会津線旧線 大川ダム水没区間 第3回

福島県会津若松市・南会津郡下郷町
公開日 2006.12.6

崖下の旧線跡

崖下へ 危険なアプローチ


 隧道は塞がれ、橋は落とされていた。
ある程度予想できていた状況ではあるが、やはり現実に目の当たりにするとショックが大きい。
まして、これから先の区間では、ダム湖水位との競争という問題も出てくるだろう。
 とりあえず、ここを起点に挑戦しようとしている2隧道については、段丘上にあったようなので、おそらく水没はしていないと思うのだが。

 現在地は国道(121号と118号の重複区間である)の小沼崎パーキング。
ここから崖下の旧線跡へ降り立ち、第三・第四小沼崎隧道へ接近したいと思う。
なお、唯一の事前情報源である『鉄道廃線跡を歩く〈9〉』によると、第三小沼崎隧道の北坑口は鉄格子で塞がれているとのこと。それらしい写真が掲載されている。



 上の写真の駐車場の東屋あたりから崖下を見下ろすと、この写真の眺めを得る。

 落ち葉をたくさん溜め込んでいる左端の板は、赤茶けたガードレールであった。
この小沼崎のパーキングが、蛇行していた国道を線形改良した際に余った道路敷から作られたものであることを裏付ける。
ここは、元もとそんな風に国道が蛇行し崖のギリギリを通過していた場所である。

 私は、駐車場の隅々を覗き、この谷の底へ安全に降りられそうな場所を探してみたが、結局、そんな場所など無い事を知っただけだった。
この駐車場から降りようとすれば、どうしても(地形図の等高線が正直にそれを告白しているが)非常な急斜面なのである。



 とはいえ、他に降りられる場所のあてもないので、小さな沢と大川(ダム湖)との間の尾根を見つけて、比較的密生する木々を手掛かりにして慎重に降りていった。
計算では、この辺りではまだ旧線は水没していないはずである。
先ほど引き返した第二大川橋梁南袂から旧線ベースで約1kmの地点で、まだ水面までの猶予があるはずだ。

 だが、その考えを“机上の空論”だとあざ笑うかのように、急な崖の底に平坦な場所は見えない。
この展開で一番恐ろしいのは、下るだけ下ってそこには冷たい水面だけが待っていたというパターンである。
直水面というのは勘弁してもらいたいのだが…。

行く手に押し黙った湖面しか見えないというのは、心細かった。



 この斜面は、私が想像していたよりも遙かに危険な場所であった。
初めは手掛かりさえあればどうにかなるだろうと高を括っていたのだが、下っていくうちにその斜度は45度を優に超え、進行は転落の恐怖感を伴うものとなった。
そればかりか、足下の土が滑り、咄嗟に手にしていた木にぶら下がるという醜態を、2度までも晒してしまった。

 だが、半ば引き返せなくなった状況下で更に下っていくと、大きな滝の音と共に、遂に平場が見えてきた。
それは、想像していたよりも遙かに水面に近付いていた、旧線の姿に間違いなかった。



 地図上から受ける印象以上に、実際の国道との高低差は大きかった。
50m以上もあるのではないか。(国道は写真で見えている遙か上である)
帰りも、下手したらここ以外に戻る場所が無いかも知れない。
しかし、果たして私は登り直せるのだろうか。
鉄道跡を象徴するような高い石垣(この縁に沿って下ってきたことは、下に着いてから初めて気付いた)を目の当たりにして、ちょっと自信が無くなってしまった。

 だが、いま自身の前後には手つかずの旧線跡が横たわっている。

まずはこれを思う存分味わってから、路頭に迷うなら迷えばよいサ。(←間違ってます!)




 下ってくる最中聞こえていた滝の音の正体は、旧線の山側に落ちているこの滝だった。
この滝の存在からも、斜面の急さが頷けるだろう。
滝の水は旧線を暗渠で潜り、やはり滝のような流れとなってダム湖へ滑り落ちていた。
不思議なのは、旧線敷きから滝壺へ延ばされた、廃レール2本を使った橋?の存在である。
廃止後にわざわざ誰かが用意したのだろうか?
もしかしたら以前はこの上にホースかパイプでも通して取水し、下流の(第三小沼崎隧道の先)耕地へ送っていたのかも知れない。



