15万ヒット記念  廃線レポート特別編 和賀仙人計画 その1
2004.6.4



 山行が史上最難の踏破計画、和賀計画発動。

まずは、平和街道へと突入だ!



岩手県北上市 JR和賀仙人駅前
2004.5.30 7:00


 0700(=午前7時)、
JR北上線和賀仙人駅にて、我々は集合した。
私はパタ氏に同乗させてもらいここまで来た、間もなく、くじ氏がやってきた。
3人は、挨拶もそこそこに本日の計画を最終確認した。
実は、当初今回の計画は、私がくじ氏へと、前回森吉第四次合同調査の直後に送ったメールが発端となっている。
私は、前回合同調査時に、楽しみながらも、どこかまだ限界に達せないでいる彼のオーラを感じ、さらなる困難へと誘おうと思ったのだ。
誤解なら、とんでもない大馬鹿者の私だが、彼はやはり無茶な男として、岩手最強を名乗って頂きたい人物である。
なんと、最初に計画骨子を説明した翌日、かれは単身偵察へ分け入ったというのだ。
その結果、彼は第一指令である「平和街道」踏破を成し、第二指令である和賀軽便鉄道においても、多数の発見をもたらした。
ただし、彼は名誉の負傷と言うべき、6針を縫うほどの傷を負った。

自己責任の世界であるから、少しも胸は痛まないが、彼のアツイ魂に激しく揺さぶられ、私自身も限界に挑みたいと感じた。
その後、細かな部分で計画がよりエスカレートし、本日に至ったのは言うまでもない。

ただし、私とくじ氏だけであれば、どこまで無茶をするか分からない。
生きて帰れぬのはレポーター失格であることだし、慎重派を標榜し、また大変博学なパタ氏への参加をも打診したのであった。


 写真は、今年1月7日に撮影された現地の写真である。
和賀川右岸に立地する和賀仙人集落の南端に近い、今は操業を停止して久しい日本重化学工業のプラントを挟み、左岸の険しい山肌を撮影した。
そこには、一本の横筋が、まるで等高線のように刻まれている。
この道こそが、今回のターゲットである、平和街道なのだ。
私が衝撃を受けたのは、その見える位置の高さだ。
果たして、どのような景色がそこにあるというのだろうか。



 同じく一月の写真より、新旧の和賀仙人橋だ。
左岸より右岸を撮影しているが、この橋の袂には、旧道への入り口はない。
先の写真でその水面上の高さが想像できたが、もっと上流より分岐しているのだと考えられた。
また、青い鋼鉄アーチの旧橋はV字の峡谷に映え、廃止されているとは言え、未だシンボルとして生き続けているのであるが、この橋は銘板より昭和7年の竣工であることが知られている。
この時期を境に、旧平和街道筋の往来が急激に減ったことは想像に難くない。

地形的にもこの橋を利用せず、急峻懸崖の旧道を往く積極的理由は見あたらないから、昭和初期での廃止と言う可能性も高いと思われた。


 さて、探索当日に戻る。
写真は、国道107号線を和賀仙人橋から1kmほど横手・錦秋湖方向へと進んだ地点だ。
ここから、旧平和街道は左へ反れていく。
くじ氏の車輌を入り口に停車させて、奥へと向かう。
入り口の段階で、廃道と言うことが想像できた上に、なんといってもくじ氏が偵察を終えているのだ。
彼曰く、この先間もなく「完全に廃道」とのことだ。
廃道に挑む適期は既に過ぎている。
しかし、なんと言っても今回は徒歩だ。
正直、徒歩でも難しい廃道など、そうはないだろうと思った。
チャリでの踏破が可能な程度だったら、悔しいな、そんなことも考えていた。

0715、3名侵入開始。



平和街道の衰退
7:15

 右に、国道のアスファルトを見ながら、旧道はほぼそのままの高さを維持しながら、斜面に沿って続く。
入り口からいって既にこの有様で、下草も刈られていない。
3人は、一列になって歩く。
この時期の藪には虫がおおいと言うことで、パタ氏は防虫スプレーを全員に念入りに吹きかけてくれた。
また、それでも耐えられないとき用に、秘密兵器として農業用の種入れ袋を人数分持ってきてくれた。
いざとなったら、これを頭と顔に被ってすすもうというのだ。
その姿は、大変に異様であったが、人もいない山中ではなるほどナイスアイディアと思われた。
使わないで済めば、それに超したことはないが…。



