2007/12/7 09:04
線路の付け替えが行われたのは国鉄足尾線の時代であったが、その区間を現在のわたらせ渓谷鐵道に照らし合わせると、ここ神戸(ごうど)駅から次の沢入(そうり)駅までの一部になる。
まずは、ダムの下流である神戸側から探索することにした。
平成17年まで東村の一集落であった神戸は、現在はみどり市の一部である。
駅は神戸集落の人々のほか、休日には草木ダムを訪れる大勢の観光客によって利用されており、古い佇まいをもつ駅舎は無人ながら手入れが行き届いていた。
広い構内を有する神戸駅。
長いホームだが、端の方はあまり利用されていない様子だ。
この駅は、大正元年9月に足尾鉄道の「神土駅」として開業し、同年11月に神土〜沢入間が延伸されるまで僅か三ヶ月足らずではあるが終着駅となっていた。
大正7年に足尾鉄道は国鉄足尾線となり、ダムによる付け替え(昭和48年)を経て昭和62年にはJR神土駅となった。
さらに平成元年、JRからわたらせ渓谷鐵道に移管されるにあたって、駅名を地名と同表記である「神戸」と改めた経緯がある。
当初の駅名が敢えて読みに合わせて「神土」であったのは、著名駅である「神戸」(こうべ)との同字を避けたのかも知れない。
神戸駅から線路沿いの車道を歩いていくと、300mほどで陸橋があった。
そこから足尾側を見渡すと、付け替え区間の始まりであるカーブが、200mほど先に見えた。
当時の地図によれば、旧線はあそこでカーブせず、真っ直ぐ進んでいたらしい。
新旧線の分岐するカーブの様子。神戸駅からは約500mほど足尾寄りの地点だ。
旧線はここを真っ直ぐ進んでいた。
カーブの少し手前から現在線右には帯状の、ちょうど複線になるくらいの敷地が続いているが、おそらくこの部分が旧線敷きである。
新線はカーブしてすぐにトンネルとなっている。
これが新線延長6080mのうち、5242mをも占める草木トンネルだ。
坑口からは冷たい風が吹いていた。また、傍の水栓からは地下水が激しく噴き出していた。
新線はこの草木トンネルとダム湖上端部を跨ぐ沢入鉄橋、それに小さな沢入トンネルという3つの構造物によってほぼ完結しており、単純な地上区間はほとんど存在しない。
草木トンネルの着工はダム本体工事の着工と同じ昭和45年、2年後の47年12月に竣工している。
なお、終点・足尾銅山での鉱石の採掘の終了が決定されたのもこの年だ。(閉山は翌48年)
分岐した旧線だが、廃止から35年を経過しており、思った以上に藪化が進んでいた。
すぐ隣を舗装道路が通っているために、敢えて旧線を道として使う人もないからだろう。
さらには、このすぐ先で道路沿いの工場用地に呑み込まれ、法面として切り取られでもしたのか、完全に痕跡を失ってしまった。
数少ない痕跡としては、草木トンネルからの湧水が流れる水路を渡る小さな橋が残っていた。
おそらくはIビームの単純桁に橋梁枕木を並べただけの、いささか橋というには物足りない構造物だ。
この橋を渡るとすぐ上の写真の藪が始まり、辿れなくなる。
並行する車道に戻り、旧線沿いを上流へ進む。
旧線跡は工場の敷地になっているようだ。
ダムを擁する峡谷の入口が、前方に明確なV字谷を見せ始めた。
次第に谷幅が狭まると工場敷地は無くなり、旧線は道路の脇に段差となって現れた。
ここでの旧線は道路より3mほど上方を通っていたようだが、路盤上を背丈以上の藪が覆っており上に立つ事は難しい。
いまひとつ楽しさを感じる場面もなく、淡々と車道を進む。
神戸駅から700mほどの地点で、初めて「おっ」と思う発見があった。
深い藪に呑み込まれつつあるが、重厚な石組みの橋台が一対、まるまる残っている。
鉱山鉄道という性格から、この石材はカラミ石ではないかと思ったのだが、妙に白っぽく違うようだ。
だが、おそらくは大正元年の竣工当時の遺構と思われる。
道路側からのアングルに飽きて、橋台の隙間に入ったとき、2度目の「オッ」がでた。
橋桁そのものも健在であったのだ。
とても地味な景色だが、期待していないものが残っていたというのは、やはり嬉しい。
橋桁はIビーム2本を1本の横材で繋いだだけの、至ってシンプルな構造である。
一応上にも登ってみたのだが、藪が濃すぎて写真にならなかったのが残念である。
道路沿いに旧線の橋がそっくり残っていたのは意外だったが、その先で旧線敷きは道路に切り取られて消失した。
だが、道路はすぐに右へ離れていく。
甦った旧線敷きの行く手には、待ちに待った(?)隧道の姿が!
