私はライフワーク的に、かれこれ5年くらい、日本中の旧版地形図を集めている。
そしてそこに描かれている「かつての交通」を、今の地形図と比較して楽しんでいる。
新たな探索ターゲットを手にするきっかけとしては、この旧版地形図と市町村史、そして皆さまからの情報というのが私にとっての“ビッグ・スリー”である。
表題の森林鉄道を探索したきっかけも、また旧版地形図であった。
旧版地形図を見ただけでは、その歴史は無論のこと路線名さえ明らかではなかったが、“描かれ方”だけで十分に私を惹き付けた。
実際に探索へ赴いて、地形図の中の風景の今をこの目と足で確かめたいと思わせるものがあった。
それでは早速、私の興味を引きまくった旧版地形図をご覧頂こう。
上図は、昭和25年応急修正版の5万分の1地形図「御嶽山」(一部)である。
同図は標高3000mを越える御嶽山(おんたけさん)山頂を含む図幅で、全体に凄まじい密度で書き込まれた等高線が、“日本の屋根”の一画を構成するこの地域の山深さや急峻さを伝えてくる。
図の赤く着色した部分に、「特殊軌道」の記号が描かれている。特に注釈は見られないが、森林鉄道と判断された。
中でも一番御嶽山の奥深くまで到達している線は「濁河川」なる谷に沿って描かれていたが、その線をつぶさに目で追っていくと、面白い事に気がついた。
線路は途中濁河川を横断する区間で途切れていて、そこを「索道」の記号が中継していたのである。
森林鉄道と索道は、しばしば一緒に用いられることがあった運材の施設ではあるが、森林鉄道用の索道というのは鉱山用のそれに較べて使用期間が短かったり規模が小さかったりといった理由で、地形図に描かれるのは稀である。
そんな索道が、珍しく森林鉄道の一部のように描かれているのがまず興味を引いた。前後を林鉄に挟まれた索道を地形図で見るのは初めてだった。
さらに、谷底との最大落差が140m前後もあるように描かれている索道そのもののスケールも興味深かった。
そして索道の存在によって麓側の軌道とは杜絶している“上部軌道”の現状にも、大変な興味を感じた。
林鉄跡の“杜絶”は、時に大変な宝物を隠し持つことを、私は過去の経験から知っていた。
この段階で探索する事を検討し始めた。
そこで、手元にあった『全国森林鉄道』を確認してみたところ、高山本線の飛騨小坂(おさか)駅を起点に、御嶽山中の奥深くへ伸びていた小坂(おさか)森林鉄道なるものが書かれていた。同書によれば…
【小坂森林鉄道の概要】
小坂森林鉄道は、御嶽山の西側に広がる広大な裏木曽御料林(後の裏木曽国有林)からの木材搬出を目的に、帝室林野局名古屋支局が昭和8〜9年に完成させた8.5kmの小坂線を幹線として、小坂川の各支流に沿って多くの支線網を発達させた、岐阜県下有数の規模を誇る森林鉄道だった。動力車は当初からガソリンカーを用いた。
濁河川沿いに敷設された濁河(にごりご)線は、昭和14年から38年にかけて全長10.5kmが敷設された。なお、昭和22年に帝室林野局が解体され、新たに名古屋営林局小坂営林署の管轄になっている。
幹線や各支線の廃止は昭和29年から39年に行われたが、ひとり濁河線だけは全廃が遅れ、昭和46年に最終撤去されたという(撤去が遅れた理由は記述無く不明だが、索道の存在――索道以奥へのアクセスの困難が関係すると私は思う)。
次に、『汽車・水車・渡し船』(橋本正夫著/平成5年)付表の「全国森林鉄道一覧表(昭和35年3月31日現在)」にも目を通したところ、濁河線について次の表記があった。
濁河線 /森林鉄道二級 /昭和14年開設 /全長8.7km /全線8kg軌条 /工事費27万円
『全国森林鉄道』とは全長の数字が違っているが、原典となった資料の時期が違うのかも知れない。
なお、同表は林業用の索道も林鉄の一種として記録しており、そこには次の表記を見つけることが出来た。
濁河線 /索道 /昭和14年開設 /全長0.3km /工事費5万円
以上ここまでが、探索前に私が調べた主な内容であった。
私の興味がかなり高まったので、平成25年3月頃から実際の探索を計画した。
