道路レポート  
旧国道13号線 栗子峠 “万世大路” 
山形側 その3
2003.5.6



 明治14年の開削以来今日に至るまで、山形と福島を結ぶ重要な国道である栗子峠。
今でこそ長大トンネルのリレーであっという間に通り過ぎることが出来るが、万世大路と呼ばれた旧道は、海抜800mを優に超える山岳道路であった。

 もはや訪れる者も殆ど無い峠の隧道に、残雪を踏みしめ、今また一人の男がたどり着いた。
しかも、その男はそれだけに飽き足らなかった。
それは、隧道の貫通を志す者だった。

<地図を表示する>

 
栗子隧道山形側坑門
2003.5.1 9:38
 旧道分岐点から1時間30分余りを掛けたどり着いた、栗子隧道山形側坑門。
そして、事前に得ていた情報の通り、そこには2本の坑門が、仲良く並んで口を開けていた。
写真では、残雪のせいでホワイトバランスが崩れ(←言い訳)見難くなってしまっているが、左に写る石組の坑門、そして右の岩肌にぽっかりと口を開けた“穴”が、映っている。
この2本の隧道は、左から順に栗子隧道と、栗子山隧道という。
いずれも、万世大路に供された、昭和(2代目)と、明治(初代)の県境越え隧道である。

 これこそは、苦労してここにたどり着いた者への最高の褒美だろう。
昭和と明治の隧道を、一度に堪能出来ようとは!

 はやる気持ちを抑え、まずはこの坑門前の空気を存分に味わう。
この、獲物を前に舌なめずりするような時間が、誰にも邪魔されない一人山チャリの醍醐味だ。

 まずは、かつて徒歩でここにたどり着いた旅人がそうしたように、これまでの道を振り返り、山形の景色に別れを告げなければ。
 ちなみに、写真にはこれまで登ってきた道が、残雪の連なりとして綺麗に写っている。
九十九折になった道筋がお分かりいただけよう。

 もう一枚。

 一帯の主峰である栗子山(1217m)である。
雲ひとつ無い山上の空は穏やかそうに見えるが、葉を落とした木々の間を勢い良く吹き抜ける風が、海鳴りの様に轟いている。
この日の強烈な西風は、奥羽山脈を貫通し、太平洋岸に噴き出した。

 一人立ちすくみ、しばし呆然と眺めた。
凄いところに来たのだな。
そう思った。

 さて、時間は無尽蔵ではない。
むしろ、今私がいる場所を考えたら、のんびりすることは命にかかわる。
次の行動に移ろう。
 まずは、隧道探索モードに切り替えだ。
すでに長靴は着用していたので、灯り関係を装備した。
お馴染みの懐中電灯と、今回新規投入となったヘッドライトである。
近所のホームセンターにて1980円で売っていたモノだ。
そして、最後に軍手を身に着け、いざ、

 穴さらねが!

栗子山隧道 (初代)
9:48
 坑門が存在しないまさに、穴である。
その穴の前には、ひときわ高く吹き溜まりが形成されていた。
ちなみに、自転車は置いて探索することにした。

 この栗子山隧道は、明治9年から13年にかけて施工されたもので、当時日本最長の隧道。
その延長は866m。
明治維新の後、初代山形県令となった三島通庸みちつねが、交通体系の整備こそが県の発展に繋がるという信念の元、世論の反対を押し切って貫通させた隧道だ。
その施工においては、従来の手掘りに加え、当時まだ日本に3台しかなかったという、アメリカ製の掘削機械が導入された。
さらには、土木先進国であるオランダ人の技師を招いて、なおも4年を要する難工事であった。

 遂に寸分の狂いもなく貫通した隧道。
それは人類史上初めて、奥羽山脈が貫通した瞬間だった。
そして翌年の開通式典にて、異例にも明治天皇より賜ったのが「万世大路」の名だ。

 約半世紀後に、その役目は昭和の隧道に移り、さらに四半世紀の後、遥か地中を穿つ栗子ハイウェイへと受け継がれてゆく。




 そしてこれが、初代・栗子山隧道の内部である。
坑門から10mほどの場所が、繰り返された崩落による物か、まるで丘のように高くなっていた。
そして、その奥の空間が、強烈に私を刺激してきた。
懐中電灯とヘッドランプのスイッチをオンにすると、躊躇なく、踏み出した。
素掘りのままの内壁の所々からは、時折水滴が落ち、岩肌に弾けた。
しかし、洞内は静寂のままであった。