…しかし、期待していた風景とはちょっと違うような…。
残念!
遊歩道化していた。
しょぼーん…。
遊歩道の案内板によれば、この隧道は「琴平隧道」という名前だったようだ。
石組み煉瓦巻きの坑門は、いかにも明治の鉄道構造物らしい豊かな表情だ。
この路線の名物機関車であった「C12」が吹きつけたであろう煤煙も、はっきりと残っている。
そんな古色蒼然たる隧道であるが、一方で歩道として使われていることからも分かるとおり、崩壊に繋がるような亀裂は外部内部とも見られない。
渓谷に張りだした岩場を抜ける地被りの小さな隧道と言うことで、一般的には偏圧を受けやすく崩れやすいシチュエーションだと思うのだが、この岩盤がかなり強固なのだろう。
こういう隧道は、多分素堀でも問題なく現存していると思う。
【地図】
深い瀞のようになった渡良瀬川左側(右岸)の岩盤を、長さ50mほどの琴平隧道が貫いている。
その先、日陰になっていて見えにくいが、遊歩道となった旧線跡がさらに続いている。
時期的に紅葉はもう散りかけだが、強い朝日がいまいちど錦の輝きを山に与えていた。
なおこの写真は、ダムに突っ込んでゆく旧線を見限るようにして対岸へ離れていく車道の万代橋から撮影したものだ。
琴平隧道内部の様子。
坑門付近は全面煉瓦巻き。
それ以外はアーチ部に煉瓦、側壁に布積みの石垣を用いている。
洞床にはバラストが浅く残されており、蓋の大きな側溝もあるが、これは改築されているようにも見える。
遊歩道化に私のテンションは40%くらい下がったが、ダムサイトまで残りの距離は僅かである。
探索続行である。
遊歩道化しているとは言っても、幸い過剰な演出がないので廃線跡のムードは十分である。
特に、この琴平隧道から続いてロックシェッドに入る辺りは、視界に占める構造物の割合が大きく、満足度が高い。
興奮出来るということだ。
この部分が草木ダムに関する旧線中唯一にして最大のハイライトシーンといえるかも知れない。
私が最も気に入ったのは、琴平隧道の足尾側坑口の姿だ。
よくもまあこんなに高い、しかも垂直にかなり近い丸石練積の壁を築き上げたものである。
もちろん丸石同士がこんな垂直の壁を支持出来るはずもなく、これはコンクリートで固められたものなのだが、現在のように均一で質の高いコンクリートが十分に得られない明治末〜大正〜昭和初期にかけては、いわばコンクリートの質量を節約する意味もあって、このような丸石練積の壁は多く作られていたようだ。
あるいは、その後の時代に較べ土木構造物にも美を追求する風潮の高かった当時は、いつまでも隧道の坑門に形ばかりの要石や笠石が残されたように、ただ平板なコンクリートの擁壁を潔しとしなかったのかも知れない。
さらに、現在ではこれほど高い一枚の擁壁を作ることは稀で、一定の間隔ごとに犬走という水平部分を作る事が多い(作業員の転落時の危険軽減などのため)。
いろいろな意味からこの高過ぎる擁壁は、今後再生産されることの無い、貴重な土木風景といえそうだ。
赤錆びたレールを柱材としたロックシェッド。
側壁の一部は未普請の地山である。
この先、緩やかなカーブに繋がる線形は、路面を覆う落ち葉の色合いが美しく、ホッとするような情景だ。
ここで私は、まったりしながらハッとした。
思えばここは、道がもし無かったとしたら即座に戦慄するような断崖絶壁の中腹なわけで、そこでホッとするなどいうのは、まさに道の上に成り立った感想なのだ。
今さらだが、遊歩道云々などと贅沢を言っていた自分を恥じた。
どうも成果を求めるあまり、トゲトゲした目で遺構を追っていた。
感謝を忘れちゃ、駄目だよね。
気持ちの切り替えが出来た私の前に、ご褒美がひょっこり現れた。