 早速斜面は急になるが、道はほぼ平坦に続く。
眼下の藪の向こうには、国道の和賀仙人スノーシェードの天井が見える。
どんどんと、現道との高度差は広がっていく。

なお今回、2台の車輌が参加していることを利用して、入り口側にくじ氏の車を、出口側にも予めパタ氏の車を移動させておくことで、純粋に目的部分のみを探索することが可能となった。
お二人の協力在ればこそである。




 日の当たらない場所程道は鮮明であり、砂利が敷いてある箇所もある。
道は、入り口から300mほどの地点で、山肌を鋭く登っていく左の分岐と分かれる。
この道が何なのか分からないが、旧道とは同程度に轍が刻まれているようだ。
いずれにしても、地図には記されていない道だ。



 そのまま進むと、いよいよ断崖絶壁にさしかかる。
厳めしい露頭の部分を除いても、斜面全体が斜度60%を下らない。
崖を削り取って作られた細道である。
新緑から精力的な深緑に変化する課程にある森は、初夏を感じさせるほどの強い日射しを遮り、夜のひんやりした空気を存置させている。

気持ちの良い朝の森だ。



 崖から崩れ、今は路肩に寄せられている石の一つは、鮮明な縞模様を顕していた。
以前、出羽丘陵を散策していて「バウムクーヘン」みたいな石を見つけ、レポにもアップしたが、あれは触れば粘土質で脆かった。
しかし、今度はガチガチの岩石だ。
もしや、これが「桂化木」と言うやつだろうか。
パタ氏も、木の化石だと言っていた。
だとしたら、立派なものである。



 ジャングルのような藪の向こうに、新旧の和賀仙人橋が並んで掛かるのが見えた。
この地点より奥は、下には他に道がないことになる。
それが意味することは、容易には脱出できぬ場所に踏み込むと言うことだ。
底に流れる和賀川はダムによって水量が調整され、決して激流と言うことはないが、両岸が鋭い崖になっており、ここを通過することは出来ない。
この先、我々に与えられた道は、

 突破か、 長々と来た道を戻るか。




 そんな、我々が“罠”へ踏み込んだのを見計らったかのように、道は非情な姿で我々を迎えた。
再び、左上方へとスイッチバックで登っていく道の形跡があるが、これは完全な藪。
それは構わないのだが、我々の進むべき正面の道も、ここで急激に藪化していく。
少し広くなっている部分が、ありがちな行き止まりの景色を演出している。




 くじ氏(左)とパタリン氏(右)、そして私は共に藪へと進入する。
なぜ、突然これほどの藪となるのだろうか。
そこには、何か轍がこれ以上伸びれなかった原因があるはずだ。
それが、最大の問題である。
ただ、通る者が少なくて藪化しているだけならば、不快さを押せば、別に難しいというものでもないのだが…。

緑の樹海へ、いざ参らん。


完全なる廃道
7:26

 廃道に代わる場面で、初めてこの道の歴史を感じさせる遺構に出会うことが出来た。
それは、僅か50cm程の法面下部の石組みである。
倒壊し消滅していないことが奇跡的に思えるほど、苔生し、石と石の隙間も拡大して歪んでいる。
この石垣を支えているものは、人為的な土木ではなく、森の作用、例えば根や土であることは想像に難くない。
この様なものを、「自然との一体化」というのだろう。
決して、そのあたりに次々とオープンしている、“自然ふれあい施設”のようなものでないことは確かだ。




 ただ、路上に草が生えて藪化しているわけではなかった。
長い期間放棄され続けたらしく、道幅の大部分が崩れてきた土砂に埋もれ、急な斜面となっていた。
そこに、膝丈よりも深く青々とした植物が密集しているものだから、殆ど自分の足元も見えない。
それで、一歩歩くたびに、思いがけず石があったり、苔ですべったり、とにかく、足首に負担が大きい。
廃道化してほんの僅かで、もうこの先の探索の容易でないことが決定的になった。
前夜の雨でタップリ濡れた森は、生き物そのものだ。




