廃線レポート  
生保内林用手押軌道 向生保内支線 その4
2005.4.15


 二号隧道
2004.6.23 9:14


 玉川の激しい蛇行に翻弄され、もうこれ以上進むこと叶わぬのか。

私は、先へ進むための唯一の道であったはずの隧道の、そのあまりにも酷い崩壊ぶりに、すっかり濡れて冷え切った体を、さらに震わせたのだった。


しかし、危うく私は、大きな後悔を残すところであった。

遠目に見て、明らかに崩壊している、このような隧道ではあっても、必ずしも、完全に閉塞しているとは限らない。
時に、人一人がやっと通れるほどの隙間が、見出されることがあるではないか。

私は、山行がの経験則に則り、背丈よりも遙かに高く積み上がった、瓦礫と倒木の山に、よじ登ってみた。





 キターー!

あぶねい あぶねい。

この、ヨッキとしたことが、危うくみおとすところだったぜぃ。

ぎりちょんで、隧道はまだ、口を開けていたのである!

急な瓦礫の斜面の3mほど下には、薄暗く平坦な洞床が、見えていた。

目の覚める興奮。

おもむろに照明を準備すると、早速、内部への進入を開始したのは、言うまでもない。



 天候のせいもあると思うが、内部はものすごく、煙っていた。
完全に湿度は100%を越えて飽和しており、カメラのフラッシュを焚けば、たちまちホワイトアウトしてしまう。

地形的に、せいぜい50mも無いはずの隧道である。

しかし…、この暗さ… そして、風の無さ。

…闇の向こうに、
先が、 見えた気がした。





 洞床には驚くべきことに、バラスト代わりに使用されていたと思われる、河原のような玉砂利が、厚く堆積していた。

内壁は、完全に岩肌で、鋭角的な切り口が目立つ。
一号隧道のような柱状節理ではないものの、同様の玄武岩質と思われる。
そして、その尖った先端や、見えない亀裂から、絶え間なく水滴が落ち、洞床を濡らしている。
洞床の砂利は、いまだ水捌けという元来の役目を果たしており、水たまりは見られない。

林鉄に於いて使用されたバラストについては、どうやら、今日見られる鉄道のそれとは異なり、おもに自然採取された、河原の砂利が使われていたように見受けられる。(県内各地で散見される)
特徴は、粒の小さな玉砂利であることだ。
角のない砂利では、バラストの役割の一つである、「バラスト上の軌道をずらさない」という部分に、不安を感じるが、そこはあくまでも、森の簡易鉄道であるから、本則的な規格は不要だったのかも知れない。


 案の定、隧道は閉塞していた。

そして、こんどこそ、

 完全閉塞 である。

その閉塞点の様子は、稀に見る本物ぶりだった。

天井を突き破り止めどなく流れ込んだだろう土砂により、支保工らしい杉材が、半ば砕けたまま埋もれている。
その様子を見ていると、息苦しくさえなってくる。

坑門のみならず、内部にも閉塞崩壊を有する二号隧道は、もはや永久に復旧する見通しのない、役目を終えた隧道だ。


 しかし、私は足掻きをやめない。

全身が、崩壊面の粘土に汚れるとも、支保工と本来の内壁の隙間に身を捩って、可能性を、模索した。



だが、ただの一条も貫通の気配は無く、
強い泥の臭いを体に染みこまただけで、私の挑戦は、終わった。

二号隧道は、完全閉塞のため、通行が不可能という結論になった。





 閉塞地点から振り返ると、坑口はすぐそこだった。


おそらく、私の探索からもうすぐ二年を経過するが、この間に、誰も立ち入った者は居ないだろう。

そして、今後の100年にも、一人も立ち入らず、

そう遠くない未来の、消失の時を、迎えるのだろう。

ここは、そう考えることが当然なほど、あまりにも、人が訪れる理由に乏しい、僻地である。



 撤退か それとも
2004.6.23 9:20

 隧道が通れないならば、山を越えればいいじゃないか。

当たり前だが、それが労無くできるならば、隧道など要らないのだ。

わざわざ隧道を穿たねばならなかったほどの斜面は、とても急であった。
だが、私も意地である。
沢山ある生木を手がかりにして、なんとかかんとか、坑口から殆ど垂直に30mほど駆け上がった稜線に、上り詰めたのだった。




 この狭くて細い、切り立った稜線は、なかなかに特異な景観を、私に見せてくれた。

おしむらくは、写真からはそのパノラマ感が伝わらないことであるが、地図を見ていただければおわかりの通り、この稜線の両側には、玉川がギリギリまで接し合っている。
それ故に、この稜線から眺められる景色とは、

右を見ても、左を見ても、同じ色をした、どう見ても同じ河が、逆方向にゆったりと流れている景色、である。

これほどの大河が、これほどに狭い稜線を隔てて接していることは、河川浸食の強力さを考えれば、非常に稀なケースといえるだろう。
そのような状況が、大正以前の地形図から変わらず今も存在していることと、この地の玉川が、夏瀬ダム湛水域にかかるため流れが極めて緩やかであることは、決して無関係ではないだろう。


新鮮な景色を堪能したまでは良かったが、私はアルピニストではないので、この濡れた崖地を反対側へ下っていくのは、かなり肝を冷やす行為だった。



 稜線から降り口を捜していると、目指す軌道の続きを見つけることが出来た。

それは、稜線から垂直の崖で落ち込んだすり鉢状の窪みの先に、微かに続く平場として認識された、

つまりは、この足元の巨大な窪みが、完全崩壊2号隧道の南側坑口の、成れの果て、ということなのか…。




 慎重に慎重に窪みの中に降りた。

そこはまさしく、断崖に囲まれたすり鉢で、三方まで高さ30mほどの、岩の壁に隔たれている。
残る一方は、玉川の悠々たる深淵となっている。

景色的には、ものすごく興奮できるものだったが、さしもの私も、生きて帰れるかという切実な不安が、脳裏から離れなかった。
進めば進むほど、引き返さなければならない難所は、増えていく一方なのだから。
このすり鉢だって、帰りはよじ登らなければならないのだ…。

気持ちの余裕は、かなり、無くなっていた。




 すり鉢のどこにも、坑門はなかった。

かつて人や材木が往来した、小さくても役立つ隧道が存在していた証は、何も見いだせなかった。

この崩壊では、それも無理からぬことであろう。

それほどに、一帯の崩壊の痕跡は、物凄い状況だった。
どこまでが、軌道敷きで、どこから隧道だったのかすら、もはや分からない。


2号隧道は、内部から見ただけでは計りきれぬほどの、空前絶後的な大崩壊に見舞われた、希有な隧道であったのだ。



 ここから先は、今思い出しても、鳥肌が立つ、本当に怖い軌道敷きだった。

大げさでなく、もう、二度と行きたいとは思わない。

各地の沢をよじ登り、無数の滝を写真に納めることを生業とするくじ氏ですら、この先には、強い戦慄を覚えたという。







 読者であるあなたは、次回、

かつてなき絶佳なる景色を、目にすることになるだろう。


そしてそれは、私の脳裏から未だ離れぬ、

死の恐怖、そのもの である。


美しき絶命の予感に、打ち震えながら次回を待て!!






その5へ

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