 一歩一歩進んでいくと、その断面の意外な大きさに驚く。
竣工当時はまだ自動車など無かったし、徒歩や馬車の往来に必要な規格というのなら、これほどの断面が必要だったのだろうか?
残念ながら、この隧道の現役当時の姿という物は、写真としては残っていないようである。
しかし、隧道を描いたという絵は残されており、そこに描かれた姿は、断面の形など、今日の姿に近いものがある。
ただ通れればよいというレベルではなく、快適に、そして高速に通れる道の必要を、既に三島は考えていたのだろうか。

 さらに進むと、いよいよ入り口の光は弱くなり、暗然たる洞内のなか自身の息遣いだけが耳に届く。
足元には、崩れ落ちた瓦礫に混じり、太い支保工らしい材木も散乱している。
ただの一本として地面に立つ物は無く、流れ去った余りに長い時間を感じさせた。
しかし、奇跡なのか、それとも施工技術の妙なのか、凄まじいばかりの内壁剥離のわりに、決定的な崩落はない。
眼前には広い空洞が、なおも続いていた。
 この隧道、客観的に見れば、おそろしい場所なのだろうか?
これまで私が潜ってきた廃隧道のどれと比較しても、その規模、歴史、そして現地までの険しさ。
それら全ての面で上を行っていると思える。
しかし、私がこの探索時に感じた恐怖は、それほど大きな物ではなかった。
興奮していたからなのだろうか?
しかし、坑門での興奮が、入った途端に冷めるような穴もあった。(どことは言わないが、お分かりだろう)

 この栗子山隧道が、私にとって恐怖の対象でない事に理由があるとすれば、…。

 良く素性が知れているということかもしれない。
いつ、誰が、なぜ、どのようにして掘ったのか、どんなふうにして利用され、そして廃れていったのか。
それらの情報が決定的に不足している隧道、得体の知れない隧道こそが怖いものなのかもしれない。

 洞口から約50m。
何とも言えないいびつな断面が良く分かる。


さらに奥へと進もうとした私の目に、異様なものが映った。


栗子山隧道 閉塞点
9:51
 突如、左手側の内壁に変化が現れた。
そこには、まるで巨大な土管の一部のようなコンクリートの塊が、それまでの素掘りの壁を突き破り出現していた。
それは、足元から、3mほど頭上の天井まで緩やかな円弧を描きながら続いており、
まるで、古代遺跡の発掘現場のような景色だ。

 これが一体何なのか、突拍子も無い出現に呆気をとられ、しばし分からなかった。
しかし、さらに奥へ進むうちに、この物体の正体が判明した。

 この地点こそが、明治の隧道と、昭和の隧道の接点だった。
これは、『山形の廃道』サイトなどで事前に得ていた、明治の隧道と昭和の隧道は内部で衝突しているという情報を裏付ける、決定的な光景だ。
この光景には、さすがに興奮した!

 普段見ることの出来ない隧道内壁を外側から見ているのだ。
そこは、まさか見られるという予定は無かったのか、何の飾り気も無い。
ただただ、地下水によって赤茶に変色したコンクリートが横たわり、やがて隧道の進路を奪っていた。

 もう、これ以上は進みようが無い。

 そしてこれが、好奇心から人一人入れるぎりぎり限界の狭まりに潜って撮影した、入り口方向の景色。

 それにしても、ヘッドライトは大変に便利だ。
カメラを構えつつも辺りに一定の灯りが確保されるというのは安心感がある。
そのせいで懐中電灯はサブに徹した。
あと、この隧道に関してだけ言えば、長靴も不要だ。
足場は悪いが水が溜まるほど平坦な場所は無く、また漏水は思っていたほどではない。


 今来た洞内を戻る。
距離は無いので、あっという間に坑門にたどり着いた。
 これだけ派手に崩壊しているので、万が一にも探索の衝撃で大規模な崩落が発生する危険性は捨てきれないが、私は余りそんな危険を感じなかった。
内部の瓦礫には安定感というか落ち着いた雰囲気があったし、入り口付近の瓦礫にはびっしりとコケが生えていた。
また、論理的にも、廃止後1ヶ月目と70年目とでは、意外なことに後者のほうが、さらに今後70年間存続できる可能性が高いといえる。
逆説的だが、時間を経過してなお存続する隧道のほうが、安全だといえそうだ。(信じがたい)


 もちろん、立ち入るのは自己責(言ってて面白くないので、以下略。言いたい事は、お分かりですよね。)


   栗子山隧道

竣工年度 1880年  廃止年度 1936年  
延長 約 866m   幅員   約4.0m    高さ  約3.0m

竣工当時日本最長だった初代栗子越えの隧道。
昭和11年、すぐ隣に新設された二代目の隧道に進路を譲り閉塞した。
現在でも坑門から50mほどにある閉塞点まで、立ち入りは可能。

続けて、
2代目隧道!


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