現国道から残雪深い廃道を辿ること約二時間。
余りの荒廃ぶりにチャリすら途中で放棄し、単身となりながら、辛うじてたどり着いた栗子隧道。
そこで、私に課せられた最後の使命。
それは、
皆様へ、内部の現状をお伝えすることである!
<地図を表示する>
坑門の脇に設置された流水路の水は、本来は道の脇に流れなければならないのだろうが、堂々と路上に川をなし、最後の障害となっている。 しかし、長靴生活の長い私にとっては、全く動じるに値しない物である。 川を越え、ついにその内部が見えるであろう、校門前の深い残雪上へと、一歩また一歩と、進む。 隧道の内部はどうなっているのか?! 約四時間前に、山形側の閉塞点を目の当りにしていた私の興味は、もう、その一点に尽きた。 | |
扁額が、手に届きそうなほど近くにある。 坑門前の残雪は背丈よりも遥かに深く、現役当時も5月頃までは冬季閉鎖されていたと言うのも頷ける。 というか、それは冬季閉鎖ではなく、“春季”閉鎖では無いのかというのは、いらぬツッコミだろうか。 視線を下にやれば、いよいよ坑内が見える。 緊張の一瞬だ。 | |
坑内が見えたっ! でも、まだ分からない。 いや、実際に見た瞬間は分からなかったのだ。 黒い路面が奥まで続いているのは見て取れたが。 しかし、目が慣れてくると間も無く、 そこに鏡のような水面が広がっているのを、認めた。 | |
坑内は、完全に水没していた。 そして、意外なほど、荒廃は無く、 まるで、この泉によって保存されているのではないかと、全く根拠の無い錯覚を覚えたほど。 そして、美しい…。 こぼれる水滴のほかには坑内に音を成す物は無く、光の届かぬ奥の闇まで、どこまでも透き通った水面が続いている。 飲み込まれそうな、美しい眺めだった。 しかし美しい内部の様子に心を躍らせたのもつかの間、内部探索を断念せざるを得ないという、辛い現実を理解した。 残念ながら、この泉は深い。 どう見ても、水深は30cm以上あり、長靴など全く役に立たないだろう。 本当に、 吸い込まれそうだ…。 | |
って、 ほんとに吸い込まれてるし。俺。 当然、長靴など一瞬にして水没。 水温は非常に低く、一瞬にして両足がかじかんだ。 長靴、靴下、そしてズボンが水没。 ちょっと前まであんなに透き通っていた泉を、泥色に変えながら、ジャブジャブと、場違いな音を上げる醜い私。 醜いアヒルの子。 馬鹿だ。 俺は、なんて馬鹿なんだ! その事実を、寒さで痛む足にいくら痛感しても、吸い込まれてしまった後ではもう遅い。 ここが、民家の裏庭ならば別にかまわなかった! だが、この場所がどんな場所であるか、それを最も良く知っているはずの男が… やってしまった…。 | |
この写真を撮りながら、当然ファインダーの中にこれと同じ景色を眺めつつ、 生きて帰れるか…、ちょっとまじめに悩んでしまった。 今だから笑えるが、着替えも無いのにここで体をぬらすというのは、たとえ下半身だけといえ、かなり危険だったはずだ。 …蛇足だが、一応書かせてほしい。 この暴挙は、別にこのサイトのためにネタでやったわけではないです、念のため。 こういう男なんです。昔から。 馬鹿なんです。 ――チャリ馬鹿。 | |
水深は、安定して45cmほど。 舗装されているので、靴の下には平らな感触があるが、その上には泥が深く堆積しており、路面は全く見えない。 洞内は静かであり、所々から水滴が落ちているがたいした量ではない。 入り口に近い、日光が当る場所には綺麗な藻が発生しており、もし水流があれば毬藻が出来そうだ。 そして、せっかく「吸い込まれた」からには、その奥。 閉塞点が気になるのだが…。 | |
申し訳ないが、ここで限界。 なぜかっていえば、徐々に深くなってきたんですよ、奥に進むにつれ。 入り口から50mほどで、遂にパンツに手が…、いや水がかかりそうになったんで、 『これ以上は、マジ洒落になってない。 死んじゃう。』 と考えた次第。 断念です。 では、閉塞点はどうだったのかといえば、やはり途中で引き返しましたゆえ、確実なことはいえないのだが、 一応それらしい影は見えていたと思う。 最も再接近した場所から、内部を撮影した写真を、判別可能なギリギリまで拡大&明度アップさせた写真が、次の一枚。 | |
どうだろうか? 隧道の幅いっぱいに、なにやら土が山となっているのが見えるだろう。 距離的には、坑門から300mくらいと思われ、たぶん、あの少し奥こそが、閉塞点ではないかと思う。 はっきりいって、見ているうちは綺麗で良かったが、吸い込まれてしまってからはひたすらに苦痛だったので、これにて完全攻略と無理やり納得させて帰還の途に付いた。 これ以上は、ちょっと勘弁であった。 腰まで水に浸かってもよければ、たぶん閉塞点を目の当たりにすることもできたとは思うが…。 まあ、後悔が無いといえばウソになるが、何か一つくらい「やりのこし」があるというのも、またここに赴くきっかけにもなるし、良しとしましょう。 当分は…来ないと思うが。 | |
