廃線レポート  
森吉林鉄 第X次探索 その7
2004.9.5


 自身にとっての森吉林鉄探索5度目にして、ついにその中間で通行を阻む3号橋梁の両側を極めた。

これは、森吉林鉄探索の最大の目的であった。

目的を達成した私だが、私一人の力ではあり得なかった。
多くの仲間に恵まれ、プレリサーチというルート開墾の助力も大きく、成し遂げたことである。
この計画の成功には、何よりも多くのマンパワーを必要としたと思う。
これまでのレポでも述べたことの繰り返しになるが、探険隊の各人のご協力には、感謝の他はない。


 だが

私の中で、
既に進むべき道が出来上がってしまっている、後期の森吉探索への興奮が、当初のそれを上回ることはなかった。
またも、ぶっちゃけてしまっているが…。
こればかりは、探険の興奮を主とする私の山チャリとして、この森吉を振り返った時の、動かし難い事実である。
あくまでも、私個人の感傷ではあるが。

誤解無きように言い添えておくが、私一人でこれだけの成果を得られなかったことは、間違いない。
森吉林鉄のレポとしての出来映えも、一人で探索するよりも良くなったと思う。
現地での興奮という意味での、限界を感じたにすぎない。
多人数であったことも影響していない訳でもないが、やはり、プレリサーチによる開墾作業は、私の興奮に影響している。


 3号橋梁東詰への到達と、課題であった遊歩道の踏査を終え、時刻はなお12時30分。
まだ、時間はある。
自分たちで道を拓きながら、探しながら進まざるを得なかった3次探索までは、いつも時間に追われていたのとは対照的だ。
そして、この様な前置きを置いたのは、最後の最後に、わがままな探索を提案したい気持ちがあったからだ。

私はメンバーに、森吉林鉄森吉ダムによる付け替え軌道部の、残る3kmを探索を提案した。


 右図中の赤やオレンジの線は、森吉林鉄の森吉ダムによる付け替え区間である。
グレーの部分は、隧道だ。
これまでの5度の探索で、赤い部分の踏査を終えた。
そして、現在地は中央の「3号橋梁」傍である。
現在までに未踏査の区間は、オレンジ色の部分である。
直線距離は3kmほどだが、地形図に点線で示されているものが軌道跡であると仮定すれば、その延長は3kmに達すると思われた。
さらに、この区間の踏査は、そのまま「2次調査」で私を退けた落橋部に通じると思われた。
あのときは、一人であった上に、チャリを伴っており、完全に敗北した訳だが、落橋部から8号隧道を経て、2次調査時同様の渡渉をもって、フィニッシュとしたい。
渡渉点の水位が、辛うじて渡渉を許す程度であることを、ここへ来る途中の車中から確認済みであった。

 しめて5号橋梁〜8号隧道〜六郎沢渡渉点までの総延長は、5km弱。
連続で歩く廃線跡の距離としてはすこぶる長い上、これが今までこの区間の踏査を実施できなかった最大の原因なのであるが、送迎の手配を要する。
メンバーのうち、少なくとも自動車を運転できる1名には土沢林道経由で渡渉点まで先回りして頂かねばならない。
今回車輌は2両あるから、出来れば2名。
全員で参加できる踏査ではないのだ。


森吉林鉄付け替え軌道探索は、いま最終局面へ突入する。



相談 撤収 別れ… 
2004.6.13 12:30


   東屋跡で、達成感に包まれた我々の休憩と、今後の行程についての打ち合わせが行われた。
私は、この未踏査区間の調査提案をした。 選択コースとして事前に全メンバーに伝えていたものの一つではあったのだが。

踏査計画自体は、全員の賛成を得ることが出来た。
次いで、各人の疲労の度合いも異なり、車輌移動の人員を要することなどもあって、踏査組と移動組の割り振りを相談した。

そして、決定された参加者は、
 私、 くじ氏、 そして、意外なもう一名は、細田氏 である。
残るメンバー(パタ氏、ふみやん氏、YASI氏)は、5号橋梁にて別れ、車輌移動後渡渉点で待ち合わせることとなった。


 

 大体の計画が決まり、全員で5号橋梁へと戻る。
今日歩いてきた道そのものだ。
二つの隧道と、二つの橋梁が、来た時よりも幾分歩きやすい様になっていた。

引き返しながら、私は思った。

次に、いつここへ来るのだろうか? と。

もう、死ぬまでに二度と来ないかも知れない。
我々の誰かがまた来るだろうか?
このレポを見て来る方がいるだろうか?
独自に考えて来る人がいるだろうか?

