廃線レポート  
玉川森林鉄道  その5
2004.4.17



 前回は、玉川林鉄の鎧畑ダムの建設に伴う付け替え線に存在していた橋梁を紹介した。
今回は、このまま上流へと進むのではなく、坂下集落から鎧畑集落間の付け替え軌道兼旧車道の跡を辿ってみたい。
この区間は、現在完全な廃道となっている。
軌道は廃止されて久しい上に、道路も昭和40年代に現在の川崎橋と駒草橋によってバイパスされており、もはやこの玉川の険しい河岸を通る道は一切無い。

一時期は、併用軌道となっていただろう道は、凄まじいことになっていた。



坂下から旧道へ
2003.11.19 11:50


 一旦、国道341号線を生保内方向へと戻る。
その距離は、1kmほど。
この区間の始めと終わりには、駒草橋と川崎橋の二本の橋があり、そのお陰で国道は蛇行する玉川に対し、直線の道を許されている。
軌道跡や、それ以前から存在していた道は、全て対岸の岸壁に張り付くように通っていた。
これから、この部分に挑戦する。
無事に攻略できれば、最後には先ほどの鎧畑1号橋(ガーター橋)に再び戻れるはずだ。



 対岸をよく見ると、いや、余り注視しなくとも、そこに道らしき痕跡を認めることは容易い。
ただ、いかにも荒々しい雰囲気を感じる。
確かに、昭和初期の地形図などでは対岸に道は描かれているものの、現在版では点線すら描かれていない。
完全に廃道と化している公算は強い。
そもそも、かつての道路と現道とを繋ぐ部分には、先ほども見た鎧畑発電所の建物があり、旧道がまともに存在しないことは、明らかだ。
チャリごとの通過も不可能であることを、既に感じていた。
歩いてすら、難しそうな予感がする。



 下流側にあるのは川崎橋であり、この橋の上流へと、玉川の左岸に旧道が続いている。
手前には一軒の民家があり、民家までは砂利道が続いている。


 案の定、民家より先はもう、存在しないことにされていた。

ビニールの物置が旧道敷きを占領しており、その奥へはビニールハウスの脇を越えていく必要があった。
そして、その先に存在していた景色も、やはり想像通り。
恐れていた姿だった。

ここで、チャリは降りた。
ここからは、歩きで。


滝ノ沢の廃道区間(付け替え軌道跡)
11:53

 物置の裏から、もうそこはサバイバルフィールドだった。

たしかに、道幅は充分に広く、かつて車道と軌道が並んで存在、いわゆる併用軌道だったとしても、頷ける。
だが、もはやここにはその様な痕跡は何も残っては無さそうだ。
そこにあるのは、道の痕跡を失った、野山だった。

それでも、徒歩ならばと、諦めずに進んでいく。
秋も深まっており、ススキなどが枯れているのは幸いだったが、イバラが多く、あっという間に傷だらけになってしまった。


 夏場ならば、まず徒歩であっても侵入は不可能だろう。
草に覆われ見えにくいが、地面も決して平坦ではない。
直径1mもあるような岩石がごろごろとしており、元々は広かった道幅の中を、少しでも進みやすい場所を探しながら、一歩ずつ進んでいく。
この調子では、一体どれだけの時間がかかるのだろう。
これほど荒れ果てていれば、新しい発見は難しいだろう。
…侵入してきたことを、後悔した。




 脆い岩肌。
頭上も、足元もこんな崖地である。
ガードレールなどの痕跡もないが、果たして本当にこんな場所を、自動車や鉄道が通っていたのだろうか…。
疑わしくなるが、地形的に、ここ以外には考えられない。

苦労しながらも進んでいくと、頭上の崖のさらに上に、なにやら平坦な部分が見えてきた。
そして、進むほどに、それは低くなり、近づいて来るではないか。
道、 なのか?


 崖の上から次第に近づいてきた道は、幅1mほどの、多分道だろうと思われる程度のものだった。
緩やかに近づいてきた姿から、軌道跡っぽい印象を受けたが、付け替え軌道については、それを描いた地形図が発行されなかったらしく、正確な道行きは分かっていない。
果たして、この狭い道は何で、どこから続いているのだろうか?

分からないことづくしだ。
写真は、上から接近してきた道っぽいものが合流する様子を振り返って撮影したものだ。



 さらに進む。

崖下の玉川は穏やかで透き通っている。
水面までの高さは、3mほど。
いざとなったら、この川を歩渉して脱出する覚悟があった。
とても戻る気にはなれない。
対岸にはのんびりとした水田の景色が広がっていることが、救いだ。


 廃道に入ってから13分が経過。
地図上では500mほど進んだだろうか、最も不安だったゾーンに迫った。
それは、滝ノ沢という玉川の支沢を渡る部分である。
はたして、橋があるのだろうか?
どうやって、渡るのだろう?

