1929)年
E
明治43(1910)年

右図は、6世代の地形図の比較だ。
最初(デフォルト)はDの昭和4(1929)年版を表示しているので、ここから説明する。

ズバリ、久渡沢沿いに軌道が描かれている。(赤く着色した部分に軌道がある)

これこそが今回探索する軌道で、笛吹川沿いの広瀬集落から久渡沢に入り、「赤志(しゃくし)」という小さな集落を経て、ナメラ沢の出合附近にある終点まで、地図読みでおおよそ4.5kmある。
途中に支線などはなく1本道だが、終点からはそのまま雁坂峠の頂上へ至る小径が始まっており、その関係か、小径と軌道を包含する位置に「秩父往還」の注記がある。

なお、掲載は省略したが、この昭和4年版の次版である昭和27年版も全く同じ内容の軌道が描かれており(未更新)、軌道が削除されるのはその次のC昭和42(1967)年版からであるから、軌道が実際いつまで敷かれていたかはともかく、地形図上では40年近く描かれ続けた軌道である。

Eはここを描いた最古の地形図である明治43(1910)年版だが、軌道はなく、後に軌道が描かれる位置よりだいぶ高い久渡沢の左岸山腹に「秩父往還」の太い「荷車を通せざる県道」が描かれている。

Cは昭和42(1967)年版で、前述の通り軌道は描かれなくなったが、軌道跡の大部分が「軽車道」となり、なんとそこが「国道140号」として着色されている!

林鉄跡が一時的にでも国道になっていたとすると、これは正直驚きなのであるが、この雁坂峠の国道140号は長らく有名な“幻の国道”だったところである。本当にこのような「軽車道」が整備されていたのか、現地で確かめる必要があるだろう。

また、この版で始めて笛吹川沿いに西沢森林軌道が描かれた。この軌道は昭和8年から存在しているが、なぜか地形図にはこの昭和42年版にしか描かれなかった。

Bは昭和48(1973)年版で、ここからは2.5万図なのでより内容が詳細だ。軌道跡周辺の状況はCと変わらない(相変わらず軌道跡が国道)が、笛吹川に広瀬ダム湖が誕生し、西沢森林軌道が消滅している。

Aは昭和60(1985)年版で、分かりづらいが、久渡沢沿いの国道が、軌道跡をなぞっていた右岸から、左岸へ“付け替え”られている。
しかし、この“左岸国道ルート”は、この版にしか描かれず、実在性が疑わしいように感じている。

@は最新の地理院地図である。昭和の終わりに世紀の大事業といわれた雁坂トンネル建設工事がスタートし、平成10(1998)年に国道140号として現在の雁坂トンネル有料道路が全通した。この工事に伴って、久渡沢沿いの高い位置(Eの秩父往還に近い位置)に作業用道路が整備され、工事終了後も雁坂峠の登山道として利用されるようになったためか、かつて軌道があったとされる久渡沢の谷底からは、一切の道の表記が消えた。

以上のような経過があり、地形図の世界の中では、この軌道の実在性は盤石である。
むしろ、林鉄としてはとても有名な西沢森林軌道よりも遙かに恵まれた表記をされていたが、この久渡沢沿いの軌道について記した“文献”となると、前述の通り、これがことこん見つからないのだ。



果たして今日のヨッキは本編まで入る気があるのか、たいへん疑わしい具合に前説が長くなってきたが、これがまだ続く。そして、このまま新情報を得られず本編探索レポートを書き終えた場合、いつもある最後の机上調査編はゼロである(笑)。まあそんな訳だから、頭でっかちな冒頭机上調査に、お付き合いください。

先ほどから西沢森林軌道の名前をちょいちょい出しているが、ここで少し説明する。
先ほどの昭和4年版地形図では久渡沢沿いの軌道の起点となっていた広瀬地区を一大拠点として、笛吹川の源流である西沢上流と、中央線の塩山駅を結ぶ、壮大な版図を持った山梨県営軌道網が、昭和初期から同40年代の初頭まで存在していた。
その路線網の全体図を右図に示した。