我々がほんの少しだけ、歩けるように戻した道だが、一冬を経れば…
或いは、いまごろ既に?

…遅かれ早かれ、その踏跡は消え、元の藪に帰るだろう。

そんなことを漠然と考えながら、忘れ去られた軌道跡を、歩いた。



 付け替え軌道を通して歩いてみたいという欲求はある。
もし、3号橋梁で阻まれなければ、可能だろうか?
或いは、3号橋梁の西詰に、東側にあった遊歩道跡のような痕跡を得るか、自作するかして小又峡まで通じれれば、小又峡の渡渉によって、3号橋梁の迂回通行が可能であろうか?
しかし、もしそれが叶ったとしても、ボート無くしては攻略できぬ4号隧道は最大の難所であり続けるだろう。
やはり、あそこは山越え迂回が正しい。

幾つかの迂回を要するとしても、これから行こうという部分を含め、付け替え軌道を全て歩けば約10km強。
長いと感じるかも知れないが、対岸の県道で同じ区間を歩けば、15kmはある。
隧道と橋で徹底的に短絡化された湖畔の区間の延長は、これ以上縮めようがないほどの短いのだ。
もしこの林鉄跡が車道化していれば…、森吉・比内間の所要時間は現在のそれよりも大きく短縮されたであろう。

昭和40年代の後半、現在の県道の元となる太平湖林道が建設された当時は、そんな構想もあったのではなかろうか?
それが不可能だったのは、なぜなのかを想像するのも、楽しい。




 13時17分。
一気に歩くと45分ほどで5号橋梁袂の、分岐点まで戻ることが出来た。
この分岐は、橋梁とそれに交わる湖畔の道とのT字路であり、湖畔の道の一方は土沢林道へ通じる、森吉林鉄土沢支線(これが支線ではなく本線であったという可能性もあるが、これは現在も調査中)の跡である。
残る一方、湖畔を北へ向かうのが、踏破組が挑む道だ。

我々は、ここで一旦解散することとなり、記念撮影もした。
土沢へと引き返していくYASI氏とパタ氏(ふみやん氏はフレーム外)。

…寂しそう?

結局は疲労の色が濃いYASI氏と、車の所有者二人が戻っていくことになったのだった。
再合流は渡渉点にて。
予定時刻は、2時間後の15時半。
遅くとも16時と決めた。
計画は4.5kmほどなので、私は2時間を見ていた。
時間は、充分にある。

最大の懸念材料は、もし何らかの理由で進めなくった場合の対応である。
土沢には車は残らないので、戻ってきても、連絡も取りようがない。
(当然ケータイは繋がらない)
歩いての土沢林道連絡は3時間以上を要すると思われる。

このことから、引き返しはまず考えられない状況となってしまった。
これが、最大の懸念材料である。

心配したパタ氏からは、発煙筒と爆竹一箱を与えられた。
もし何かあれば焚けと言うことらしい。
また、時間に余裕がある移動組は、14時頃まで土沢に待機して頂けることとなった。
万が一、引き返す場合は、14時までに戻ってこなければならないことになるので、その場合の進める限界は、そう遠くない。

可能な策は弄したつもりだったが…、大きな心配があったのは、事実である。

杞憂となることを期待しつつ、私とくじ氏と、細田氏は、まもなく見送られ藪へと消えた。




 いざ、湖畔の廃線跡へ 
13:18

 時間制限があり、しかも退路に明るくないという、一方通行の探索は、これまで経験が少なく、なかなかに心理的重圧は大きかった。
しかし、藪を漕いで歩いているうちに、すぐに不安は楽しさに掻き消されていった。
歩いたことのない廃線跡を辿る時の高揚感が、すぐに私を支配した。