私の不安は的中し、沢が迫ると一旦道形は沢に沿って上流へと折れるように見えた。
仕方なく、それに従って玉川岸を離れる。



 たしかに、道だったらしい気配は感じられる。
残念ながら、道路構造物や軌道の存在を感じさせる遺構は一切見つからなかったが、地形的には道に間違いないだろう。

しかし、道を捕らえたという、、このまま進んでいけば沢を越させてくれるだろうという、
そんな小さな油断が、ミスを引き起こした。

 どこで道を踏み外したのか、いつのまにやら、私は笹藪に迷い込んでいた。
それも、超密度&超高度の、笹樹海である。
もはや、前後不覚とはこのこと。
さらに悪いことに、一旦引き返して体勢を整えればいいものを…
強引に沢に降りて渡る作戦をチョイスしてしまった。

結果、転倒。
私は負傷した。
たいした怪我ではなく、探索に支障は無いが、情けないことだ。


 沢に降りてみても、橋など存在しなかった。
沢幅は10mほどで、擂鉢状の沢底に流れる水は微々たるものだ。
対岸に渡っても道を再発見できる見込みは薄いと考え、沢を渡っていた痕跡を沢底に探しつつ下流へと戻った。

そして間もなく、私の前に立ちはだかったのは、ご覧の城壁。
いや、城壁のような築堤だった。

羊歯植物が繁茂する日陰の斜面に食らいつき登る。
やはり、人工的に積み上げたらしい石垣だ。
斜度は60度程度、高さは5mはある。
巨大な、遺構である。

思わぬ発見だった。
軌道(ないし旧道)は、滝ノ沢を高い築堤で渡っていた。

滝ノ沢から鎧畑
0:17

 この、滝ノ沢を渡る道の探索には時間を要した。
いつの間にか正午も回っている。

 登ると、そこには探していた道があった。
どうして、ここには橋を架けなかったのだろうか?
築堤はUの字型に湾曲しており、この形状の橋が技術的に困難だったのだろうか?
また、造り的に付け替え軌道のために築かれた建築物とは思えない。
付け替え軌道は昭和30年代の建設であり、ましてすぐ先にはあんなに立派な鉄のガーター橋もあるのだ。
この様な原始的な施行をするだろうか?
一方、旧車道については昭和初期からここに描かれており、この築堤もその時代から存在すると考える。



 とは言っても、謎は解けない。
築堤が旧車道のものだとしても、付け替え軌道はどうやって渡っていたのだろうか?
まだ発見されていない橋梁の跡があるのだろうか?
この幅では、とても併用軌道だったとは思えないのだが…。

この先は、もう築堤上を歩くことは出来なかった。
滝ノ沢を渡ると、再び猛烈な笹樹海が築堤上に展開していたからだ。
諦めて、迂回することにした。
下へ。


 あてがあったのだ。
築堤の玉川川下方には、社が見えていた。
パッと見、廃墟である。
そもそもこの場所へ通じている道が今は存在しないのだから、誰も参拝できるはずもない。

しかし、社があるということは、あそこへと通じる道もかつてあったはずである。
これに、望みを託した。
もう笹藪は勘弁である。



 築堤の玉川側、つまり南側斜面は、日当たりが良く羊歯植物も少なめだ。
よく、原形を留めて見える。
下の方には、ただ一カ所、滝ノ沢の流れを通している土管があった。
この程度の水流なのだ。

それにしては、手の込んだ築堤である。
やっぱり、軌道も通っていた気がしてきた。
この先、笹藪に突入するが、高度的にはこのまま崖を伝い鎧畑一号橋へと繋がると考えるのが自然だ。
となると、旧車道はどこから別れていたのだろう…。
あのガーター橋はまさか併用ではあるまい…。

いや…、もう何もかも分からなくなってきた。
私の頭では、探索するのが精一杯だ。
だれか、教えてヘルプミーーー!!



 社の扉は固く閉ざされていた。
辺りには奉納されたらしいものも何もなく、小さな笹がひょろひょろと揺れている。
奥には、築堤がはっきりと見える。
そこそこに立派な建築物だが、辺りにはこれだけがぽつんと建っていて、えらい寂しげだ。
一体、どのような由来を持つ神社なのだろうか?
マジな話、ここへのアプローチは、近所のおじいちゃんおばあちゃんでは絶対に無事では済まなそうな道であったぞ。
誰のための神社なのだろう。
やはり、廃墟なのか??

なにか、モーレツに気になる。


 扉は開かなかったが、扉の右下に、意味深な(←考えすぎ)穴があった。
覗き込むと、内部には何もない。
スッカラカンだ。もぬけのカラだ。
なにか、簡素な木の台座はあるが、肝心のご神体はない。

やっぱり、廃墟だった。


 玉川沿いを発電所や国道目指し、歩こう。
読み通り、そこには軌道跡とは別の、道があった。
勿論廃道だが、歩けないほどでもない。
行く手には、木々の間に発電所の建物が見えてきた。
もう少しだ。



 橋があった。
朽ちた木橋だ。
歩いて渡ったら、片足を乗せていた板が抜けた。
驚いた。

石垣は、いつの物なのだろう?
木橋の幅を考えると、車道ではなかっただろう。
見上げれば、頭上10mほどの場所に、軌道跡が続いている。
もう、鎧畑一号橋も間もなくだ。




 私の方も、この木橋を越えるとすぐに、発電所の隅に脱出した。
そこは、ちょうど私が鎧畑一号橋へのアプローチのために一度チャリを置いた場所、橋の直下だった。

計画通り、一周した。
だが、分からないことが余計に増えてしまった。

いったいぜんたい、どうなっているんだ。
旧車道が特に、謎の存在だ。
軌道とは、どの程度絡んできたのか…。





 ここは、どうもスッキリしない探険だったが(発見は多かった)、次へと進む。
今度は、再び付け替え前の旧軌道跡に戻る。
水没地点である鎧畑ダムサイトまでの道のりだ。
そこには、やっと現存する隧道を発見できた。




その6へ

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