廃線レポート  
森吉林鉄粒様線 「最奥隧道計画」 その5
2004.10.18

 出 発 !
2004.9.23 7:40

 今回、レポ化するにあたって、われわれの野営地がどこであったのかを前後で見た地形などから類推してみた。
その結果、おそらくこの野営地は、本来そこに泊まろうと目指していた粒沢・様ノ沢二又より2.5kmも下流だったことが判明した。
第2の野営地と考えていたニセ二又と呼ばれている場所ですら、ここよりも1km近く上流であった。
結局、昨日は午前10時半に入山し、16時半頃に到着するまで、6時間をかけ、わずか5km程しか進めなかったことになる。

また、昨夕に私が迷いつつ見たものを右の地図にまとめてみた。
かなりアバウトであるが、大体こんな感じの地形であった。
図中で「湿地」と書いてある場所が、無数のツタや倒木が密集する激迷いゾーンである。
川沿いに丘状の杉林があり、これが迷いから脱する決め手となった。
また、上流で森は崖で本流に収束し、軌道は狭い崖沿いに続いていた。
そこで、たまらず私が引き返したのは、昨日のレポの通りである。
引き返しの途中に、私は幾筋にも別れる軌道を目撃していた。
山際を通る軌道は、結構続いていたが、深い小川にぶつかって、その対岸まで行く気力も時間もなかった。
おそらくは、下流でまた合流しているのではないか?


ドラム缶など、謎の人工物が見受けられ、多数のレールが埋没、または現存しているこの林は、おそらく中・上流で唯一の広い平坦部である。
なにかしら、営林署の施設があった可能性もあるし、少なくとも、軌道の交換施設があったことは間違いなさそうだ。

たまたまだが、私たちは森吉林鉄粒様線の要所に宿をとっていたのかも知れない。



 出発20分前、天候は上々。
薄暗い森の底にも日の光が優しく落ちてきていた。
猛烈な朝露で、我々の身の回りで濡れていないものなど無いほどに皆、濡れた。
一番堪えたのは、デジカメだった。
私のメーン機は、濡らしたくない思いから、寝袋の中に入れて一緒に寝たのだが、昨夜よりも悪化し、撮影できなくなっていた。
おそらくは、昨日の夜の段階で既にびしょ濡れだったから、それが内部にまわったのだと思うが。
そして、やむなく温存してきたサブ機を取り出したのだが、サブ機で数枚試し撮っているうちに、焚き火で暖めていたメーン機が復活した。

そんなこんなで、危なっかしいながらも、今日もメーン機での撮影を続行することが出来た。

出発10分前、いよいよ恐れていた瞬間が、三人に訪れた。
それは、避けては通れない試練であった。

ぐっしょり濡れたままの沢装備に着替える。
下半身に痺れるような冷たさが走り、痙攣のような震えが走った。
だが、素肌に密着し、空気の流れを遮断する沢装備の良いところは、すぐに体温で暖まるところだ。
間もなく、昨日と同等の快適さ(というか、我慢できる不快さ)に戻った。
くじ氏は、タイツタイプではなく、全身タイプの装備だったので、着替え時はほとんど全裸で気の毒な寒さだったに違いない。


さあ、午前7時38分、出発だ。



 まずは、テント場になった森の片隅にある軌道の分岐点に、二人を案内した。
昨日の記憶を頼りに歩くと、まもなく軌道にぶつかり、そこには昨夕見たまんまの分岐があった。

枕木は、長年降り積もった落ち葉の転じた土により、見えない。
レールも背丈の半分くらいが埋もれており、写真では分かりづらくて残念だが、確かに4条のレールが見られた。
写真は下流側に、別れていく軌道を撮影したものだが、一方は正面の湿地帯の激藪へ、他方は左の山際にカーブしている。

しかし、
肝心の、レールが二又になるその部分だけは、なぜか消失していた。



 と思ったら、その分岐機の部分だけが、数メートル離れた場所にまとめて棄てられていた。
誰かが悪戯で取り外してここに置いたのか?
或いは、意味のある行為だったのか?

