秋田県内に、初めて鉄道が敷設されたのは、明治32年6月のことであった。
東北縦断を目指し、青森、福島の両方から建設の始まった奥羽本線の、当時奥羽北線と呼ばれた青森からのレールが、ついに秋田県境の矢立峠を越え、現在の大館市北部にて陣場・白沢の二駅が営業を開始したのだ。
同年11月には、レールは大館駅にまで延びた。
矢立峠の歴史は古く、藩政時代には、東北有数の街道であった羽州街道が通っていた。
最高部の標高は300m弱しかなく、この峠は、まさしく白神山地と奥羽山脈の狭間に空いた、奇跡のような窓である。
現在ですら、秋田と青森を結ぶ道で通年交通が可能なのは、この矢立峠を通う国道7号線を除いては、遥か日本海岸の大間越し、それと東北自動車道しかないのだ。
しかし、標高こそ低いが、深い沢が複雑怪奇にからみ合い行く手を阻む上に、非常に多雨な一帯の積雪は3mを越え、ブナの森がどこまでも続く、まことに厳しい峠道だった。
この地を、7本の隧道と多くの橋で貫く線路は、明治38年の奥羽本線全通後、ますますその重要性を増すが、最大25パーミルという(1パーミル=1kmで1mの勾配)、鉄道にとっては非常に厳しい勾配が仇となり、昭和45年の複線化のおりに将来の電化も踏まえて、全長3180mの矢立トンネルを供する新線に切り替えられ、その役目を終えたのだった。
記録に残るものとしては秋田県内最古の廃隧道が、この矢立峠の旧線の隧道群なのだ。
隧道の現状を中心にレポートしたい。
なお、今回のレポートに関して、『鉄道廃線跡を歩く4(JTB刊)』や、TILL氏にご紹介いただいた『奥羽鐡道建設概要』内の記述を参考にしています。
奥羽本線は大館駅より先、白沢、陣場の二駅を県内に置く。 この白沢〜陣場間も、すでに峠の登りは始まっており、水田の目立つ景色の中、国道7号線と一緒に徐々に徐々に高度を上げてゆく。 正面に立ちはだかるのは、矢立峠の西方に聳える県境の山並み。 峠の鞍部は、手前の山並みに隠れて見えない。 |
白沢・陣場両駅の中間地点である松原地区では、鉄道の一風変わった線形が目を引く。 手前の水田の中をまっすぐ走る単線の線路が下り線(峠を登る方)で、奥のほうに新幹線のような高架を従えて見えるのが、上り線である。 この上り線は、昭和35年の複線化で誕生したものであるが、平地を避け、その上2404mもの松原トンネルが、不可解に山裾を抉っている。 既にあった、現在は下り線として利用されている線路より遠回りの、しかも莫大な建設費のかかる新線を、上り線として建設したことになる。 これ、なんと距離稼ぎだという。 距離を稼いで、勾配を抑えるという目的があったらしいのだ。 鉄道って、色々大変なのね…。 |
陣場には、旧線の陣場駅が置かれ、新線は元々の陣場駅のあった場所より僅か下流に新たに陣場駅を置いた。 人が住む集落としては、峠の最奥であり、数件の民家が寄り添うように密集している。 現在の陣場駅のすぐ北側で、旧線と新線が別れる。 新線は、この先2kmほど下内川の谷底付近を直線に走りそのまま矢立トンネル(3180m)で峠を越してしまう。 この先は、国道と旧線の跡が、寄り添うようにして峠に挑むのだ。 |
国道がいよいよ本格的な登りに入るその境目となる今度渡橋のすぐ脇に、早速旧線の遺構を発見! 上路プレートガーター橋と呼ばれる、鉄道では良く見られる構造の第二下内川橋梁だ。 橋台共々、廃線後30年以上経ている割には保存状況が良い。 うれしくなって、思わず…。 | |
思わず、渡ってしまいましたー! って言うのは嘘で、3mくらい試し渡りしてみただけ。 流石に50mくらいある橋を渡りきる勇気はないし、リスク高すぎ。 ただ、別に暴挙を誇りたい気持ちで踏み込んだわけじゃないのよ。 昔の私ならそうだったかもしれないけどね…。 ただ、廃道であれ、廃橋であれ、廃隧道であれ、元々が交通路な訳だから、交通してみたいという衝動が沸き起こるのです。 交通してみることが、現状を実感する最短の策だと思うわけ。 ま、好奇心のほうが強いっちゃ、そうかもしれないけど。 なんか、言い訳っぽいねー。 | |
