まずは第一段階突破と言うべきか。
このような「風のない」廃隧道において、入洞後最初から見える範囲に早速「閉塞」が現れると言うことが多い。
しかし今回。
コンクリートの内壁と枕木を取り外した跡が鮮明に残る洞床が、闇に見えなくなるまでずっと続いていた。
「よし!」 無言で頷く私であった。
洞内には冷たく乾いた空気が停滞している。
風は無いので、これでもし湿気が強ければ水蒸気のためフラッシュ撮影が出来ない状況となっていたはずである。
電化はされていなかったから架線はないが、通信線らしき配線が壁面から墜落して洞床を這っている。
洞床のバラストは角のない川砂利使用のようである。
内壁はコンクリートの場所打ちで、その仕上げは奇麗に整っている。
普通の鉄道トンネルからレールと枕木を取り外しただけの状態で放置されており、後に何かに転用された様子はない。
廃止後35年におよぶ時の経過は、さほど感じられない。
途中、待避坑は常に向かって右の壁に現れた。
待避坑が常に右側の壁にだけに現れた理由は、隧道が常に左方へカーブし続けているからだった。
反対の壁にはときおり赤いペンキの数字が現れた。
乱暴な書き筋の文字が何を意味しているのか。
イタズラとも思えないので、おそらく私が入ってきた坑口からの距離だろう。(中途半端な数字なのは謎)
隧道は短くなかった。おそらくもう200mを超えて歩いてきた。
延々とカーブしており、振り返っても入口の光は壁に僅かに反射しているのみ。
当然のように出口は見えない。
仮施設とたかをくくっていたが、想像していたよりもずいぶん長い。
それに、このまま進めばそう遠くなくダムサイトを突き抜けて湖底に進むことになるだろう。
冷たい壁の向こうに、ダムが溜め込んだ巨大な水圧を連想する事を止められない。
明らかに緊張していく自分が分かる。
それでも黙って歩いていくと、奇麗だった洞内に、最初の異変が…。
右側(山側)の壁面、スプリングライン(アーチの下端)に沿っての大量出水だ。
壁面から帯となり、部分的には水柱となり洞内へ湧出した地下水は、低地である待避坑の床を完全に沈めるほどであった。
ライトを向けなければ音だけの世界。
そこにせわしなく波打つ水面を見るのは慣れない。
ダムと関係ないとは思うが、一見隙間など無さそうに見えるコンクリート壁からの大量出水には、なんだか、「見てはならないモノ」を見てしまった心持ちがした。
そして、
この小さな異変は、より大きな別の異変の始まりに過ぎなかった。
側壁が…。
側壁が… ネットだ。
国鉄ないしJRの旅客線に現存する廃隧道で、全く素堀だというものを見たことはない。
だが、側壁コンクリートの覆工が部分的であり、窓のように地山が覗いている例は、限定的な状況下ではあるがいくつか見てきた。
その多くは太平洋戦争の最中や戦後最初期の工事にかかるもので、コンクリートの節約や工期短縮を目的としたものと思われる。
しかし本隧道は昭和40年代中盤に利用されたものであり、前例とは事情が異なる。
ぶっちゃけ、「仮」だからこの程度で十分だと判断されたのだろう。
それを如実に物語るのが、壁を覆うネットの存在である。
ネットは反則だろ!
国鉄は仕事が丁寧なことで知られており、それはその工作物全般についても言われることである。
戦時中に作られた部分的に素堀を残す隧道であっても、それは地山の安定性が十分あって、走行中の列車に落石が直撃するような事故が起こらないことを、ちゃんと基準によって確かめた上での最小限度の妥協なのである。
だからこそ、素堀部分に敢えて「ネット」をかけて中途半端な落石防除をするような例を見たことはない。(見たことがないだけで、存在しないとはいえないが)
しかし、この隧道は「仮」ゆえにかなり乱暴な作りをしている。
だって、ネットの向こうに見えている壁は全然安定していない!
既にボロボロと崩れているのだ。
素人目にも壁は非常に風化しており、走行中の衝撃で落石が起きる可能性は高そうに見える。
いまだ致命的な崩壊は起きていないようだが、それも時間の問題と思われる。
やがて落石を抱えきれなくなったネットは破れ、洞床は瓦礫の海となるだろう。
目の細かな砂は既に溢れてきている。
これこそ、3年に満たない期間だけ使えれば十分だった「仮トンネル」の特殊な事情を象徴する景色だろう。
国鉄のイメージからかけ離れた、その場しのぎの構造物。
外からは見えない奥地にいたって始まった側壁の簡易施工(手抜きとは言うまい)。
それは、“最後”までずっと続いていた。
続いているといえば、カーブもそうだった。
入洞して以来、延々と左カーブが続いている。
淡々とカーブが続くため方向が掴めないが、もう既に60°くらいは転進しているのではないか。
入洞から、推定400m。
まだ終わりは見えない。
ネットが現れてからは、大胆にも側壁の半分以上が素堀となった。
しかし、こんな異様な状況になっていても、なお頭の硬い“国鉄らしさ”(無論それは私が考えるイメージに過ぎないが)は失われていなかった。
わざわざ、コンクリートの巻き立て部分に待避坑を設置してある。
ネットの部分は巻立てのない分、十分待避坑代わりになるほど広いにもかかわらず。
敢えて、コンクリートの巻き立て部を選んで、おそらくは一度も使われていないような白い待避坑が…。
来た!
初めて現れた、この隧道が現役であったことの証。
ここまでは、なんだか「未成線」の廃トンネルを歩いているような感じを受けていた。
足尾線の起点、JR両毛線と分岐する下新田連絡所からのキロポスト。
「26」と「1/2」キロメートルである。
仮線に残された、おそらく唯一のキロポストだ。
行く手に出口ではない別のものが現れつつあった。
それはマグライトの灯りにときおり、ナイフのような冷たい反射を返してきた。