私が廃道なり廃線を歩いているときに一番ワクワクするのが、こういった古い「文字情報」に出会ったときだ。
廃線でも廃道でも、そこにある風景を見ながらいろいろな過去を想像することが常であるが、文字情報は読み取れた部分に関しては曖昧さが無い。
その文字だけは、ある時点での紛れのない真実なのだ。(悪戯書き除く)
だからこそこれは、いろいろ有意義な想像をするための基点として、大変に有用なのだ。
まして今回は、何が書いているのかおおよそ想像が付く場面ではなく、擁壁というあまり文字情報を見ることのない場所であっただけに、ワクワクは普段以上だった。コンクリート製の歪な感じの銘板というのも、現場感があった。
で、落ち葉を払いのけてみると…。
昭和六年壹月竣工
この年は、足尾鉄道が国鉄に正式に買収される前年である。しかし、昭和2年以降は「借り入れ」という形で実質的には国鉄が運営していた。
おそらくはこのロックシェッドや玉石の巨大な擁壁などは、国鉄線としての保安基準を満たすべく建設されたのだろう。(←これが今回の“想像”)
なお、二文字ほど解読できない文字が残った。施工者のサインか?
引き続き群青色の水面を覗き込むような絶壁の線路跡が続く。
途中には、ロックシェッドに似たようなごく短い構造物があった。
道路でもたまに見るが、これは山から出た水を谷に直接流すための樋である。
鉄道時代からの構造物だと思うと、あまり見ないものだけに嬉しかった。
やがて右手に橋が現れ、対岸に渡る遊歩道と分岐した。
しかし、旧線跡の歩道は引き続き直進である。
さらに進むと、とうとう現れてしまう。
終わりの壁である。
道や暮らしを否応なく変えさせた、ダムという壁。
終わりが見えてからは旧線跡もやる気を失ってしまったのか、淡々とした歩道となった。
そして歩幅が自然と大きくなったから、一歩一歩進むごとに壁もみるみると高くなっていった。
丸石練積の壁も高いと思ったが、それとはもはや次元の違う高さである。
この地上には人間よりも二回りくらい大きなヒトがいて、あのダムはそんな彼らが作ったものだと説明されたら、思わず納得するくらいに大きい。
この大きくなり方というのは、もし自分で歩いて近づいていることを何とかして忘れることが出来たなら、そこに妖怪「見上げ入道」を連想する事が出来そうだ。
「ぬりかべ」でもいい。
…ダムへの下からの接近は、大概こんな下らない連想をいくつかしているうちに終点を迎えることになる。
いよいよフレーム内に道と空を同時に写せなくなった。
そして、歩道も突然左に折れて、そのまま九十九折りの上り坂になっていた。
ようやく歩道がいなくなったので、そこにもう10mでも本来の旧線が残っているかと期待したが、見つかるはずもなかった。
なぜならば、旧線もここで川岸を離れていたからだ。
旧線は、この場所で対岸に斜めに橋を架けて渡っていた。
「第一渡良瀬川橋梁」と言ったらしいが、ちょうどこの橋を横断するようにダムサイトが建造されたため、痕跡は何も無いようである。
私は下流側探索を終えた。終えるしかなかった。
ダム関連の旧線探索は、いつも途中で終わらされるのが辛い。
後日分かったことだが、ここに架かっていた『第一渡良瀬川橋梁』は、全国に33連しか架橋されなかった「クーパー型」という珍しい形式のトラス橋であった。しかも、クーパー型トラスの内、国産品はわずか3連に過ぎず、そのうちの1連がこの場所に架けられていたそうだ。
3連はいずれも足尾鉱山が発注し、明治44年に東京石川島造船所が輸入鋼材を用いて製造したもので、残りの2連は「第二渡良瀬川橋梁」として現役・現存している。
2008/6/3 追記