国道の橋上から。 しっかりとした作りは、さすが元“本線”と感じさせる。 鉄道の廃橋がこのように残存しているケースは多くなく、うれしい発見だった。 前出の本を読む前に現地に立っているので、自分的には“再発見”ではないのだ。 さて、さらに進んでいこう。 |
今度渡橋の先で右に分岐した旧国道は、陣場の集落内を一車線の舗装路で通り抜け、そのまま峠の登りに入る。 旧線も、この旧国道に沿って走っていたが、痕跡は特にない。 1kmほどで再び現国道に合流するのだが、この合流点の少し陣場側、現道に架かる青いトラス橋がある。 一見川を渡る橋かと思われる上弦が弓なりになったやや特殊なトラス橋だが、かつて旧線はこの下をくぐり、この先しばらくは国道の左側に進路を取っていた。 国道が、一時改築を終えて陣場大橋が供用開始されたのは昭和41年であり、旧線がこの下を通ったのは、わずか5年足らずだったことになる。 現国道に合流し、さらに峠を目指す。 |
陣場大橋から1kmほどは、緩やかな勾配が続き、すぐ道路右脇にかつて旧線の通った盛土が残されている。 旧線はこの辺りが最も急な勾配で25パーミルあったという。 しかし、鉄道の感覚は自転車からは余りにかけ離れているといわざるを得ない。 こんなに緩やかな登りなのに…。 |
そして現れるのが、立派な橋台を残す「第一下内川橋梁」だ。 一軒宿の日景温泉へと至る林道が、川上側の橋台にあるアーチ状の通路をくぐっている。 「なるほど考えたな」と感心しそうだったが、じつは、このように橋台にトンネルが設けられている構造は、この矢立峠の旧線では至る所に見られる。 現に、写真には写っていないが、川下側の橋台も現存しており、そこにも同じ構造がある。 こちらは利用されておらず深い藪と土砂に埋もれていた。 |
第一下内川橋梁の先は一段と山が深くなり旧線は現国道から見えなくなる。 国道の左手100mほどの山中を切取で抜けている部分だが、春先といえども極めて叢化しており踏破は見合わせた。 そして、そう距離をおかずに、国道の橋の上から再び旧線の橋台が見える。 これは、大湯沢川橋梁と呼ばれたものだ。 旧線はこのすぐ先、第七矢立隧道に入っていた。 |
国道の勾配が最もきついのがこの辺であり、付近に迂回路のない秋田・青森の大動脈だけに、大小さまざまな自動車が唸りをあげて疾走してゆく。 特に大型車は排気ガスが凄い…、きつそうだ。 | |
先の地点では、国道と旧線との間が離れすぎており、また険しい斜面の為、その先にあるはずの第七矢立隧道の現状を確認することが出来なかった。 そこで、道路脇に小さな小川を従えた沢筋が旧線方向へ延びている地点を見つけ、ここから少し上流をさかのぼってみることに。 しかし、この残雪深い沢を腰まで埋まりながら、50mほどはさかのぼったのだが、そこには朽ちたコンクリートの構造物が一つ建っていただけで(橋台のようではなかった)、隧道はおろか、鉄道の痕跡は一切発見をみなかった。 帰宅後に知ったが、この第七矢立隧道は、昭和10年に開削されてしまい、とっくの昔に消滅していたのだとか。 旧線跡にたどり着けなかったのは遺憾だが、道理で見つからぬわけだ。 しかし、いずれにしても、地点から、次の地点までの状況は不明なままだ。 |
矢立峠の前後にはいくつもの温泉地が点在しているが、この矢立温泉は国道から非常に近いという交通の便も手伝ってか、一帯では最も繁盛していると思われる。 とはいっても、寂れた印象だが…。 この矢立温泉に分かれる道が旧国道であり、峠の直前で再び合流するまで別々の道になる。 旧線は旧国道に沿っており、ここから旧国道に分け入ることとする。 そして、忘れてはいけないのが、この分岐点のすぐ傍にある廃隧道である。 | |
旧国道の分岐点付近の石垣を登って、平らになった通路らしき部分を少し歩くと、隧道がある。 これが、第六矢立隧道である。 まるで古代文明の遺跡のように山中に鎮座まします様は、貫禄十分。 廃トンネルラッシュに、アドレナリン・脳汁完全開放の次回を、お楽しみに! |
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