廃線レポート 第二次和賀計画 その2
2004.11.6

大荒沢ダムへの挑戦
2004.10.24 8:14


 今回の計画の最大の目的である旧仙人隧道の内部探索であるが、今日は湖岸の工事も行われておらず、坑門へと迫る事に、特に障害は無さそうであった。
まだ時間には余裕もあるので、僅かに残った湖上に浮かぶように現れている大荒沢ダムへの接近を試みることにした。
本来の湖岸から、特別水位故に湖上に現れている広大な泥地をただ横断してゆけば、現在の汀線へと辿り着けそうだが、そこには大きな問題があった。



 写真は、湖畔の斜面からHAMAMI氏が撮影した、私(左の人物)と、くじ氏の姿だ。
私は、先陣を切ってダムへの最短距離を歩き始めたのだが、湖底だった部分に足を踏み入れて、わずか10歩ほどで、身動きが取れなくなってしまった。
原因は、もちろん泥。
深い上に、もの凄くきめ細かく密度の濃い泥であり、絡みつくキャラメルように私の両足を捕らえて放さなかった。

結局、私はこのの直後、情けないことだが、くじ氏に助けを求め、なんとか手を差し伸べられて脱出に成功した。
もし、一人だったらと思うと、恐くなる。
まあ、言い訳をすれば、誰かが助けてくれるだろうと踏んで、敢えて人柱になったのであるが。

ともかく、まっすぐとダムへと向かうことは不可能だと言うことが分かった。



 早くも“洗礼”を受けた、私の下半身。
泥に埋もれたのは、僅かに膝下だけだというのに、それでも自力脱出不可能であった。
この泥の粘着力が、お分かり頂けよう。

なお、私が手に持ってぶら下げている、緑色のネットに入ったサイバーな物体は、くじ氏の手漕ぎボートのオールやポンプ類だ。
決して、人体改造を行っているわけではない。
そして、早くも私はくじ氏の道具を、たんまりと泥で汚してしまった。



 我々は、なんとか歩けそうな、泥の堅そうな場所を探して歩いた。
その結果、泥の下に沈んだ田圃の畦が一段高くなっており、歩き易い事が判明した。

とりあえず、湖岸にボートやその関連品を置いて、身軽になってから、引き続き人柱要員の私を先頭にして、一列になり、こんもりとした盛り上がりからそれと分かる畦の部分を選んで、汀線を目指した。



 一連の探索では初めて、特別水位の汀線に接近した。
この日が、予定されている特別水位であったかは分からないが、最大で通常時の最低水位から6mも下げているという。
この状態から6mと言えば、目の前のダムは巨大だが、それすらひとたまりもなく完全に水没するだろう。

いよいよダムが眼前に現れてきた。
廃止から40年余りを経た大荒沢堰堤が、遂に、我々の接近を許したのである。
私はこの後に、ダムが現役だった当時の写真を見る機会に恵まれたが、黄土色の水上に浮かぶような現在の姿からは到底想像できないような、急峻な崖地に築かれたダムである。

この探索時にはまだ知らなかったのであるが…、
実はのっぺりとした水面下には、数十メートルの水深がなお存在し、堤体自体は絶壁に架けられた狭き橋そのものなのだった。



 汀線付近には、畦よりも幅の広い堤防上の凸地が続いている。
紛れもなく、当時の堤防であろう。
まだ、汀線側には水辺の植物達の成れの果て達が、泥から頭を出していた。

水面下6mの世界が、白日の下にある!
いま、我々はそこに立っている!