三富村広瀬と塩山駅を結んだ三塩森林軌道(約19km)と、広瀬から西沢上流に延びた西沢線(支線込み約19km)をあわせた部分が本線で、広瀬で分岐して東沢へ延びる東沢線(約4.5km)などの支線もあった。

既に述べた通り、三塩軌道関連の資料を読んでも久渡沢沿いの軌道のことは全く出てこないのであるが、歴然と旧地形図に描かれていた軌道と、この有名な林鉄の関係性は、林鉄ファンなら誰もが気にするところであろう。

この疑問に対する一つの仮説として、『恩賜県有財産御下賜百周年記念誌』p148に掲載された「恩賜林林道設置年度別一覧表」の芦毛線という所在不明の線を、久渡沢沿いの軌道の一部とする考えがある。
【同表】には、昭和6年度に三富線の一部として芦毛線という964mの軌道が建設されたことになっており、この年は三塩軌道が広瀬に到達して全線開通した年であるから、広瀬周辺の支線の可能性があるが、所在不明である。

ただ、これも根拠は乏しい説で、地形図上の久渡沢軌道は4km以上あったこととも合致しないし、前掲書で恩賜県有財産林の位置を確認したところ、久渡沢沿いは全て民有林であったようだ。

改めて情報提供の内容に立ち返っても、久渡沢沿いの山林開発は明治末に始まり、軌道は大正初期に開設されたとのことだから、広瀬周辺では昭和初期の三塩軌道開通によって本格化した恩賜林開発とは別の主体を持った、純然たる民間による民営軌道だった可能性が極めて高いと考えている。三塩軌道やその支線とも、最後まで接続していなかったのではないだろうか。

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久渡沢沿いにあったとみられる軌道は民営のもので、三塩・西沢林鉄とは恐らく無関係に存在していたとの推測を持って本編の探索に臨んだが、その模様を紹介する前に、先ほど少し触れた、昭和30年代の登山ガイド本に描かれていた、この軌道の跡を利用した可能性がある登山道の状況について、その具体的な記述の内容を二三紹介しておきたい。(なおこれは探索後の調べである。また、参考のため昭和4年の地図を再掲載)

まずは、情報提供内容との因縁深い(?)『奥秩父の山と谷 (登山地図帳)』(昭和33年)では……

谷渡川橋を渡るともう広瀬のはずれである。右手に木材搬出用ケーブルの運転所があるから道をその下にとって行く。いよいよ道はせまくなり山道らしくなってくる。山道へ入ると現在は使用していない木馬道となり赤志集落は点在している為か知らずに過ぎてしまう。小沢に架かる木馬道の橋を2個所ほど渡り暫くすると木馬道と分かれ左手の道を辿る。背の高い笹の茂った緩い登りになって20分ほどで、棚沢の分岐点となる。道を右にとって行くと左手の山裾、棚沢流域に炭焼小屋が点在しているのが望見される。この辺りから登りは急となり、かなりこたえる。棚沢分岐点より一時間余りでガレ場に至る。ガレ場を二個所ほど通過すると左手から大きくナメラ沢が入っていくる。丸太橋を渡り……(以下略)

『奥秩父の山と谷 (登山地図帳)』(昭和33年)より抜粋

軌道や隧道は出てこないが、代わりに木馬道が出てくる。
この木馬道は、軌道が廃止された跡地の一部に設置されていた可能性があるが、紹介されている登山ルートと、昭和4年の地形図にある軌道跡の関係性は、残念ながらよく分からない。また、途中に隧道があるようなことも書かれてはいなかった。

次に紹介するのは、同じく山と渓谷社の『奥秩父 山旅と風土』(昭和37年)の「広瀬から雁坂峠へ」の抜粋だ。

広瀬から30分の赤志には飯場小屋がある。見上げれば雁坂峠の草原がはるか尾根につづいている。
タナ沢を過ぎクド沢に沿う軌道に出てガレ場を二ヶ所ほど通過すると、破不山麓からナメラ沢が左手に合流している。……(以下略)

『奥秩父 山旅と風土』(昭和37年)より抜粋

おう! 「軌道」って書いてあるぞ?!

