廃線レポート  
玉川森林鉄道  その9
2005.3.5

玉川大橋から軌道跡へ
2003.11.19 11:19


 玉川大橋で、道の様子は一変する。

これより上流の11kmは、玉川ダム工事によって付け替えられた国道であり、ダム工事が開始された昭和48年頃から順次建設され、ダム完工となった昭和61年には、国道付け替えは完全に完了していた。

玉川大橋は、その名のとおり、玉川を渡る巨大なコンクリート橋だ。
国道は大橋を渡って、右岸に移動する。
併用軌道路だった歴史を持つ旧国道は、このまま左岸に続いている。
すなわち、旧国道は橋の手前で右折する。



 分岐には何の案内もなく、旧道も開放はされているものの、通行止めの珍しい標識が、二本も出迎えてくれる。
このさき、旧道上には橋やスノーシェードが残っているが、いずれも林鉄的な遺構ではない。
併用軌道時代のものではなく、国道として使われるうちに改築されたものなのだろう。

この区間は、本レポートの最終段階で紹介するので、お楽しみに。

まずは、玉川大橋を渡り、いよいよ冠水域から脱してきたばかりの旧軌道跡を、探索しようではないか。
(念のため復習するが、鎧畑ダムの建設によって付け替えられる以前の林鉄跡が“旧軌道”であり、付け替え後の林鉄は、現在の旧国道との併用軌道だった。)

 そして、玉川大橋へ。

昭和58年開通、上路PCラーメン構造の大橋梁である。
2車線と、片側歩道を有する。
欄干は意外なほど低く、チャリに跨って見下ろせば、簡単に身を乗り出せるほど。
眼下は、独特の緑色を見せる(これは玉川独特の強酸性水を中和したために生じた化学的な色なのであるが)鎧畑ダムの末端部の水面。


 2004年2月の、玉川大橋から見下ろした秋扇湖の様子。

完璧に凍り付いていた。
なお、写真手前のこんもりと雪の積もった場所は、橋の欄干である。
欄干は積雪で完全に見えなくなり、代わりに樹氷のような物体が形成されていた。

見ているだけで、寒くなる写真である。


 さて、橋上から下流を見下ろし、そろそろ水中から浮上してくると思われる旧軌道を探していた私だが…。

あれ? 隧道??

写真中央付近の、切り立った湖畔の崖に、なにやら岩盤にくり抜かれたような、穴が見えているではないか。
しかも、貫通しているようである。

遠目に見ても、かなり足下が悪そうなのだが、橋からは直線距離で300m程の距離か。
そう離れてはいないので、どうせチャリを橋に置いて、ここから先は旧軌道を上流へと辿ってみる予定だったので、ちょっと下流方向へも寄り道してみることに決めた。
(なお、この段階では前回「その9」で紹介したさらに下流湖畔の数隧道は発見されていなかった。この日の水位では無理だったはず。)


 玉川大橋の右岸側袂には、駐車するようなスペースは一切なく、ガードレールの外には急斜面の雑木林が湖に落ち込んでいるのみである。
だが、そこにはかすかに、スロープ状の平場の痕跡があり、おそらくは、道路の下部工事の際に利用された工事道路の名残かと思われる。
しかし、藪は濃く、とてもチャリごと侵入できる状況ではないので、チャリは車道に置き去りにしてきた。
橋の上にチャリを置いたために、まさか身投げなどと勘違いされればイヤなので、ガードレールの外の藪に隠したが、それがかえって、車に撥ねられてぶっ飛んだチャリみたいにも見えてしまい、すこし心配だった。
だが、まあなにも悪いことをしているわけではないので、気にせず藪へと降りる。

こうして下側から見上げると、玉川大橋の巨大さが、より一層際だって感じられる。
PC橋でこれほど大きなものは、高速道路などには見られるが、珍しい。


 そして、わたしは不思議な光景というか、思いがけないものを見つけた。
写真は、玉川大橋の橋台の基部であるが、ただのコンクリートの固まりと思えばそうではなく、内部は空洞のようである。
その証拠に、頑丈な鉄の柵に阻まれてはいるが、入り口があり、中を覗くことも出来る。

では、覗いてみよう。


 なかなかに内部は広かった。
鉄格子のために、侵入することは出来ないが、フラッシュで照らされたその奥行きは、10m程度はある。
地形に沿うようにして、奥にゆくほど高くなっている。
巨大な橋台は、実は巨大な箱であったということだ。

ここを後にして、旧軌道の「隧道らしきもの」を求め、いよいよ湖畔に降りる。




旧軌道跡 下流方向へ
2003.11.19 13:57


 玉川大橋直下の湖畔は、氾濫源の様相を呈している。
ダムの水位の変化に応じて、一帯は水に浸かることもあるのだろう。
一面は乾いた草地であり、所々にコンクリートが敷かれている。
もっともこれは、橋の建設中にコンクリ袋が投棄された名残であるのかも知れない。

写真は下流側を撮影しているが、山際に一筋の水平線が写っている。
これが、旧軌道跡である。




 頭上をまたぐ玉川大橋の勇姿。

惚れ惚れするほどに、まっすぐである。

 さて、旧軌道跡の状況は非常に悪い。
長年汀線付近を行ったり来たりをし続けた結果、もはやほとんど平場の痕跡は残っておらず、浸食が進んでいる。
怖いことに、滑り落ちれば即座に、底の見えないエメラルドブルーに突入してしまう。
手がかりといっても、貧弱そうな草ばかりで、斜面と化した軌道跡を歩くのは、生きた心地がしなかった。

派手ではないが、かなり怖い場所という印象だ。
そして、まもなく橋上から見えた小さな隧道が、近づいてきた。

 それは、確かに隧道で間違いがなかった。
旧軌道は、昭和初年代からダム工事が始まる30年代まで利用されていたもので、隧道も見ての通り、完全素掘りの非常に質素なものである。
これより下流にも、数本が残っているようだが、やはり、そこまで接近するのは困難であろうということが、ここまで僅かに歩いてみて感じられたことである。

この隧道については、仮に、あくまでも仮に 玉川7号隧道 と称するものとする。
(「その6」で紹介した鎧畑ダム下流の隧道跡を2号としたので、この間に推定4本の隧道があると考える。)

 延長は僅か5mほど。
高さなどは人が歩いて入るに十分なものだが、出入り口はともに堆積物で半ばまで埋もれており、洞床は擂鉢状に低くなっている。
ゴツゴツした隧道を、あっという間に通り抜ける。


 下流側から振り返った7号隧道の様子。

かなり風化している。

 さらに下流方向を見渡すと、もうこれ以上は進めない事がよく分かる。
とても眼前の斜面は、通れないだろう。
しかも、それが見渡す限りずうっと先まで続いているのだ。
次の隧道まで、もう2km近く離れているだろう…。

なお、ここに来て初めて、軌道の下部に、まるでトウモロコシの実のような石垣が残存していることを知った。
やはり、急な断崖を削って設けられた軌道だったのだ。
湖底にどれほどの深みが続いているのか、考えるだけでも寒気がするではないか。



 これ以上下流に進むことは潔く諦め(この日の水位では、仮に先に進んでも隧道はすべて水没していたと思われるが)、踵を返し、玉川大橋へと戻る。

今度は、大橋より上流の、旧軌道跡を辿っていこう。







その11へ

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