同志である仲間も同様のようで、3人一列となって鮮烈な湖畔の緑に、身を沈めていったのである。
藪は、時期的に相応な濃さではあったが、恐れていたほど進みにくいと言うこともない。
かなり古いが、自動車の轍の痕跡があり、枕木は見あたらない。




 ペース良く歩いていくと、間もなく驚くほど道形がはっきりと現れてきた。
水面からは高さにして4mほど、水平方向には5m程度の距離を置いている。
切り取りの道は年中森の影になっているせいか、あるいは窪んだ道部分に大量に積もった落ち葉が植生を阻んでいるのか、廃道とは思えないほど、鮮明に道が現れる。
しかし、歩きやすいのにもかかわらず、人が歩いている痕跡は見あたらず、独り占めだ。
まだ、出発して500m程度しか進んでいなかったが、この調子ならば、楽しいだけの快適な探索に終始するかも知れないと思った。
それはそれで、良いことだが、ハードワーカーのくじ氏には期待はずれかな。

とにかく、歩いていて気持ちが良い道だった。




 時折森が切れる、といきなり激しい草藪に舞い戻った。
湖面を渡ってくる森吉の風は涼しく、額に汗するにはまだ早かった。
この位の藪が現れても、3人ともなれば不安は少なく、むしろ、楽しんでしまう。
このあたりでは、私が先頭になって歩いた。

この写真の場所で、道が分かれていたようである。
明らかに軌道の勾配でない急さで右のブナの森へ登っていく、おそらくはかつての作業道。
湖畔に続く正面の軌道跡は、この先轍を失うことになる。
古い時期には、土沢林道の終点からこの辺りまでは、車輌の往来があったらしい。

出発(=5号橋梁)から600m程度の地点だ。



 まもなく、幹に人工的な傷跡が多数付けられたブナに遭遇した。
ブナの木に文字を刻むのは、一昔前の流行だったのだろうか?
登山道の路傍などではよく見られる光景だが、まさかここで遭遇するとは思わなかった。
たしかに、周辺の木々の中でも際だって、手の届きやすい場所に生えているのであるが。

そして、まるでPOP用の文字みたいに横幅が拡大された文字の、解読に取りかかった。
数秒後、最初の一文を読み取った私が、驚きの声を上げた。
感激の声でもあった。

なんて読み取れたかは、左の画像にマウスカーソルを重ねて頂ければ分かる。


「45.10.1」の文字の、「45」の部分が自信ないのだが、他はまず間違いないだろう。
これは一体何を意味しているのであろう?
「本砂子」は、今は太平湖に沈んで跡形もないが、かつては一帯の林業の基地でもあり、電話もいち早く開通していたという営林署のあった集落の名だ。
「保線」というのは、現在使われているとおりの意味で、軌道の保守という意味だろう。
「JMRY」或いは「MYJR」か?
これは、残念ながら全然意味が分からない。二人分のイニシャルか?或いは何かの略称なのか?
「土佐」、これは、人の名前だろう。
奇妙な間隔の空き方から見ると、一人(或いは一度)で書かれたものではないのかも知れないが、いずれにしても、新しい傷跡ではない。
読み取れない傷跡も無数にあり、かなり興奮してしまった。

最後に大胆予想。
砂小沢保線区の保線夫達が、昭和45年、軌道の撤去工事にあたって、最後にここを歩いた。
そして、自分たちが働いてきた山に名残を感じ、目立つこの木に、書き残した。

…とか?




 時間に余裕があれば、周りの木々も調べてみたかったが、我々は再び歩き出した。
そろそろ、湖の大きな“張り出し”に合わせて、軌道が遙々1km以上も蛇行する箇所だ。
まずはその始まりとして、大きな右カーブが正面に現れた。
真っ直ぐ進めれば、かなり距離を短縮できるだろうが、湖は幅100m程度の広がりを持っており、不可能だ。
素直にカーブに従って、右へ。




 車の轍がなくなっても、深い落ち葉に覆われた窪地には、殆ど緑がなかった。
そんななか、一切の色をまとわない、奇妙な植物が生え出ているのに遭遇した。

葉の部分はなく、全体が蘭科の植物の花弁のようである。
なんと言っても特異なのは、その色だ。
純真無垢というよりも、私の根が腐っているせいかもしれないが、自然界のバグで生じたような一種壊れた姿に見えてしまう。
植物なのか、キノコなのか、はたまた…?