それだけでも、充分に興奮できるファクターなのだが、これだけに留まらない。
我々は…、新しい水没遺構へと足を踏み入れようとしていた。
廃ダムという。


 大荒沢ダム 通路部分
8:27


 遂に、ダム堤体へと急速接近。

いま我々がいる場所は、和賀川右岸の河岸段丘上である。

え?
と思われるかも知れないが、間違いなく、ここは段丘上なのである。
大荒沢集落も、対岸の杉名畑集落も、和賀川が形成した段丘上に立地していた。
そして、段丘崖を含め段丘以下は全て湖底にある。
今回の最低水位以下の特別水位を持ってしても、この谷底は決して覗くことが出来ないようだ。

目の前にある大荒沢ダムは、両岸の段丘同士を結ぶ堤体で和賀川を堰き止めて、この上流に和賀川ダム湖を形作っていた。
主な目的は、ダムから取水した水を用いての水力発電なのであるが、このメカニズムについては、本レポの後半戦で触れることにする。




 右岸の堤体傍にあった、建物の基礎。
湖面に面して立地しており、なんからの管理施設であったと考えられる。
この奥数メートル先にも、枯れ木が湖面から頭を出しており、まだ段丘崖は先なのかも知れない。
透明度が低い上に、泥の堆積のせいであろうか湖面全体が茶色く、その湖底の様子は、深さを含めて全く窺い知れない。

そのことが、冷静に考えるとかなり恐い行動に、我々を駆り立てた。



 目立っている建物状の部分だけでなく、そこへと続く長さ50mほどの通路部分も、ダム堤体の一部と思われる。
上流側には、転落防止用の欄干が設置されており、下流側にはそれがない。
いずれにしても、この明り区間の両側の水深は、それほど深くはないのではないだろうか。

全体に泥が厚く堆積しているが、そのさらに底には、コンクリの路面が眠っているのだろう。
通路部分で特に目立つのは、等間隔に設置されている、瀟洒なデザインの電柱の存在である。
この物体と全く同じものを、私は以前に見たことがあるが、貴方は覚えてらっしゃるだろうか?


 これと同じ電柱は、前回の和賀計画時に、廃発電所の敷地内に見ている。
あの発電所と、このダムとは、無関係ではない。
それどころか、一体のものである。

このダムで取水した水は、前回にも途中まで探索している「水路隧道」や「サージタンク」を経て、あの「和賀川発電所」に運ばれたのである。
そこで、2本の落差水路と2機のタービンによる水力発電が行われていた。
これらは、一連の「和賀川発電所」の関連施設であり、同様の電柱が使用されていたとしても、全く不思議はないのである。

廃発電所とこの場所とでは、直線距離で約3kmの距離がある。
これはほとんどそのまま、失われた水路隧道の延長でもある。



 通路から上流方向を見渡す。

ここからの眺めは、湖の中央にいることを実感させてくれる。
実際に我々は、広い湖の中央付近にいた。
このダム遺構がなければ、いくら特別水位とはいえ、絶対に足だけで来られる場所ではない。

時限付きの眺めと思えば、尚更この景色が輝かしいものに感じられて、何一つ見落とすまいと私は全身目のようになって観察した。


 いよいよ、特別水位の湖上に目立つ存在となっていたダム堤体内部に進入だ。

建物は、堤体と一体化している。
沢山の窓が並んでいるが、デザイン的には凡庸で、何とも無骨な印象。
我々が今居る通路部分とは、急な階段で繋がっている。

また、水面ギリギリにアーチを落としている堤体下部も、やはり余計なものは一切無い、単純な構造となっている。
アーチは、かつて水門だったのだろうが、門は一つも残ってはいない。

これら建造物を施工・利用したのは、公共ではなく、東北電気製鉄という私企業であった。
昭和39年に湯田ダムによる水没に際しては、これら設備の欠損についての補償を県より受けている。


 大荒沢ダム 堤体内部
8:32


 さて、実は我々、この通路部分を淡々と歩いてきたわけではなかった。
写真の連中は、手前から順にくじ氏、ふみやん氏、HAMAMI氏であるが、別に度胸試しをしているわけではない。

こうしなければ、進んで来れなかった。

通路上は、進むほどに泥が厚く堆積しており、とても歩けなかった。
そこで、恐怖を感じないでもなかったが、僅かにコンクリが露出した欄干上を、躓きに気をつけて歩くことにしたのだった。
幸いにして水は濁っており、その深さを我々は意識せずに済んだ。

だが…、HAMAMI氏がぼそっと言った。

 「これが出来るなら、梁渡りしないでも渡れたって事だよな…。」

…見えないからこその恐怖もあるが、少なくともこの時は、
見えないからこそ、こんな場所を歩けたのだと思う。


 階段に立って、振り返る。

泥が厚く堆積し、なだらかな傾斜がついた浜のような通路部分。
奥に見える壁のような山は、峠山である。


それでは、これより水没状態から浮上した建造物への、山行が初進入である!


