私を魅惑して止まない日原の壮絶な山道風景。(過去のレポ1,2)
しかし、その景色を彩るものは天然の山河ばかりではなかった。
むしろ、彼の地で最大の存在感を有するもの…それは現役石灰石鉱山による、未曾有の地形改変によるものだった。
この地での石灰石採掘は歴史は意外に短い。
少なくとも明治、大正、そして昭和の頭まで、日原地区に埋蔵される6億トン以上といわれる石灰石は眠り続けてきた。
だが、日本の近代化と共にコンクリートの需要が爆発的に増え、全山石灰石と言っても過言ではない日原の山々が初めて認知されるに至る。
昭和12年、「奥多摩電気鉄道会社」発足。
同19年、同様の目的で鉄道を開設していた「青梅電気鉄道会社線」の終点御岳から、氷川(現:奥多摩駅)まで延伸が完了。そして開業と同時に国有化となって(→国鉄青梅線)、社名も現社名「奥多摩工業」に改称される。しかし結局、同社は戦前戦中において石灰石の採掘を始められなかった。
本業である石灰石採掘を氷川鉱山によって開始したのは、戦後復興の黎明期である同21年。
極大化した石灰石の需要に応えるべく、同28年には国内最大の曳索鉄道となる氷川線を開通。生産量を大幅に拡大。
そして現在に至るまで、地底及び地上に複数の鉱区を拡大しつつ、氷川鉱山は石灰石の採掘を続けている。
さて、昭和21年開山から同28年の曳鉄開通までの間の輸送はどうなっていたのだろうか。
実は、この僅かな期間だけ利用された索道が存在した。
終点と起点は曳鉄線と同じだが、輸送の手段は異なっていた。当然経路も違っていた。
索道(=索鉄、鉄索)ではゴンドラと呼ばれる籠に鉱石を乗せ、これを架空のワイヤーにぶら下げて輸送する。いわばロープウェーである。
これまで山行がでは索道を探索の主目的に据えたことはなかった。
索道は法律上は鉄道の仲間とされているから、廃止された索道は則ち廃線なのだが、個人的にどうもあまりそそられない。索道は空中に張ったワイヤーが主役の輸送であるから、廃止後地上に残るものとしては支柱や積み下ろし場もしくはワイヤーの弛みを取る緊張所くらいなものである。それに、索道はそれほど地上の微地形に干渉せず進むものだから、その経路を地上から辿るというのも、極めて骨が折れる作業である。はっきり言って、実りの多い探索とはなりにくい。
大沢地区から日原側上流を見る。左手奥の家並みが小菅集落。
索道はこの辺りで谷を跨いでおり、対岸に見える巨大な岩の
切れ目の辺りには、ゴンドラを付け替える作業所があったとのことだ。
(現地情報による)
だが、今回初めて私は索道跡の探索を計画することとなった。
というのも、山行がでの日原のレポート直後、以前に古道を探索したことがあるというある読者さんから、現地の老翁から聞いた話として、次のような衝撃情報がもたらされた為である。
「この山の上辺りで、索道は隧道を貫通していて、その隧道はいまでも通過でき
る。」
「昨年春の山菜取りの時に、(索道用の)隧道を通過した。隧道は2本ある。」
!!!である。聞いたことがない。索道に隧道だなんて。
架空する事で地上設備の節約を図る索道の理念にさえ反しているではないか。
果たしてそんなものが実在するというのか?!