 さて、まずはどちらから行こうか?
贅沢な選択だ。
なにせ、前を見ても後ろを見ても、これまで本などで見ていない廃線跡。オブ冥利に尽きるシーン。

 写真左が南行き(第四小沼崎隧道・第二大川橋梁方面)、右が北行き(第三小沼崎隧道・ダムサイト方面)である。
まずは、距離のある南へ行ってみることにした。
北はすぐそこに隧道があって終わりだと思うので(この場所からは見えなかったが)。



連続する橋梁跡 


 滝のある沢を跨ぐ暗渠を越えて20mほど進むと、早くも路盤は宙に。

苔生したコンクリートの橋台と、それを支える玉石製の石垣が手持ちぶさたに向き合っている。
結構な間隔があるが、よく見ると一本の橋脚の基礎だけが苔生して残っていた。

 ここは斜面側に迂回できる踏み跡があったので、難なくクリア。



   橋を一つ乗り越え、次の地平を目指す。

 この ド キ ド キ が、 た ま ら な い。





 一難去って、また一難。

せっかく再開した平場も長く続かず、またも10m足らずで凸凹に。
よく見るとここにも橋台跡があった。
桟橋のような橋が架かっていたのだろう。

やはり、斜面側に踏み跡が残っており、楽に進める。


 橋の跡を2箇所通り抜け、やっと纏まった路盤跡が現れたようだった。
平場に戻って真っ先に目に付いたのは、線路端にレールとは直交する向きに設置されていたと思われる、謎の木製台。
コールタールで腐食防止されたそれは、鳥居が半ばまで地面に埋もれたような形をしていた。
そして、まだ僅かに黄黒交互のペイントが残っていた。
何らかの標識だったのだろうか。

 もうひとつ、やはり線路端。
少しだけ離れた小丘の上に、ラフレシアのような形に組み立てられた石の標柱があった。
土台はコンクリート、載せられている石は中央がコンクリ柱で、周囲の4石は自然石である。
最初は水準点かと思ったが、中央の妙に新しそうな標石には一文字「建」と刻まれていた。
またこの後にも、標柱単体では旧線敷き上に何ヶ所も発見した。
「建」はやはり建設省のことであろうから(国鉄敷きによく見られるのは「工」だ)、ダム工事の際にダム敷きを示す標識として設置したのではないかと思われる。


 さきほど隧道内でも見たのと同じ形のキロポストを発見した。
一般に廃線跡でも野外に標識が残っているのは稀である(隧道内は残りやすい)。風雨に晒されるためだ。
使用廃止されてから30年程度と、余り時間が経っていないためだろう。
それでも、このキロポストは支柱の木製部分が腐りきっていて、次の雪で押しつぶされてしまいかねない状態だった。


 前を見ると、行く手には切り通しの手本のような、豪快なシルエットが見えてきた。
単線のレールを通すため、険しい岩山をくり抜いたのだ。
旧線跡も平場では一様の雑林と化しつつあり、こんな切り通しや橋の存在だけが、かつてここに一本の連続した道が存在したことを教えてくれる。
このような光景の一つ一つをピースに、道というジグソーパズルを組み上げていくのが、廃道歩きの醍醐味だと思う。


 距離は短いが深い堀割へ進入。
荒々しいこの法面は現役当時から裸のままだったのだろうか。
岩盤のそこかしこには緑色の苔が生え、さらに頭上からターザンロープのような蔦が幾筋も降りてきている。
こうして、文明の痕跡は、ゆっくりだが着実に、山へ取り込まれていく。
だが、風雨の通り道で、雪も春遅くまで残り、日陰時が多い堀割の底は、廃道の中でもっとも永く痕跡を留め易い場所だとも思う。
おそらく100年経っても、ここにはいまとそう変わらぬ景色が残るのではないだろうか。
我々は今日でも、さらに古い明治期や江戸時代の堀割が比較的よく痕跡を留めているのを見かけることがある。



 堀割を抜けると、またも唐突に路盤が消えた。
再び橋が消滅している現場だ。
しかも、3箇所目となるここがいままでで一番深い。
対岸の橋台が、乾いた崖に飄々とへばり付いているのを見る。
ここはいままでの2箇所のように楽には越えられなそうな予感がする。

 正面突破は早々と諦め、右手の山側が杉の造林地になっているので、この中を大きく迂回する事にした。
果たしてどこまで連れて行かれるのか…。



 迂回を始めた矢先、路盤の脇の高台上に根元から切断された電信柱を発見。
よく見るとそれは2本の木製の電信柱が組み合わされた、かなり規模の大きなものである。
上部には、かつて無数の碍子が並んでいただろう金属製の横木や、変電器が設置されていたらしいやはり金属製のタラップを見ることが出来た。
会津線は現在まで電化されていないので、単に鉄道電話の電柱か、或いは民間のものか。