 崩土に埋もれて地形の変わった部分は、30mほどつづいたが、ここに耐えると、一旦道形ははっきりとする。
また、そこには崖下から現れた電線が登場し、しばらく平行する。
木の電柱が歴史を感じさせるが、電線が2条ほど張られており、まだ通電している様子もある。
この保守用に、年に数度は人も入っているだろう。
その程度の往来では、育ち盛りの緑に踏み跡を残すことは出来ないのだろう。

街道としては廃止された後も、一応その敷地は再利用されたのだ。
道としては消極的だが、まるっきり廃止されていたわけでは無かったことに、ほんの少し安心した。




 地上から登って来る電線。
川を渡り、一直線に日本重化学の廃墟に繋がっている。
電柱には、番号の振られたプレートが取り付けられており、「取水口線」という名称も分かった。



 緑の川のような廃道を、点々と続く電柱を頼りに歩く。
以前、くじ氏が単独で偵察に来たときには、この区間を下流側から遡って、ここへ来たらしい。
今回の我々とは、逆のコースを辿っている。
その際にも、途中の廃道化は著しく、道が判然としない箇所も多かったという。
ただ、半月ほど経過しており当然のことではあるが、これほどの惨い藪では無かったそうだ。
私としては、この5月末というのが、この廃道踏破計画のぎりぎり最終ラインだと思っていたが、やや遅きに逸した感はある。

電柱の中には、比較的新しいものもあった。
最近も、作業員たちがここを歩いているのだろうか。



 上の写真でも、電柱の奥に木々のない斜面が写っているが、その場所へと入った。
ここは、冬季に撮影した際には、道形が瓦礫に埋もれるようにして消滅して見えていた場所だろう。
斜面全体に治山工事をうけ、現在のような木の生えない斜面が生まれたものと思われる。
よく見ると、この斜面にはコンクリートの段差のような、治山工事の跡が見られる。
そして、ここは旧道敷きも完全に消え去っている。
胸まであるオオイタドリの海を、泳ぐようにして、また安定しない足元に注意を払いながら行く。
電線は、このあたりで谷底へと向かっていき、それっきり登っては来なかった。

 


 足元は、急な斜面で一気に和賀川の広い河原に落ち込んでいる。
対岸の森も険しく、河原は決してエスケープゾーンになり得ない。
廃墟の目立つ工業地帯の向こうには、出発地点であったJRの駅がある和賀仙人の集落が見えており、さらに遠くには、朝日に白く浮かびあがるように、北上市街がうっすら見えていた。
まさしく、今我々がいる場所は、北上から横手へ向けて進むとき、初めて本格的な山にぶつかる、その壁の最前線であった。
前方に遮る山は、無いのだ。

この、生活感のある景色がまた、自分たちのいる場所の非現実さをくっきりとさせているようだ。



 再び森へと入るが、そこには道がない。
道なき斜面を進むうちに、真っ直ぐ進みたくとも、高度を上げたり、または下げたりせざるを得ない場所もあった。
そのせいで、治山工事の斜面を過ぎても、残された道に合流できていないのだと考えられた。
上下を探るが、それらしき痕跡は見えない。

それでも、前進していれば道も発見できるかと、積極的に藪を掻いて進む私に、嫌な発見が…。
不安定な足場をフォローするために、生木の幹や枝を重要な手がかりであるわけだが、そこに一匹の、見たことのない巨大ナメクジ。
色から言って、“野趣溢れすぎ”だし、体長は10cm程度ある。
ヒルよりはマシだが、これだけ大きいのは気色悪さも一級品であった。
なにより、この先しばらく枝を触る時に緊張を強いられた。
こんなのを知らずにグニュッとつぶしてしまった日にゃ、トラウマ必至である。
ちなみに、頻繁に撮影するカメラを濡らすことを懸念して、私は軍手をしていないのだ。