手元の資料を漁るのと並行して、濁河線の現状についての記録がないかネットを検索してみたが、索道よりも手前側(下部軌道と呼ぼう)が普通に林道化しているらしい事は分かったものの、索道および索道より奥(上部軌道とする)の状況は、見つからなかったように記憶している。
見つけられなかったのは私の検索不足かも知れなかったが、これによりいよいよ「探索マッタナシ」という心境になったので、地図を片手に具体的な探索ルートの検討に移った。
というのも、ここは十分な探索ルートの検討なくしての探索は難しい、一筋縄ではいかない場所っぽかったのだ。
右図に赤く示したのが小坂森林鉄道濁河線の推定されるルートである。
このうち、下部軌道の1.8km(推定)は、現役の林道とほぼ重なっているらしい。
一方で、下部軌道と索道(全長0.3km)を介し接続していた上部軌道(全長8.7km(推定))は、その起点付近では他の道と接続している気配が無く(地形図上で皆無)、ようやく終点寄り1〜2kmほどの所に2箇所で林道との接続や交差がありそうだった。
もっとも、その林道というのも標高1200mを越える山奥である。
仮に、起点から終点へ向けて無事に探索が終えられたとしても、その後どうやってスタート地点(起点)まで戻ってくるかという問題があった。
往復で同じ軌道跡を通るというのは、精神的にも体力的にも、ぜひとも避けたかった。
やはりここでは、予め終点側の林道入口(「追分」という地名)に自転車をまわしておく(デポしておく)事が最上策とみられた。
だが、それをしてもなお、日帰りでは相当な長行程を余儀なくされそうだった。
具体的には、軌道跡を徒歩で探索する約9kmと、林道や県道を自転車で乗り継いでスタート地点に復帰する23kmの走行を一日でこなす事が出来るかどうかという問題である。
軌道跡の所用時間を予想しがたいのが問題なのだが、大事を取って山中泊の装備を持参するとなると、その荷重のため探索自体が大幅に難しくなってしまうというデメリットがある。
結局、身軽さを重視する普段の探索スタイルに従って、山中泊装備は持たない事に決めた。
もし正午頃までで踏破の見通しが立たない状況であったら、大人しく来た道を引き返すしかないだろう。
さて、探索計画の全体像は出来上がったが、実際に上部軌道跡へ一歩を踏み入れるためには、まだ越えなければならない大きな壁があった。
次の新旧地形図を見較べていただきたい。
現在の地形図では、上部軌道の跡地には何にもないことになっている。
徒歩道の記号さえ存在しないそこは、地図の上では完全なる山岳でしかない。
そしてそのことは、別の大きな問題を生じさせている。則ち――
どこから、どうやってアプローチすればいいかが分からない!
旧版地形図と比較することで、だいたいどの辺に軌道跡があるのかは分かるが、そこへ行く道がまず見あたらないのである。
しかも、現場で闇雲に山野を跋渉して辿り着けそうな、そんな気軽な地形では明らかにない。猛烈な等高線の列がそれを物語っている。ヘタしたら死ぬ地形だ。
今の地形図を幾ら眺めていても、いいアプローチは浮かばなかった。
索道が越えていた濁河川の谷は凄まじく深く険しく、なんらかの道を頼らず下降、渡河、対岸の登攀をやり果せる自信は、残念ながら私には無かった。
そこで頼りにしたのが、探索の起点となった旧版地形図だった。
旧版地形図には、索道を介さずに対岸へアプローチする破線の道が、濁河川に架かる橋と共に描かれている。
まずはこの道(現状不明)を頼りに対岸へ達し、そこから適当によじ登って上部軌道跡を目指すというのが、私の最終プランだった。
(このように、探索の最序盤であるアプローチ部分に大きな不安と不確定要素があったため、全体計画の段階でも、逆コース(終点→起点)は検討から除外された。探索後の疲労した状態で“袋小路”に追い込まれるリスクだけは、最低限避けなければならなかった。川が増水していて渡れないなどがあったら、目も当てられない)
以上で計画が出来たので、いよいよ現地調査を決行することにした。
探索日、平成25年5月3日。単独行。
嵐のはじまり。