 内部は、予想以上にがらんとしていた。
建物自体が通路である。
やはり、床には厚く30cmほど泥が堆積しているが、よく固まっており歩くのに支障はない。

反対側の出口は、約100mほど向こうだ。
しっかりとしたコンクリの様子に、崩壊の不安は感じられず、安心して全員が内部へとなだれ込んだ。
このまま、反対側まで行ってみることにした。

水没後、この場所へ来た人間は他にいないだろうな…。

そんな思考実験が、私にかけがえのない満足を与えた。


 窓には、木枠が嵌め込まれていたが、戸は存在しなかった。
水中での40年間がどのような作用をコンクリートの建造物にもたらすのか、
それについて、私には確固たる知識はないが、地上にあったのとそれほど変化のない保存状態に見えた。

もちろん、内部の鉄筋などの劣化は、地上にあるよりも進んでいると想像できるが、40年程度の期間では、その違いが現れないのかも知れない。
おそらく、1ヶ月後に再びこれらが水中に帰った後、この時の体験の意味が改めて感じられるのだろう。
もう、永遠にここに立つことは出来まい。



 建物の床には、等間隔で小さな長方形の穴が空いていた。
穴は、そのまま足元の湖面に続いており、堆積した泥がちょうど擂鉢状に穴へと誘導するので、もう少し穴のサイズが大きければ、かなり恐い思いをしただろう。
穴のサイズは、人が落ちるようなものではなく、安心だ。

ちょうど穴が空いているのは、水門の真上の位置と思われた。
この部分には、水門を上下させるためのワイヤー、ないしそれに類するものが通っていたのだろう。
当然、いまは蛻の空となっている通路内部にも、巨大な水門昇降器械が所狭しと並んでいたことだろう。


 楽しそうな一行。

実際に楽しかった。

興奮しっぱなしだった。



 幾何学的な内部の様子。

当然の事ながら、泥の上には足跡一つ無い。

ここが水中にある普段の姿は全く想像に頼る以外にないのだが、薄暗い水中の、さらに深い深淵に渡されたこの通路の姿は、想像力を駆り立てずにはおかない。

左右に設けられた窓の、上流側から下流側へと、ゆったりと水が流れるのだろう。
魚達にとっては、格好の住処ともなっているかも知れない。


 付属施設と思われる建造物が、左岸の岸辺に半ば没している。
この建物については、残念ながら陸続きにはなく、進入探索は断念した。

なんというか、味が無さ過ぎて逆に印象に残るデザインだ。
無骨なデザインのダムに、付属設備たち。
その中にあって、やはり電柱のオシャレさだけが、浮いている気がする。

昭和16年の完成当時には、普通に流通していた電柱のデザインだったのだろうか?


 !

 な、なにか、石碑のようなものがある!
写真だと、まるで禿げた校長先生の胸像のようだが、そうではない。
シンプルな丸い石碑が見えていた。

普段は間違いなく水没している碑だ。
これは、ぜひ正面から拝んでみたい。

新しい探索目標が発見された。
これは、まったく予想外の発見である。

また、そこはもう、紛れもない左岸である。
我々は、橋もボートも用いずに、ダム湖を横断することに成功するのか?!


 左岸への上陸へは、まだもう一つだけ、障害があった。

この、泥の上を、どうやって岸まで歩くかだ。
その距離は、おおよそ20m。
泥は深く、しかもまだドロドロしている。
罅が入っていない場所は、まだ進入できる状況にはないと言うことを、これまでの泥との戯れで、私は覚えた。
そのセオリーから言っても、この先は、確実に身動き不能になる…。

かといって、今度は欄干もなく、当然迂回路もない。
これまでなのか…。
一応は陸続きだが、左岸へと我々が上陸することは、許されないのか…。





 次回は、知恵を振り絞って上陸へ!

 そして、幻の石碑にご対面?!







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