それは分からないが、この写真に写る変わった形のレール達は、まさしく分岐部分のパーツである。
それぞれ役割を持ったレールパーツ達が、一所に転がされてあった。

朝から、興奮の連続であった。
だが、最大の見せ場は、この先もう少し先だった。



 さらに進むと、間もなく昨日私が青ざめて引き返した崖沿いの道となる。
かなり崩落箇所が多く、木々などの手がかりを最大限に活用して、斜面と変わらなくなってしまった軌道敷きを進む。
すぐ下には、粒様沢がある。
その水量は、昨日よりも少ない。
そして、何よりも透き通り方が全然違う。
軌道上が進めなくなれば、いつでも沢に降りて進む用意があった。



 崖沿いをひとしきり歩くと、7時49分、再び草むらに鮮明な軌条が出現した。

嬉々として、軌道上に生え出た笹を掻き分けて進む。
森はしとどに濡れており、触れた傍から水滴が滴る。
清閑な朝の空気を肺満タンに吸い込めば、テンションも上がる。
見上げた空には雲一つ見えない。
谷が深く、未だ朝日の差し込まぬ森なれど、それももう少しの辛抱だろう。

今日は、楽しい旅になりそうである。

私は何年ぶりに、山で寝起きを共にする仲間を見つけたのだろう。
トリオの頃には、毎年一度はチャリにテントを積み込んで遊んだものだった。


 またも、軌道は崖に呑み込まれて消えてしまった。

今日は、昨日に比べて全然荷物が軽い。
私に限っても、テント一式・ランタン・着替え・寝袋の分は、軽くなっているし、食料も減った。
昨日と同じリュックを背負っているとは信じられない身軽さが、嬉しくて堪らない。

だが、身軽といえども、流石にこの斜面は時間がかかりすぎるので、沢に一度降りることにした。
沢は5mくらいしか離れてなくて、容易に降りられる。




 真下の沢に降りてみて驚いた。

無数のレールが沢に洗われたり、斜面に引っかかっていた。
それは、沢の上流から、この場所に至るまでのレールがまとまって流れ着いたのかと思われるような、惨状であった。

廃止から40年余り…
回収されなかったレール達はいま、人の滅多に訪れぬ清流に、その骸を晒している。




 7時57分、やっと沢らしい急流が目立つようになってきた粒様沢に、見たこともない景色が出現した。

決して狭くはない沢全体を完全に塞ぐ、黒いダム。
その正体は、一本一本が胴回りよりも遙かに太い、巨大な倒木達であった。
周囲の森は穏やかな雰囲気で、とてもこれほどの巨樹を押し流すような流れには見えないし、どこからこれほど大量の倒木が流れ来たのかも、不思議である。




 ダムの隙間から、僅かに本流となる水が漏れだして、流れている。
倒木達には、やはりレールも紛れ込んでいた。
上流で、一体何が起きたのだろうか…。

いまは静かなこの森で、きっと何かが起きたのだ。
巨大な土石流か、台風の大風か。

人の手を離れた森でも、自然は己を破壊することがある。
それは、必ずしもより大きな繁栄のためではなく、本当に崩壊し、元には戻らぬことも。

自然もまた、後戻りの出来ぬ、時の摂理の落とし子なのだ。




 林鉄の森 
8:02より

 水の上を歩くくじ氏。
よく見ると、水面スレスレに二本のレールが沈んでいた。

この少し先では、支沢に架かる橋が落ち、それでも二本のレールだけが残っている場所があった。
うっかり写真を撮り忘れたのだが、そこではトランポリンごっこをして遊んでしまった。
レールはよく撓り、トランポリンをするのに最適であることを、初めて知った。

少なくとも鋳造から40年、もしかしたら50年以上も経過しているにもかかわらず、これだけ丈夫で、しかも嫋やかな撓りが失われてはいない。
レールに使われる鉄は、特別に上等な鉄だとパタ氏に聞いたことがあった。
これだけの鉄ならば、廃止後に回収しようとするのも、頷ける。
一体、この粒様沢には、どれほどのレールが回収されずに残っているのか、想像もつかないほどだ。