 難航が予想された迂回だが、すぐに光は見えた。
鬱蒼とした杉林を少し国道側へ歩くと、そこに一本の歩道が現れたのだ。
おそらくは植林地を管理する歩道だろうが、これが上手い具合に旧線跡に沿っていた。

しかも、前方には更に明るい感じの道が見えてきたのである。



 狭いが一応鋪装されている道にぶつかった。
この道の一旦は国道と繋がっているのだろう。
そして、そのもう一方の端に私は出会ったのだ。
ここは、大川の蛇行が生んだ広い河岸段丘上で、会津線旧線もここを突っ切っていた。
私の事前勉強不足であったが、よく見ると現在版の地形図にもこの台地上には稲作の記号が描かれていた。
このルートを知っていれば、敢えて小沼崎のパーキングから危険を冒して崖下りをする必要など無かったのである。


 ともかく、路盤跡を歩き始めて、ここまで約300m。
その間に3つの橋の跡を乗り越え、いま、一段落だ。



第四小沼崎隧道へ 


 しばしダム湖を忘れさせれくれる落ち着いた台地上の旧線跡。(振り返って撮影)
両側は畑として耕作されているが、一面のススキ原となってしまっている場所が少なくない。
古い地形図で見てもここは畑として利用されていたようだ。
台地上のため稲作には向かなかったのであろう。
やや荒涼とした風景の中に不釣り合いな真新しい電柱が点在している。
果たしてこれは何だろう。
近くにダムの水位観測所でもあるのだろうか。

 廃線跡の常として、周囲にある元もとの道とは関わり合わず独自のカーブを描いて突っ切っていくが、鉄道廃止後は幅広で真っ直ぐな線路跡も畦道として利用されるようになったようで、しっかりと轍が刻まれていた。



 200mほどで畑を突っ切ると、旧線跡はまっすぐ杉の森へ進んでいく。(写真は振り返って撮影)
路盤に轍が付いているのもここまでで、ここから先は再び廃線歩きらしくなる。
この杉林の道も200mほど続いた。

 それにしても、私も“廃線歩きのバイブル”として絶大な信頼を置いている『鉄道廃線跡〜』シリーズが、敢えてこの歩きやすい区間を取り上げなかったのはなぜだろう。
掲載されている写真も国道やその旧道などから撮影されたような物が殆どで、「本当に歩いたのだろうか?」という苦言を、このレポートに関して「だけ」は言いたくなる。
お陰で、同著だけを読んでいる読者にはさぞ、ツマラナイ廃線跡のように見えたのではないだろうか。
オイシイ廃線風景が温存されていた事に感謝しても良いかも知れないが。



 再び湖が寄り添ってくると、労無く隧道が見えてきた。
1時間前に遠望してほぞを噛んだ「あの隧道、あの坑口」の反対側の口である。
すなわち、小沼崎第四隧道。

 そして、嫌な予感は的中した。




 頑丈な鉄格子が、今度は一切の綻びもなく、しっかりと嵌め込まれていた。

足掻いてみる気にもなれない。
またも、味のないガムのようなほぞ(果物のへた)を噛みしめる。



 この隧道は、旧線跡にある7隧道中、おそらく2番目に長いもので、全長400m程度あるようだ。
線路はここで目覚ガ淵に続く非常に険しい湖畔を避け、ほぼ汀線に沿う形で地中に進路を取った。その結果としての隧道だ。
概念的には、対岸に3km近い大戸トンネルを掘った新線(現在線)に似ている。
そのような構造上、或いは途中に横坑がないとも言い切れないが、覗き込んで見た光の様子からは、そのような存在は窺えなかった。
やはり枕木が敷かれたままになっている寒そうな闇が、点のような出口へむけて真っ直ぐ続いているだけだった。

 打つ手無く、ここは撤収である。
(なお、反対側の坑口へ国道から崖下りで接近できる可能性がある。今後の課題とする)



新技発動?! 第三小沼崎隧道へ 


 再び3箇所の橋桁無き橋をかわし、パーキングの真下へ戻ってきた。
今度はここから北上し、第三小沼崎隧道へ向かう。
古地図を元に地形図へ旧線跡を書き込んだ物を持参してきたのだが(右地図に似た物)、既に現在地でも隧道に重なっているのではないかと思われる。
それくらい隧道はすぐそこにあるはずなのだが、なぜか見えない。
というか、見通せない。




