廃線レポート  
玉川森林鉄道  その3
2004.3.9



 国道とは玉川を挟んで平行する軌道跡。
 いよいよ地形は険しさを増す。





見附田
2003.11.19 10:28


 銅屋から春山にかけての区間、田沢湖の外輪山の端の急斜面が玉川に接しており、右岸に平地はほとんど無い。
よって集落や、国道は左岸に集中している。
しかし、敢えて軌道は人家のない険しい右岸を貫いている。
この区間の軌道跡は町道として一応管理されており、自動車の往来もあるようだ。

しかし、さっそく落石注意の看板が現れた。




 それから幾らも行かぬうちに、今度は通行止の標識が現れる。

崩落による通行止という事だが、軌道跡をただ均して車道にしただけの道では仕方ないだろう。
この先しばらくの崖は、ご覧の通り非常に切り立っており、ひとたび土砂崩れに遭遇すれば、生き埋めを免れたとしても、深い玉川に押し出される事になるだろう。
落石防止ネットも、ガードレールすらない車道は、町道として気楽に通れる雰囲気ではない。
抜本的な改良が必要な道だ。

チャリなので、お構いなしで侵入。


 この先、大小の落石がごろごろと路面に点在していたが、それでもチャリなら容易に通行できた。
崖を切りひらいて拵えただろう狭い軌道跡を1kmほど頭上に注意しながら進むと、やっと崖から解放される。
森が現れれば、危険区間は終了だ。


 一転して長閑な農村に脱出。
久々の集落は、見附田という。
そして、畦道のような軌道跡がぶつかる狭い舗装路は、県道248号「春山田沢線」である。




 県道248号線の往来。
正面が終点である田沢集落方向、私が背にしている方向へ進めば、約2kmの山越えで田沢湖畔に出る。
湖畔と外界を結ぶ車道は、合わせて5本あるが、そのうちでも下から2番目の隘路だ。
最も酷いのは、県道ですらなく、柴倉林道という。
でも林道好きには結構メジャーな道だそうで、個人的には、この県道の方がマイナーだと思う。
マイナー県道大好きっ子の私には、軌道そっちのけで探険しに行きたくなる道だが、もう走破済なんで我慢我慢。




玉川二号橋梁付近 <分岐>
10:38

 見附田からさらに軌道は右岸を進むが、銅屋から見附田までが通行止とはいえ車道だったので、このまま次の耳除まで続けばいいなと思った。
だが、現実は甘くはない。


 見附田から500mほど杉林の中を潜ると、玉川の川べりに出た。
ここからまた川沿いに進む訳だが、この探索時点では全く予期していなかったものに、二つ遭遇するのである。

ひとつは。



 一つは橋脚である。
平凡な円台形のコンクリート橋脚が二つ、流れの遅い水面に立っている。
対岸には、坂下地区の広い川原と水田、遠くに集落が見える。
この探索時点で、私が探索の手がかりとしていた昭和初期の地形図には、軌道はこのままずっと右岸に沿って描かれている。
しかし、だとしたらこの橋脚は、一体何なのだろうか。

この謎の答えは、帰宅後に解けた。
この地点こそが、上流の鎧畑ダムの工事によって付け替えられた軌道の、新旧分岐点であったのだ。
本橋脚を渡り、しばし左岸を進む新線(付け替え線)と、このまま右岸に張り付く旧線である。

私は、このまま旧線を辿る事になった。




 もうひとつ、地図上からは予期できなかった遭遇が、この巨大な水門だ。
玉川には大小多数のダムが存在するが、これは通常のダムではなく、分水のための施設である。

秋田県人であれば、一度は聞いた事があるだろうクニマス(國鱒)という魚の名。
これは、戦前までは普通に田沢湖に生息し、漁撈の対象となっていた魚である。
ただ、この魚は、世界中でも田沢湖だけにしか生息していなかった。
そして、現在クニマスは、一匹もいない。
乱獲などではなく、国の政策によって滅ぼされたのだ。


昭和一四年、玉川河水統制計画。
この計画は、強酸性のため用水に適さず毒水と恐れられた玉川の水を改善し、同時に電源開発をも成す、一石二鳥の大計画だった。
富国強兵の叫びのなか、国策は議論なきまま毒水を田沢湖へと導いた。
クニマスは死滅し、漁撈に頼っていた湖畔の集落は、転換を余儀なくされた。

当時、毒水を導水した水路は、ここから地底を通り、田沢湖を目指したのである。
いまでもはっきりと、導水口の文字が、残っている。
本設備の完成は、銘板によれば昭和二八年、鎧畑ダムの施工と同時期である。
初代の設備は解体されたのであろう。