坑門まで生還。 恥ずかしながら、ここで自分撮り。 生きていることを、ささやかに実感してみる。 ポーズが死んでいるが、決してヤラセではない。 カメラを向けられたら、自然とこのポーズと表情になったのだ。 13時50分、栗子峠からの帰還を開始する。 その後、愛車と再開したのが、14時10分。 来たとき同様、残雪とアップダウンに苦しみながら、二ツ小屋隧道まで戻ったのが、14時43分。 万世大路との出会いである地点まで戻ったときには、隧道を経ってちょうど一時間がたっていた。 |
約3時間ぶりに、この分岐点まで戻ってきた。 時間的に余裕が無いので、このまま来た道を戻ったほうが懸命だとは思ったが、ここまで来たからには、あともう一歩万世大路を知っておきたいと踏みとどまり、この先も探索することにした。 しかし、本当に時間が無いので、「探索」というか、引き返しは許されない「通過」と考えたい。 だから、駆け足でレポートである。 この先は延々と現道との合流点まで下りのはずであり、うまくすれば10分ほどで通過できるだろう。 |
僅か50m、早速にして、なぜこの区間が早々に放棄され、来るときに辿ったスキー場跡の林道がアプローチに使われるようになったのかを知ることになった。 もう、道が無い。 かすかにあった轍も、あっけなくここで消えてしまった。 これでは、自動車はおろか、大きなバイクも通過できなさそうだ。 いきなりの大誤算である。 さらっと下って、現道に合流するという計画だったのだが…。 もう、やけくそになって、ここを突破。 |
これではまるで、私にチャリを棄てさせたあの地獄ゾーンの再来である。 それほどの荒廃である。 確かに道は延々に下りである。 しかし、大きな倒木がごろごろとしており、危なくてスピードが出せない。 また、道にはびこる若木の枝はしなやかで、何度と無く顔面を鞭打った。 こっちも負けじとチャリを操ったが、こんなところで万が一パンクでもしたら泣くに泣けないので、やはり慎重に倒木で停止する。 結果、ペースはあがらず、時間ばかりがどんどんと過ぎてゆく。 | |
ただ、嫌なことばかりでもない。 自然に帰って久しい道は、得も言われぬ心地よい空気を纏っていた。 もし、私に時間が沢山あったなら、ここで森林浴などしたら、どんなに気持ちよいだろうか。 ここは、廃道である。 それも、僅かといえ栗子隧道を目指す猛者たちに熱い視線を向けられることもある先ほどまでの廃道に比べ、ここは顧みられることの無い、忘れられた廃道である。 こういう場所も、私は好きだ。 万世大路という名には到底似つかわしくない、穏やかな斜陽を迎えている。 |
あたりにはブナを主体とした森がどこまでも広がっており、地形も比較的穏やかだ。 しかし道は、緩やかな勾配と広い幅員を維持する為なのか、何度と無く九十九折を描きつつ下って行く。 所々では、道は完全に森と一体化してしまっており、不明瞭となる。 わずか40年足らずで、これほどまでに森は快復するものなのか。 その疑問の答えは、多分こうだ。 技術的な制約から極力地形を改変せず、舗装すら施されなかった道だからこそ、役目を終えたら速やかに元の森へと還って行けるのだ。 巨費を投じ、森やそこに住む動物たちに人間様の慈悲を与えたもうた何処かの“エコロード”以上に、これこそが“エコロード”であるまいか。 | |
たしかに、心地よさはあるが、また一方で、一向に現れない終点。 すなわち、現国道との合流点に、焦りも感じていた。 |
コーナーの外側、ふと開けた視界の向こう、まるでハイウェイのようなアスファルトの帯が見えた。 普段は森の中で聴きたいとも思わない自動車の排気音にも、ホッとする。 直線距離にして200mほど離れた眼下に、現国道13号線が現れた。 ついに、長かった万世大路の攻略も、その終わりが近付いた。 | |
近くに見えても、なかなか合流しない。 下り坂もだいぶ緩やかになり、落ち葉が深く堆積した路面は、たとえ倒木などが無くても漕いで進むには大変な労力を要する。 額に再び汗がにじむ。 最後の最後まで、楽はさせてくれない。 | |