 ほんの10mほど歩くと、見通せなかった理由が分かった。
そこにも橋があったのだ。
そして、この橋もすっかり橋桁が消滅している。
橋脚の残骸が手前と奧に2箇所見えた。
橋が消えたおかげで湖畔の急斜面にも若木がニョキニョキと生えており、そのせいで先が見えなくなっていたのである。
しかし、橋の袂まで来てようやく隧道が見えた。
更に30mくらい先である。

 ここは、突破が難しいような気がする。
法面の石垣の高さが、迂回を事実上不可能にしている。
正面突破するにも、いよいよ湖面への滑落の恐怖と戦わねばならなそうである。



 もし遠望された坑口に柵が嵌め込まれていたのなら、無茶はしなかったかも知れない。
だが、「辿り着くな事が困難な側の坑口は開けておく」という、挑発的な策略(単に経費の節約だろう)を前に、ここを突破してやりたいという、負けず嫌いの性格が出てしまう。
昔の山行がはもっとその傾向が顕著で、林道やら造林作業道やらは林業関係者から私への挑戦状だと思っていた。
手入れされず廃道になっている道を見つけては、その先端までチャリで突撃することを生業としていたほどだ。
最近では“そんな無意味なこと”に体がついて行かなくなった(笑)が、目の前に隧道をちらつかされては黙っていられない。

 もう、これ以上ほぞを噛みたくない!

橋無き急傾斜地へ、躍り出た。



 そこは、新しい“オブ動き”(48手あると言われる)を使わねば突破できぬ難所であった。

その動きとは、玉石練り詰みの法面にて、一つ一つの石を手掛かり足掛かりにしてそこを伝って歩く、という技だ。

技術的にはたいしたことのない、ロッククライマーならお手の物の動作であろうが、素人の私にとって、明らかに通路ではなく壁な部分を通路として使いたのは、新しかった。

そして、不慣れなことから来る恐怖は、大きかった。
あの“梁渡り”を最初に実践したとき並に怖かった。
写真ではちょっと分かりづらいが、滑落すれば湖まで一気に逝ってしまう感じがしたのだ。



 中程まで来れた。

残りは楽そうだと思ったら大間違い。
ここでも引き続き“練り石渡り”を使わねばならなかった。
というのも、通路のように見えている場所が、実は法面から生えた灌木に落ち葉が被っただけの“落とし穴”であったからだ。
最初足をかけたとき、危うく落ちかけた。

すぐそこに足をつけれそうな場所が見えているにもかかわらず、その30cmほど上の練り石を渡って歩かねばならぬという、自分でもよく分からない状態となった。
冷や汗をかきながらも、どうにかこうにか進んだ。



 最後は我慢できず近付いてきた足場に飛び降りたが、ようやく隧道が目の前に。

ここから坑口へと繋がる、落ち葉に覆われた急斜面にしても、上の崖が崩れてたくさんの土砂が供給されたお陰で存在するのだろう。
また、この真上は国道の小沼崎パーキングである。空き缶などのゴミが散乱しているのもそのせいだ。

ともかく、現役当時はとりつく島もなかったろう橋無き部分を、どうにかこうにか突破し、隧道へ辿り着いた。



 苦労して辿り着いた第三隧道は、7本中もっとも短いと思われる、味気ないものだった。

 しかも、出口は鉄格子で塞がれており、通り抜けは不可能。

 再び技を使って帰らねばならなくなった……。


 枕木は見当たらず、ガランとしただけの隧道内部。
本当に、特筆するような事が何もない。
強いて言えば、鉄格子の向こうに殆ど景色が見えないと言うことか。




  ポカーン。


 ポカーン である。

この先は、半島状になった小出集落の足下へカーブしながら続いていったはずだが、路盤はダムに関係する大規模な地盤調整事業で消滅してしまったようだ。
この塞がれた坑口を国道側から見た写真が、『鉄道廃〜』には掲載されている。
私は敢えてこの前に行ってみたいという気持になれなかったので、これをもって、第三・第四小沼崎隧道に関する実踏を終えることにした。

 来た道を引き返して、今度は第二隧道を探しに行こう。





 帰るためにはまた、この崖を渡らねばならないのね……。


 しかも、下ってくるときにはあんなに危惧していたにもかかわらず、帰りも滝の傍の急斜面を使った。
やはり厳しく、息は切れ汗だくになった。

写真は、国道まであと僅かという場面。古びたガードレールが見える。




   一定の法則性を持って塞がれた隧道たち

    残るはあと4本!

     だが、次に訪れる隧道で、遂に、最も恐れていたことが………