その後、この情報提供者である「デスライダー」氏との合同調査を行う話が進み、たまたま同時進行で計画が進められていた内輪オフ会の参加者を巻き込んで合同調査を実施する運びとなった。その参加者は次の通りである。
今回の情報提供者。寡黙なパスハンター。デスライダー氏。
この春、伝説のデミオと共に新しい門出を迎えた、孤高の(元)自衛官。謎の(元)自衛官氏。
いよいよ(受験という)戦場にその身を置く、山行が合調隊の若きホープ。たつき氏。
人情溢れるマニファクチャリスト。たつき氏とは無性に気が合うアキバ系元自衛官。ちい氏。
なぜか山行がの探索の随所に出没。転んでも転んでも滑っても滑ってもなぜか愉しそう、夢見るオブガール。トリ氏。
上記メンバーに私を加えた総勢6名によって、霧の山峡を舞台とした探索の火ぶたは切って落とされた。
デスライダー氏を除いては、前夜のオフ会のノリが抜けていなかった。そして、その気の緩みが、やがて合調隊に未だかつて無い危機をもたらす事となる!
2007/3/11 8:40
情報提供者デスライダー氏を昨夜のオフ会メンバーに加えた一行は、今回の探索のスタート地点、日原古道入り口へちい氏の車で移動。
チェーンで閉じられたゲートの前に駐車した。この奥の道の状況を考えれば、誰の邪魔になることもないだろう。
それから各自装備品を整え、いざ入山の運びとなった。
捜索すべき索道はわずか8年間しか使われておらず、歴代の地形図には一度も記載されなかった。
ただし、起点と終点ははっきりしており、デスライダー氏が現地で仕入れていた情報も総合すれば、この小菅集落を索道は通っていたようだ。そしてさらに、現在地の古道入り口からそう遠くない崖上に隧道があるらしい。
ともかく、索道の支柱の一本でも発見できれば、あとは支柱を辿って歩くことで2本あるという隧道は手にはいるだろう。
集落内にはこれといった痕跡もないようなので、古道入り口からの探索となった。
とはいえ、何の手掛かりもなくいきなり斜面に取り付くのも危険すぎる。索道の遺構は線ではなく点でしか残っていない可能性が高い。
まずは古道から直接索道の痕跡(たとえば支柱やワイヤー)が見えないかを確かめるため、その入り口付近の崖を見上げてみた。
しかし、うっそうと茂る杉林と崩れそうな急斜面が見えるばかりである。
いきなりこれを上るのもキツイので、一旦古道を離れ、予め接近ルートとしてあたりを付けておいた「神社」へと、歩いて向かうことにした。
古道との分岐がヘアピンカーブの頂点となっている町道を、来た道とは反対へ、さらに登っていく方へと入る。
100mほど歩くと杉の林が開け、斜面にへばり付くような民家群が現れだした。小菅集落の中でも最も上手にある家々である。
この辺りは、日原川の河床からは既に200m以上も高い山の中腹である。
地上よりは遙かに小雨交じりの霧は深い。
何かを探そうという天候ではない…。
人にも車にも出会うことなく、袋小路の集落を奥へ奥へと進んでいく。
するとやがて、目印の神社の急な階段が現れた。
デスライダー氏は、ここから入山して東へ進めば索道と交差するのではないかという言う。なるほど納得。
あとは入山した後、そこに歩ける道があるかどうかと言うことだが…。
足掛かりとなる道もない霧の山中に索道の痕跡を求めるのは大変そうだ。
私はそれでなくても容易に発見は出来ぬ気がしていた。
索道の捜索に関しては我々のだれも前歴がない。
我々は無言できつい石段を登った。
小さいが良く手入れされた社へ到着。
額には「伽藍神社」とある。
伽藍とは、私も詳しくはないが仏教語だったと思う。
それと神社の組み合わせ…神仏習合の名残なのか。
誰と無く殿前に手を合わせ、いよいよ入山だ。
神社から斜面に沿う形で南へ向かう細道があった。
それは杉林の中の杣道のようだったが、労せず古道の方向へ連れて行ってくれるなら御の字だ。
だが、この日の探索は皆、統一感に欠けるところがあった。どの道を辿りどこへ向かうかが明確ではない本探索の性格上、やむを得ない事であったかも知れない。
もっとも、それが必ずしも悪いことだと言うつもりはない。
むしろ、自分が一番に発見したいと密かに願う個々の集合体である合調隊は、発見という二文字に関してだけは秀でてきた自負がある。
危険な場所で年長者が口を出したりはするが、基本的に探索中にリーダーはおらず、各々マイペースに楽しもうとすればよいとする。
写真は「謎の(元)自衛官」氏の姿で、地形図を見て隧道の位置を予言した。