はじめて、この万世大路の旧道で見つけたガードレールである。 こんな当たり前の物が、ここに来るまでの、山形側・福島側、合計20km近い道程で、ただの一度も現れなかったというのは、驚きである。 しかしそういえば、橋の欄干を除いて路肩を守るものなど、何一つ無かった。 それが、昭和41年まで現役の国道13号線として、乗り合いバスも通う道だったというのだから、いまさらながら、驚きである。 | |
路傍の石垣は、もうこの道では見慣れた景色ではあるが…。 森は本来、私が考えている以上に強いものなのかもしれない。 自然破壊などといって、自然は脆弱であり簡単に形を変えられると思っているのは、実は驕りではないか。 人の一生よりも短い時間で、森はこのように、その領域を取り戻しているではないか。 たとえこれが、屈強なコンクリートであっても、それは自然を取り巻く時間の流れの中では、たいした違いにはなるまい。 人は、自然破壊を食い止める活動にかける労力を、生存してゆく為に必要な設備の保守に当てたほうが良いのではないか…? どうせ放っておいても自然は快復する。 人がいくら必死に自然を弄っても、その本質は曲げられないだろう。 万が一、人が己の行いの果てに滅びることがあったとして、そのとき人は「自然を侮り、自然を壊したがためにこうなった」と思うかもしれない。 だが、それはきっと違う。 人が滅びた先、いつか再び自然は元の調和を取り戻すだろう。 その再生力こそが、自然のパワーなのだ。 そんな大それたことを、柄にも無く考えてしまった。 自然は偉大なのだと。 |
忘れ去られたような旧道の真ん中に突如現れた石碑群。 これは、『殉職警察官之碑』であり、その建立にまつわる経緯はこうだ。 明治22年1月(万世大路開通後8年目だ)、福島市の飯坂警察署の巡査であった森元源吾は、護送任務の帰途において、この付近で猛吹雪に逢い遭難。 必死の捜索の甲斐なく、死体となって発見された。 この殉職を弔う為に石碑が建立されたのが、昭和33年。 その後昭和61年に、元々石碑のあった旧国道沿いが余りにも荒廃した為、現在地に移されたのだという。 その現在地も…、すっかり荒廃しているが…。 とりあえず、手を合わせ、先を急ぐ。 | |
その僅か100mほど先、万世大路として整備された峠越え区間の最後の橋梁である新沢橋がある。 渓谷を渡る立派なアーチ橋であり、現在唯一現国道からも見える旧道遺構らしい。 しかし、遠くから見ていくら優美な橋であっても、橋上の有様はご覧の通り。 凝った造型を見せる御影石の親柱も草木の生い茂るこれからの季節、人目に触れることもなくなるだろう。 | |
橋の上からの眺めが良い。 左手に険しい山並み…、越えてきた山々だ。 右手には、遠くに現道が白いアスファルトを覗かせている。 赤茶けたガードレールはどうも違和感がある。 親柱の造りとそぐわない感じがする。 これは、後補のものかもしれない。 | |
この橋の先、沿線では珍しいといえる大規模な崩落に道が消えていた。 背丈よりもうずたかく積もった瓦礫にも木々が根付き、道は完全にその痕跡を失っていた。 そう長い区間ではなかったが、ここばかりは道なき道を自分で拓き進む必要があった。 もう、終わりはすぐそこだ。 チャリを引っ張り上げる腕にも力がこもる。 |
ついに、その時が来た。 現道に阻まれ道が消えている。 地形的には、まだ現道との間には5mほどの比高があるが、いずれにしても、この先に辿るべき道は無い。 終了だ。 福島側は、ホント想像以上に厳しい道であった。 この地点から峠の隧道まで、約11km。 現道から峠、そして現道に戻るまでに掛かった時間は、3時間30分にも及んだ。 これと、山形側の探索だけで、本当に丸一日掛かってしまった。 この探索によって、万世大路がもの凄い難所であったことが、良く分かった。 この地に道を通すことが県の発展に繋がると考え実行した、県令三島の行動力にも感服した。 無言で山を削り、穴を穿ち、橋を架けた工事夫達の誇りに敬意を感じた。 この道を駆けた、幾千幾万という人々の苦労と喜びを想像すると、胸が熱くなった。 それだけじゃない。 森と道とのあるべき姿、調和というものも知った。 | |
遥かの山中にあった隧道の姿…、いくつもの橋たち。 いまでも目を瞑れば、静かに佇むその姿が、鮮明に蘇る。 色々な景色を見せ、色々な困難を与え、色々なことを考えさせてくれた万世大路は、 長くて険しくて、とびきり古くて、でもそれだけじゃかった。 | |
ならば認めよう。 万世大路は、 最強の道のひとつである!! | |
完 なんてカッコをつけてみても、実際現道に戻ってきて始めにしたことは、バケツとなった長靴を脱ぎ、靴下をアスファルトで干すということでした。
でも、それが山チャリぞ! でも、ほんと、足冷たかったー。 |