ここにはっきりと、「タナ(棚)沢を過ぎクド(久渡)沢に沿う軌道に出て」とあるが、これが本当にレールが敷かれた現存する軌道であったか、私は疑っている。これも木馬道だったんじゃないかなって。
なぜなら……、次に紹介する、これまた山と渓谷社が翌年に発行した『山旅300コース 費用と案内』(昭和38年)にて、今度は雁坂峠から広瀬へ下る流れなのだが……、

甲州側の草の斜面をぐんぐん下り、クド沢に出る。左岸へ移った道を再び右岸に渡ると、右からナメラ沢が注入する。この辺りからいやな木馬道となり、赤志の部落を過ぎると笛吹川へ出て広瀬も近い。……(以下略)

『山旅300コース 費用と案内』(昭和38年)より抜粋

『砂防工事及林道 改訂版』より

この本の表記は、久渡沢の右岸と左岸をはっきり書いてくれているので、いままでで一番位置が分かり易いが、ナメラ沢出合の下流の右岸沿いに「いやな木馬道」があるとはっきり書いている。

“いや”なのはたぶん、木馬道に枕木のように並べられる盤木のせいで歩くと転びやすいからだ。
それはともかく、昭和4年の地形図にはナメラ沢出合の下流右岸沿いに軌道が描かれていた。
この資料は、それと全く同じ場所に木馬道があったと明言しているのである。

前年に発行された『奥秩父 山旅と風土』が久渡沢で軌道をみたというのであれば、ほぼ同じ時期に軌道と木馬道が同じ谷に存在しなければならない。そして、同書のほかに「軌道」の存在に言及した登山ガイドが全くみられないことから、私はこれは木馬道を枕木の残る軌道跡と思って「軌道」と書いたのではないかと推測している。

なお参考までに、右の画像は秩父の矢竹沢林道という場所に敷かれていた木馬道の写真である。
道の上に並べられているのが盤木で、丸みを帯びた盤木と木造の台車である木馬の接地面と摩擦力を減らすことで、比較的に少ない力で木材を満載した木馬を牽くことが出来たのである。これが木馬という原始的な木材運搬システムの概要だ。

以上、昭和30年代の3つの登山ガイド書をみたが、ここでの私の考えをまとめると、この時期には久渡沢沿いの軌道は既に撤去されていたが、その跡地の一部ないし全部に木馬が敷設されて利用されていたようである。





やっと前説を終え、本編探索のレポートを開始するが、

今回の探索の最終目標は、情報提供者が見た久渡沢の“隧道”の確認としたうえで、その擬定エリアである赤志〜ナメラ沢出合間約2.5kmの軌道跡の解明を目指すこととした。

将来的には全線を解明したいものの、探索時点では、情報提供者が谷底から見かけた穴(隧道)がどこにあるのかについても、久渡沢沿いの右岸ということくらいしか分かっておらず、軌道に木馬道、街道に登山道、そして国道と、さまざまな道の跡が錯綜している可能性がある土地鑑のない現場で、4km以上あるとみられる軌道跡の全線を踏破しつつ隧道を発見することは、別の探索後の正午過ぎからこれを始めたこともあって難しいと判断したのである。

ちなみに、前説は長かったが、本編はそう長いものにはならない予定。


あっ! あと最後に大切なお願いが!! (↓)


◆◆情報提供依頼◆◆

この軌道の資料的解明にむけて、読者さまからの情報提供を求めます。
久渡沢沿いの軌道や木馬道に関係する記述がある文献のタイトルや内容、これに関係するあなたの体験談や伝聞、ネット上の記録など、当サイトに掲載されていない情報をご存知の方は、情報提供メールもしくは本レポートのコメント投稿欄よりお知らせください。
私と一緒に、謎多きこの軌道を解明しましょ!





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