 一見綺麗な玉川の緑色の水面。
だが、魚一匹生きない死の水が、科学的に反応してこの色を顕している事を知ると、ただ美しいなどと言う事は出来なくなった。

ちなみに、人々を苦しめ続けた毒水の原因だが、それは玉川温泉である。
一秒間にペットボトル140本分もの湧水を誇る同温泉の成分は、強酸性。
Ph1.1という、まさに鉄をも溶かす水なのである。
(湯船のお湯は、希釈されているそうです。)

“最難関地帯”
10:45

 この導水施設からさきは、事前の机上調査では最大の不安部分であった。
なぜならば、現在の地形図には、点線すら敷かれていないのだ。
大概、軌道跡なども、点線(歩道)程度は描かれている場合が多いのだが、この先耳除集落までの1kmほどは、それすらない。
そして、相当の荒廃が予想できていたために、この区間は迂回する事を計画していた。
特に目立った遺構もない区間のようであるし。

このような、大人しい利口な計画があったにもかかわらず、またも私の悪い病気が発病してしまう!
わずか、1km。
そのくらい、なんとかなるのではないかと、そう感じてしまったのだ。
国道を迂回する方が、遙かに時間が掛かるのではないかと…そう考えてしまったのだ。

大きな間違いだった。



 案の定、その先は廃道もいいところで、僅かに踏跡がシングルトラックのように残るだけの藪道だった。
しかし、山肌は擁壁で守られ、軌道敷き自体は、健在である。
ただ、藪が酷い。
もちろん、チャリにのっての通行はすぐに不可能となり、押しとなった。
まだ、50mしか来てないが、この辺で引き返すべきだった。
少し行けば、路面状況が良くなるのではないかなどと、なんの根拠のない期待をもって、進んでしまった…。



 期待とは裏腹に、自体は悪い方悪い方と進む。
最も苦手な笹藪が、腰までの深さで立ちはだかる。
チャリの駆動部という駆動部にまとわりつき、回転を鈍らせる。
チャリを引きずるようにして、笹を蹴散らしながら進む。
ペースは極端に遅くなり、汗が額に滲む。

まだ、100mしか来てない。
まだ、戻れた。
しかし、夢中な私は、そう考えていなかった。



 堰き止められた玉川が細長い湖のようになっている。
流れは、ない。
対岸にも、葦原が広がっており、その向こうに坂下集落の屋根が点々と見えるが、とても遠く感じる。
精神的に、遠い。

前も後ろも、強烈な藪。
左は鬱蒼と木が茂る崖。
右は深い湖。
道幅は、僅か1m強。

次第に、事態の深刻さに目が覚めてきた私だが、決定的な場面に遭遇するまで、惰性で進んでしまうのだった。


 そして、導水施設から7分間を経過して決定的な場面に遭遇した。

軌道敷きは崩壊し、そっくり玉川に消えている。
チャリがなければ、飛び越える事も考えられる。
しかし、チャリをここに置き去りにするのなら、そもそもチャリをつれてきた選択全部を否定する事になる。
選択肢は二つだけだ。

引き返すか、チャリを何とかして越えさせて進むか。



 越えてしまった。
それは簡単ではなかったが、きわめて地道な活動となった。
すなわち、チャリを下ろし、自分も降り、チャリを担ぎ上げ、自分も登り …と。

ここを越えてしまった事により、心理的にも、物理的にも、退路が断たれた。
特に心理的な影響は大きかった。

振り返ってみると、まだ大して来ていない。
でも、引き返しは辛い。
そんな、最も困難な状況に陥りつつあった。




 私は恐怖した。
そして、我が身の不幸を呪った。
すべては、自分の行動が引き起こした結果であるが、それを忘れて、私は怨んだ。

なぜだ。
これではまるで、罠じゃないか。
侵入者の退路が断たれた途端に、道の様子は豹変。
コンクリートのよう壁もろとも、無惨に崩落で埋め尽くされている。
そればかりか、木々は狂おしく行く手を遮る。
巨大な岩塊が、行く手を阻む。

引き返す事を、真剣に考えざるを得なかった。



 しかし、まだやれる事をやり尽くした訳ではない。
正直言って、それほど面白い探索区間でもないのに、こんなに苦労させられて、大変に不機嫌ではあったが、撤退は嫌だ。
やれるだけやりたい。
やれるだけやって、もし駄目なら…。
それを考えると恐ろしくなるが、そのときは、そのときだ。
探索には危険がつきものだ。
望まぬ危険にも踏み込むくらいの気合いがなければ、素人には結果は残せない。

無茶を承知で、突入!
命懸けの格闘が開始された。



 次回は、私は生きて突破か。生きて撤退か。

なんにせよ、生きているのはいいことだが、果たして結果は?!

そして、探索はどこへ向かうのか!






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