実はこれ、知っている人は知っている。
私も以前教えてもらった、「ギンリョウソウ(銀竜草)」というものである。
別名は「ユウレイタケ(幽霊茸)」であり、この二名を見ただけで、やはり多くの人が「草?キノコ?」と悩んできたことを伺わせる。
れっきとした植物であり、緑色でないのは葉緑素を持たない腐性植物の仲間の特徴。

変わった植物もあったものである。




 比較的深い切り通しが現れた。
路面の幅は比較的広びろとしており、脆そうな土の斜面も意外に崩れた痕跡がない。
石組みなどが成されていそうなものだが、そう言う人工物も見られない。

廃止後時間が経過している割りに、状況がクリーンすぎる気がする。
ある時期車道になっていたのではないかという疑惑(詳細は後述する)が私の中にあったのだが、それを裏付けるような、幅の広さだ。




 未知の橋が… 
13:32


 感じて欲しい。

この瞬間の、私の鼓動を。

出会いたい出会いたいと思ってきた。

でも、なかなか現れてはくれなかった。


木橋だ。

しかも、健在の木橋。

明らかに軌道時代の、木橋だ。




 我々は、口々に奇声を発し、思いがけない収穫物に詰め寄った。

私などは、涎を垂らすようにして、その「重い」姿を目に焼き付けたのである。

まさに、木橋らしい木橋だ。

いままでも、幾度と無く、失われた木橋の残骸を目撃してきた。
森吉では木橋は少なかったが、これまでの度重なる林鉄探険で、幾多の木橋の残骸を越えてきた。

これまで、私を渡すことが出来た林鉄の木橋は、僅か数えるほどしかなかった。




 これまでは、沢に散乱した巨大な丸太や犬釘、岸辺の橋台などから、その姿を想像するより他はなかった幾多の木橋。

しかし、ここにはまさに、そのあるべき姿が、そのままに存在していたのだ。

胴回りほどのある巨大な丸太を組み合わせ、犬釘で固定された橋桁。
橋台は立派すぎるほどのコンクリ製で、ここが昭和29年頃の付け替え軌道であることを物語っている。
橋台と橋桁の接合部の積木細工のようなありようも、美しい。

殆ど涸れ沢となった沢底に下り、舐め回すように、
私は木橋を愛した。
 


 その自重で崩落してしまわないかが心配なほど、あらゆる部分が腐食していた。

丸太の一本一本は、完全に朽ちており、触るとボロボロだ。
職人による無駄のない組み上げの、その総合力によって辛うじて、その姿を保っているのだと思われた。
現地は沢の最も奥まった場所にあり、風雨をある程度防げたのも、これまで生きながらえてきた要因になり得よう。

幸せだった。
生き続ける木橋に出会えた喜びは、幼少の頃にスパマリで初めて無限増殖に成功した時の喜びに劣るものではなかった。




 これが、袂から見た橋上の様子だ。
幅1.5m、高さ2.5m、長さ5mほど。
小さな木橋である。
二本の主梁となる丸太に枕木を横木として乗せただけの姿が、軌道橋梁のデフォルトだと思うが、この橋では橋上は平らにされていたようだ。
それとも、車道時代があったのだと仮定すれば、その時に改良された姿という可能性もある。
軌道橋梁としては、やや不自然な気はする。


さて、橋がある。
まだ、健在の橋がある。

橋への礼儀はただ一つ、

渡ってみることだ。

たとえ落ちようとも、死にはすまい。

渡りたい。





 木橋を渡りたい!

しかし、その行動が、前代未聞の事件を引き起す!


もう、皆さん想像が付いていると思うが…、

パタ氏に続く、森吉の犠牲者が、次回明らかになる。






その8へ

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