これが、万世大路である。
と言っても、信じてもらえないかも(笑)
廃道でもなければ山道でさえない普通の道だが、ここもれっきとした万世大路の一部であり、明治の国道である。
現在は見ての通り、この円部集落の生活道路として使われており、現在の国道は集落の山側を掠めるように通過している。
ここが旧道となったのは意外に最近で、昭和41年のことである。
万世大路を一挙に過去のものと変えた「栗子ハイウェイ」(現道)の開通により、この集落にも、明治以前の静けさがだいぶ戻ったようだ。
だが、ここが確かに万世大路であるという証拠の品が、ここには残っている。
静かな旧道の脇、民家の生け垣の中に道路に面して置かれている一柱の石碑。
その正体は…。
この石碑。
見たことがないだろうか?
万世大路を実際に歩いた人ならば、殆どの人が目にしていると思う。
二ツ小屋隧道の福島側坑口の前にある…。 そう。
鳳駕駐蹕之蹟碑
「ほうがちゅうひつのせき」と読む。
これと全く同じ形と文を持つ石碑が、二ツ小屋隧道の前にも立っている。
側面には、「明治十四年十月三日 御通輦」と刻まれている。
この碑は、明治天皇のご巡幸を記念して立てられたものであり、碑に記されているとおり、明治14年10月3日、明治天皇は二度目の東北巡幸の帰り道で、この万世大路を通過している。
「鳳駕」とは天皇の乗り物で、「輦」というのも同じだ。
そして、この巡幸のあった日、栗子隧道の米沢側坑口前にて午前10時半から正午まで、明治天皇や三島通庸臨席のもとに、万世大路の開通式典が行われたのである。
万世大路が世に産み落とされた、その記念すべき日の出来事だ。
この日の巡幸の行程は米沢から福島までで、途中数ヶ所で輦を停めて小休憩をしている。
そのうちの一カ所がこの円部であり、あの二ツ小屋隧道福島口であった。
まさに、万世大路の、万世なる記念の碑といえるものなのである。
《現在地》
旧道は円部集落の西側で現道に一旦合流する。
すると、現道の行く手にはすぐに高平トンネルが口を開けているのだが、旧道はこの手前の築堤の下に現れる。
当然、ここから先は車は入れない。
築堤を下りて、旧道へ行ってみる。
なお、目の前の高平トンネルは、昭和35年に「栗子ハイウェイ」工事の最初の着工地となったところで、全長406mのトンネルが昭和37年3月に竣工している。(通行開始は昭和41年より)
斜面を下りると、そこには道形がはっきりと残っている。
ここを、昭和41年までは通行していた。
明治以来ずっと。
写真は振り返って福島側を撮影している。
この先の高平隧道の跡地はあるが、坑口跡地まで250mほどだ。
道はかなり荒れており、幅5mほどの路盤の大半が堆積した土砂で埋まって傾斜している。
もともと未舗装だったらしく、既に轍は埋もれて見えなくなっている。
左手は小川(これは川の名前)が深い谷を作っており、谷底との高低差は40mほどもある。
思わずガッ ツポーズ
知られざる万世大路。
そんな言葉が脳裏をよぎる。
コンクリートの片桟橋で無理矢理拡幅された廃車道が、乾いた岩場に続いている。
良い景色だ。
さらに進むと、相変わらず険しい崖が続いているが、そこにガードレール代わりのような落石防止ネットが現れた。
これは珍しい景色!
だが、よく考えてみると、これが現役当時の設備であったとは思えない。
こんなものを設置してしまえば、落石が路面に堆積してしまいメンテナンスが大変だったはずだ。
この落石防止ネットは、おそらく廃止後に設置されたものなのだ。
高平隧道の喪失とともに。
そして廃道の250mをクリアすると、目の前がいきなり明るくなる。
続いてきた路盤も、突如、うずたかい落石の山に埋もれて消える。
そして、この小山を上り詰めると…。
隧道どころか、山なんてどこにもない!!
哀れ、高平隧道消滅の現場である。
全くとりつく島もないので、今度は反対側の坑口があった地点へと回り込んでみる。
《現在地》
現道の高平トンネル米沢側坑口である。
字名は円部から杉の平に移っている。
この手前に、旧道へ続く脇道がある。
なお、この景色を見た時点で、察しの良い方ならば旧高平隧道がなぜ消滅したのかが分かるだろう。
脇道に右折すると、そこは現役の採石場の構内である。
その山手は、数え切れないほどの段をカットされた断崖が、その異様な姿を晒しており、「旧高平隧道の生存は絶望。」と訴えてくる。
この構内を横切ると、そこに旧道、すなわち万世大路が横切っている。
ここからが、今年撮影した写真である。(最初の4枚を除くここまでの写真は全て03年に撮影したものでした)
車が向いている方向が、万世大路の米沢側進路である。
そして、高平隧道は手前にあった。
そこは採石場の敷地内だが、進めるところまで行ってみよう。
採石場によって丸ごと削り取られてしまった山に隧道はあった。
地図によれば、米沢側の坑口はこのすぐ傍にあったはずだが、まるっきり痕跡がない。
山が無くなっているを通り越し、そこは谷になってしまっているのだ。
隧道跡地の全景を見るべく、写真左の黄色いマークを付けた地点まで上ってみた。
まるっきり変化してしまった地形。
赤いラインで地形の輪郭を示したが、点線の部分が本来の山の形だ。
黄色い人物の先、深さ20mほどの谷が出来ているが、これは地形図にないもので、近年さらに掘り下げられてしまったのだろう。
そして、私はここで気になる地形を発見した。
或いは、そこは隧道の痕跡であるのかも知れない。
分かりにくくて申し訳ないのだが、これ以上近づきようがないので勘弁して欲しい。
これは上の写真の一部を拡大したものだが、遠方に矩形に窪んだ部分が確認できる。
そのさらに向こうに本来の地山の断片斜面があることから、あの窪みこそが、開削されて見る影もなくなった隧道の跡地という可能性がある。
位置的には、十分あり得るところだ。
画像にカーソルをあわせると、想像される隧道と道路の位置を表示する。
なお、坑口手前は谷を跨ぐように見えるが、この谷自体は採石による人工的な地形であろう。
なお、この旧高平隧道だが、全長は77.2間(約139m)の掘削に3年を要する、万世大路でも有数の難工事であったと伝えられている。
明治9年に、地元のある下請会社の請負にて着工しているのだが、地質が悪く思うように掘削できず、何とこの下請会社は県に対し工事の返上を請願したのである。
そんなことがあったりして工事は長く中断し、完成したのは13年のことであった。
完成した隧道は、栗子隧道や二ツ小屋隧道と同じ幅3間高さ2間の素堀であったが、昭和初期の栗子峠における一大改良工事に合わせ、拡幅やコンクリートによる巻き立てなどが施工されたようである。
そして、栗子ハイウェイ完成まで使われていた。
いまも、その当時の旧高平隧道の写真は、書籍『語り継ぐ道づくり(東北建設協会編)』などに見ることが出来る。
次回は、その所在が謎に包まれていた「大桁隧道」の跡地を紹介する。