 水面すれすれの岩陰から、滾々と湧き出す清水を見つけた。
この場所は、くじ氏が偵察した時にも、彼の喉を潤した場所だという。
そして、彼の記憶が確かであれば、もう、ニセ二又が近い。

ここの清水は、本当に冷たくて、透き通っていた。
手に掬って呑んでみたら、すこぶる旨かった。
帰り道では、くじ氏がペットボトルに詰め込んだから、私が昼食のカップ麺に使わせてもらった。

ブナの森から湧き出す水、しかも、路端ではなく、常時水流に洗われてい岩から沸き出す清水。
こんな水が、旨くないわけがない。


 沢が軌道敷きの直下を流れる。
そこには、久々に石垣を見た。

粒様沢は、一般的には充分に源流と言える山奥にあるのだが、実際の景色としては、ここまでは「沢」よりも「川」と言った方がしっくりと来るようだ。
それほどに、里から遠く離れた無人地帯を延々と流れる沢なのである。
(ただし、両岸をほぼ例外なく巨大スラブが囲う粒様沢は、川底だけを見れば穏やかでも、中途から接近する手だてのない不思議な谷だ。)
そんな粒様沢の大いなる流れを幾度も渡ってここまで伸びてきた粒様線は、他の源流で見られるような路線に比べてれば、これでも大分穏やかだったのだろう。(そうでなければ、収穫の少ない谷の、これほど奥まで軌道は伸びなかったに違いない)
延長のわりに、石垣などの構造物は少ない。

苦労して辿り着いた我々には禁句だが、

レールが現存していなければ、かなり単調な路線だった カモ。



 左岸の崖が緩んだので、軌道があるだろう高さに戻ってみた。
すると、そこには枕木ごとに沢へと落ちていく軌道が、ちょうどあった。

この先が、粒様線のハイライトである。
先に言っておくが、粒様線を辿る旅としては、ここが、一番の見所だったと思う。

その先にあったのは… まあいい。

いまはまず、ここにあった 「 軌道の楽園 」 を見て欲しい。



 我々は、この場所に踏み込んだ時に、まず真っ先に思った。
「ここをテント場にすれば、最高だったな」と。

周りはブナを主体とする雑木林で、落ち葉が厚く堆積しているばかりでなく、枯れ枝も取り放題であった。
ここならば昨夜の雨でも、根気強いくじ氏ならば、納得のキャンプファイヤが出来たかも知れない。

それだけではない。
この森は、下草が少なく軌道敷きも鮮明に見える。
そのまま、テントを設営できそうだ。

木の葉のフィルターを通り抜けて降り注ぐ、馨しくて暖かい日の光。
なんと居心地のよい森なのだろう。
こんな森で、月や星に見守られながら、もう一泊してみたいものだ。




 午前8時18分、
不思議なカーブを描く軌道に遭遇。

これぞ、軌道跡だ。
今回の、一番のお気に入りの写真である。
後にも先にも、この場所が一番鮮明に軌道を見ることが出来た。

また、このあたりにも幾つかの分岐があったようで、鮮明でないものも含めれば、かなりのレールが存在していた。
やはり、ここにも交換設備があったのか。
ちょうどここは、ニセ二又のすぐ傍だ。


 イタズラのような軽妙なカーブを繋げて、針金のような若木の伸びる森に、鮮明なレールが続く。
かなり路盤は傷んでおり、軌道の幅も一定でなくなっている場所もあったが、手直しをすれば、きっとこのレールにトロッコを走らせることも出来そうだ。
自作トロッコを乗せて遊んだら、楽しいだろうな。
一面の発掘調査もしてみたい。
無数のレールが無傷で埋まっているかも知れない。