だが、これ以後数時間の彼の足取りを知る者はいない…。
早速山中でちりぢりになり始める一行。
ちい氏 たつき氏 トリ氏 の3人は、かなり上の方へ登っていったようで、間もなく私の視界から消えた。
デスライダー氏は私とほぼ平行して山腹を東進。
そして、各々が自分の周りを捜索。
現在は一面に植林されてかなり経った杉林となっているが、その地面にはかつて人が暮らした痕跡と思われる荒い石垣などが散見された。
小菅集落は江戸時代以前から“日原みち”の宿場に準ずる集落として人の往来があったところだ。
田畑には恵まれなかったが、焼き畑などをして日々の糧を得ていたという。薪拾いも重要な収入源であった。
昔はいまほど、都市に人の暮らしは集中していなかった。
現在の感覚かからは死ぬほど不便としか言いようのない山中にも、案外平凡に人々は暮らしていたのだろう。
なにやら妖精さんが写っているが、山腹に突如現れた草地。
索道と関連があるかも知れないと思ったが、具体的な痕跡は何もない。果たしてここがなんなのかは不明のままだ。
霧深い山中で唐突に出会うフサフサの草畑には、何やら異様なものを感じてしまった。季節がオカシイ?
草地を最後に、私は他のメンバーからはぐれた。
独りは心細いし、何か発見しても報告に戻るのが大変なので、誰か一人でも道連れが欲しかったが、この急斜面を戻るのはつらいし、隧道で見事落ち合える可能性もあるし、私の足下には是非辿りたい小道が続いているしで、結局色々と自分を合理化して(いいわけとも言う)単身を続行。
一番最後まで近くにいたデスライダー氏には、「ちょっと見てくる」と言い残しているので大丈夫だろう。
果たしてこれは道なのだろうか。
私は徐々に不安になった。そこに踏み跡らしきものは一切無い。
杉の深い森が、確かに一本の線で分断されている。
その線は森を通じる道に見える。
しかし、その路面は倒木や枯れ枝に厚く覆い隠されている。
と同時に、不安はあっても、そこを離れることもまた、難しいのだった。
周囲は傾斜の急な一様な斜面である。何の目印もない。
おそらく索道とこの道は無関係であろう。
そうは思ったが、私は黙々と歩いていた。
前方に小さな岩場が現れ、そこを境にしてあたりの傾斜はさらに急となった。
それ故か、木々の向こうに空間が意識されるようになった。光が妙に白いのは霧のせいだろう。
斜面の向きは北寄りに変わり、どうやら古道入り口の直上の尾根に達したようだ。
辿ってきた道も、ようやくそれらしい感じになった。
確かにそれは道だった。いつの時代のだれの道かは分からないが、一筋、日原方向へと続いていた。
9:28 現在地点
前方が妙に明るかった理由が分かった。
そこには、崩れてまだ間もないらしい土の斜面が露わとなっていた。
道も寸断されていたが、通れないことはない。
それよりも、森の外へ出て驚いたのは、その霧の深さだった。頬に当たる微かな風がひんやりと冷たく、軽く火照った体に心地よいが、立ち止まっているとシーンとしすぎていて怖い。
他のメンバーの姿はもちろん、声も気配も全く感じない。
離れたときの状態を考えれば、皆もっと高い位置を探している可能性が高い。
私だけが突出して離れてしまっているかも知れない。もう少し進んで何か発見したら戻ってみよう。
ここに至るまで、出発地点から町道を小菅集落へ登り、そこから神社へ急な石段を登り、さらに神社からの小道も斜面に沿って僅かずつ登ってきた。故に、現在の私の位置は出発地点から見て、50〜80mも高いと考えられる。
この足下の崖下には間違いなく古道が横切っているはずだが、下って確かめることは出来そうもない。
今まで日原の山々が私に見せなかった表情を、私は少しだけ怯えながら見ていた。
索道はどこを通っていたのだろう。
ここまでの道のりで一度は交差してきたはずだが、全くそれらしい気づかなかった。
完全に撤去されているのだろうか。
隧道はどこだ。
崩壊地を乗り越え、ますます濃くなる霧の中、ひとり仲間と離れ、索道の痕跡を探した。
崩壊地を越えても植林地と森は続いていた。
大分痩せてひょろ長い杉が多いが、この傾斜では杉も大変だろう。
段々と心細さを感じながらも進んでいく私に、大きな発見の瞬間が近づいていた。
か細く続く道のすぐ上方に、これまでなかった岩場が現れた。
もし隧道があるのだとしたら、きっとこんな岩場にやむを得ず短い洞門のような穴を通したのではないか。
私は全く未知の索道隧道というものに、おぼろげながらそんなイメージを持っていた。
そう!