 3人で、一旦見失った道路跡を探しながら、少しでも歩きやすい部分を進む。
昭和初期のこの道が描かれている地図の記憶からも、また、冬に見た崖に刻まれたその痕跡からも、本道路は全線に置いてほぼ一定の高さを直線的に通過していたはずなのだ。
それほど大きく上下に斜面を移動する必要はないはずだ。

そんな確信のもと、やっと我々は、幅3mほどの平坦な部分を、眼下に発見した。



 我々は、この平坦な部分へと降りることにした。
斜面の急さが、お分かり頂けるだろうか。




 そして、そこにあったのは紛れもない石垣の跡。
確かに我々は、目的の道へと再び戻ることが出来た。
ここまで痕跡を失わせてしまった大崩落現場を、半ば強制的に突破してきた我々である。
なんといっても、くじ氏が既に単独で越えてきているのだから、採決は不要だった。

この状況を目の当たりに、パタ氏がある発言を要求してきた。
ぜひ、レポにそれを記して欲しいという。
ならば、記そう。 久々に…。











廃墟との遭遇
7:47

 このあたりで振り返ると、和賀仙人橋がかなり遠くになって見えた。
このあたりから先は、道が90度斜面に沿ってカーブしていく部分だ。
くじ氏曰く、まだ楽にはならないだろう。



 道は、幾度か急な沢によって遮られた。
道路敷きなど、まるっきりえぐり取られ、再び対岸の道を探すことも難しいほどだった。
なによりも、ここを越えることが、命懸けだ。

私は、この道が容易でないことを予感していた。
まずは、昭和2年版の地形図を最後に、遺構和賀仙人橋が登場した以降の判図では須くこの道が消えていること。
そして、偵察したくじ氏の発言だ。
特に、山野の滝を巡るというライフワークを持つ、くじ氏の廃道耐性は相当のものであり、彼をして廃道と言わしめた道だけに、その危険さは想像できた。



 だが、ここまでとは想像以上だったと言わねばなるまい。
藪の深さもさることながら、地形的に道形が消えている部分の多いことを、認めねばならない。
もはや、ここは地形図に点線で描くことも出来ない道なのだ。




 微かに続く道を行くと、斜面にコンクリートの構造物が現れた。
それは、水路を渡る橋であった。




 そして、そのコンクリートの橋から上を見ると、手の届くほど近くに、ご覧の廃墟があった。
コンクリートの無骨な小屋である。
決して大きなものではないが、明らかに道路敷きを塞いで建てられている。
コンクリート製であることから、早くとも大正後期、おそらくは、道が廃道化した後、昭和になっての建造であろう。
小屋の入り口は、私たちが来たのとは反対側を向いていた。




 入り口へ向かうために、水路を渡る。
水路は、未だ水を通していた。
まるで、ウォータースライダーのような眺めであるが、実際にはそんな気楽なものではなく、落ちればどんな速度で河原に叩きつけられるか想像も付かぬ、死の罠である。
藪をかき分け、水路を渡る。




 崩れてきた土砂によって、半分埋まっている小屋の入り口。
木の扉が設置されており、そこには鍵が閉められていたが、扉自体がもう役目を成していない。
その、カビくさい内部へとカメラを向けに、前進する。




 いまどきは見ることのない、レトロな鍵だ。
はたして、今はこの錠前の鍵はどこにあるのだろう。
もう、この地上には存在しないかも知れない。
この鍵の姿から、ゲーム的な想像力が働いてしまった。

「ろうやのかぎ」→「つかう」→「かぎがあわない!」

なーんて。




内部は、想像以上に縦に深かった。
足場はほとんど無く立ち入ることはしなかったが、そこに居住スペースはなく、建物の中央にあったのは、赤錆にまみれた太い送水パイプと、そこに繋がる背の高いバルブのような操作部だ。
おそらくは、このバルブにハンドルを取り付けて、まわすことによって通水量を調節できるのであろう。

このあたりは、ゲーム「バイオハザード」的な展開である。



 斜面を滑り降りていく水。
この水は、果たして何処から来たものなのか。

その解明は期待していなかったが、図らずもその謎は解明されることになる。

想像を超える遭遇が、近づいていた。







その2へ

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