夢ふくらむ軌道の森、軌道の楽園。

いつも穏やかな鉄人HAMAMI氏は、ここでおもむろにレールの幅を計りだした。
すなわち、軌間計測だ。

結果、83cm程度という推定値が得られた。
レールの中心同志なら、85cmくらいだった。
この数字は、意外なものであった。
なんというか、奇妙に幅が広いのだ。
この幅でも、一般に「狭軌」と呼ばれる幅に違いはないが、規格としてよく知られている幅とは隔たりが大きい。
記録によれば、森吉林鉄本線の軌間は762mmであり、これは林鉄として普通の幅だ。
その本線の軌間との約10cmもの差異は、いくら身体の部位を用いて計ったとは言え、容認しがたい。
HAMAMI氏は、自身の手指の長さを把握しており、これを用いて計ったから、間違っているとも考えにくい。

これは、軌道が劣化して変化したものなのだろうか。
確かに、平坦な場所であっても、軌道は所々断裂しており、幅も一カ所で計測しただけだったので、正確ではないのかも。(現に、上の写真と、右の写真とでは、全然軌間が違うし…)
ただ、犬釘で枕木に固定されている場所を選んで計ったつもりではあったが…。

大きな謎を残してしまった。



 楽しい森の道は、長くは続かなかった。

一つ一つが8cmCDよりも大きな、怪しく赤いキノコ(ツキヨタケか?)に覆い尽くされた倒木に遮られるようにして、軌道は消えてしまう。
その先は、清流が崖にぶつかるばかりで、軌道跡らしき平坦部は途切れてしまった。

斜面は急で、雑木の密度も濃く、ここは沢を迂回せざるを得なかった。

そして、丁度この場所が、ニセ二又の下流端であった。






 ニセ二又 
8:27

 ニセ二又は、その初っぱなから私の度肝を抜いた。

この逆光に輝く、2階建ての一軒家ほどもある巨岩の下に、やや上流で二又に分かれた流れが、再び一つに集まっている。
集まった流れは、そのまま下流へと勢いよく流れている。
まるで、二又の沢のどちらへ進むか、それを頭上から見下ろす地獄の閻魔の如き迫力!

地形図では、小さな中州のような地形だと見えていたニセ二又だが、こいつはすごい。
知らなければ、本当に“粒様の別れ”だと思ったに違いない。
先人達は、面白い名を付けたものだ。

ここは、軌道も寄り添っていただろう左流(すなわち、向かって右)へと進んだ。




 二又のうち、我々が進んだ向かって右の流れは、水量が少なかった。
それでも川幅は広い。

目を引いたのは、その沢底に何十メートルも続く、レールの残骸である。
それは、計ったわけではないが、林鉄のイメージとは異なるロングレールであった。
その接続部も生きており、かれこれ50mくらいは一本のレールとして、沢の中に伸びていた。
しかも、一条だけではなく、2条。
或いはそれ以上。

どうやら、左岸は大規模な地滑りで軌道の全てがそっくり沢底へ落ちてしまったようである。
そして、落ちた沢の水量が二又のおかげで少なかったせいで、奔流に散乱することなく、レールは繋がったままに残ったのだろう。
さっき見た本流で、ひしゃげたレールが幾つも折り重なるように打ち上げられていたのとは、対照的である。



 そして、ニセ二又の分流は、ものの100mほどで、一つに戻る。
このように、沢の上流に中州でない島が生じていることは、珍しい。
しかも、ここのように島が広く、その上にも木々が生える森となっているのは、貴重だろう。

さて、写真は合流部だ。
なんと、示し合わせたかのように、合流部にも鎮座するような巨岩の頂があった。

これらは、両岸のスラブを形成する一枚岩の一部が、遠い昔の日に滑り落ちてきたものだろうか。
たとえどれほど沢が増水しようとも、さすがに上流から流れて来たとは、考えられない大きさだ。




 この場所を最後に、パタリと現れなくなったものがあった。

その消失が、何を意味していたのか…。



いよいよ長かった粒様沢の旅は、最後の舞台 「神の谷」へ 。







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