ここは匂うぞ!!
私の歩いてきた道はこの岩場から着かず離れずで進んでいく。
わざわざ険しい岩場に突撃する理由もなく当たり前だ。
私は目をこらし、そこに隧道や或いはワイヤーなどが残されていないかを観察した。
しかし、発見することは出来ない。
それにしても巨大な岩だ。普段は森に隠されていて、近づかないと気がづかないのだろうか。
横幅100m、高さ30mはあろうかと思う大岩盤。
マンションの一棟にも匹敵する巨大さに見える。
そして、周囲の木々も負けじと高い。
あらゆるものが高みを目指しそそり立つような岩場だ。
私は首が痛くなってしまった。
!
見つけた! ワイヤだ!!
これは来たかも知れない!
本当に索道の遺構か?!
まだ半信半疑のまま、ワイヤに沿って視線を右へずらしていくと……
!
なんだ
あれは!
隧道ではない。
それは隧道ではないが、紛れもなく索道と関係する遺構だ。
私が道の20mほど上の林の中にそれを見つけたとき、コンクリートの巨大な塊が斜面に設置されている様に見えた。
急な斜面に苦労しながらも四つ脚になってよじ登っていくと、次第にその全体像が見えてきた。
そして、これが索道の一部であったことを確信した。
それは、緊張所であった。
施設は急な斜面にありながら、ほぼ完全な形で残っているようだ。
あたり一面は鬱蒼とした杉の林となっている。
そこを縫って降りてくる青白い薄ら日は、わずかな期間で放棄された無念の遺構を我々の目から隠し、代わりに慈しむかのよう。
微かに立ちこめた霧もまた、その任を帯びているように思えた。
感傷に過ぎるだろうか。
だが、見つけてしまった。
まだ他のメンバーも来ていないようだ。
想像していた以上に古道からは高い位置だったと思う。
そして、お目当ての隧道もこのワイヤーを辿っていけば見つけられる公算が高くなった!
緊張所と考えられる遺構の全貌。
しかし、その詳しいメカニズムは私にはよく分からない。
奥にはスキー場などで見られるようなリフトのターミナルによく似た、しかしとても無骨な建造物。
まだ近づいて観察してはいないが、滑車なども残っていそうだ。
そして、手前には傾斜の異なる二本の鉄製ガイドが敷かれ、その上には幾つもの箱形をつなげた直方体のコンクリート塊が固定されている。
箱は元々ワイヤーの張力によってもっと高い位置に支持されていたのだろう。これが索道の緊張を司る「動錘」であったと見て、間違いあるまい。
傾斜の異なる二器がある理由は分からないが、詳しい人が見ればきっと一発で言い当てることだろう。
分からないながらに観察し、推察してみるのも楽しかった。
読者の皆様の情報をお待ちしております。
次回は仲間達と合流し、いよいよ隧道の捜索!
…というか、私が発見に浮かれているこの時、既に隧道の方は…。
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