中央自動車道 旧道  後編

所在地 山梨県上野原市 
公開日 2008. 1.18
探索日 2007. 1. 3

 日本を支えたモノを見る

 廃高速を実際に走ってみる


2008/1/3 10:57 

 初めて訪れる廃高速道路の物珍しさにより、なかなか入口付近から奥へ立ち入ることをしなかったが、そろそろ実際にこの路盤の跡を走ってみよう。


 新旧の高速、合計10車線分の路盤に挟まれた白頭神社を後に、愛車に跨って大月・名古屋方面への西進を開始する。
ときは正月の第三日、一般に祝日ではあるが、わざわざこんな日にコタツを抜け出して、冷たいアスファルトの上を訪れる同志も無いようだ。
凧揚げ・はねつき・ストリートファイトなんかをするにも絶好の広場と見える旧路盤だが、まさに車亡き後何も残らなかったという、高速の悲哀をそのまま体現している。

 まあ、一応立入禁止なので当たり前と言えば当たり前なのだが。
4車線のうち、中央分離帯を乗り越えて2.5車線分までが柵に閉ざされ、二重の立入禁止となっている。




 さすがにこの2度目の柵は突破する気になれなかった。
わざわざそれをしなくても、残された1.5車線で路盤を辿れることもあったが、なにより新幹線用地と高速道路用地だけは不可侵だという観念が、こんな私にも備わっているのだ。
柵の所々には、「日本道路公団」の文字を「東日本高速道路」のシールで隠した「立入禁止」の看板が取り付けられており、法による強い睨みを効かせている。



 当然、その走行感触に注目したいところだ。

なにせ、高速道路の路盤をチャリで走るのは初めての経験である。(随分昔に開通直後の秋田自動車道のPAにチャリで進入した前科はあるが、本線ではない)


 で、実際の走行感だが…。

愛車の換装スリックタイヤの感触は……

 普通ですねー。(笑)

普通の、よく整った舗装路である。
まあ、時速20kmやそこらでは、高速道路を“体感”するのは難しいのだろう。




 さらに進むと、残された路盤の路肩に、高速道路上では見慣れた標識が現れた。
「この先 急カーブ」とあるが、それは高速で走る車にとっての急カーブなのであって、歩行者、自転車から見れば大変にゆったりしたものに過ぎない。
立ち止まって眺めることの少ない高速道路の線形というものを、こうやって実感できるだけでも来る甲斐はある。
高速運転の特性を理解するための教訓として、自動車教習所のプランに加えても良いくらいだ(笑)。



 これが「急カーブ」であると、誰に理解できようか。

私には、直線を軸に軽いうねりが右、左と連続しているようにしか見えない。
だが、現役当時にはこのカーブが“魔のS字”として恐れられ、実際に事故の多発ゾーンであったという。
そして最初に掲示した地図でも確かめられるが、この破却された区間というのは、全体が5つのカーブの連続体であった。S字カーブの2連続と言ってもいい。



 対する改良後の現道は、5つのカーブは3つに減り、全体で一つのS字カーブとなった。
そして、設計速度自体は変わらぬ80kmというが、もはやそれは連続したカーブとも取れぬような壮大な線形となっている。
改良の実は確実に挙がっているようで、この区間の事故は減少したようだ。

 写真は、新旧道がもっとも離れる部分。
両者の間には、切り取られた山か盛り土か分からぬ、無惨な丘が取りのこされており、路上の高構造物のみ見通せる。




 柵越しに見る、下り2車線+上り0.5車線。
この柵のせいで、せっかく前後の区間は2車線の新生車道として生まれ変わりつつあるのに、ここだけは1車線である。改めて1車線の道路として路肩の白線が敷かれてもいる。
この柵はもう少し奥へ行って貰いたいが、ともかく現在1kmほど北寄りを平行する県道30号は屈曲の道であるので、この一連の側道をバイパスに利用できれば利便は向上しよう。

 なお、柵の内側もただの休遊地ではなく、高速関係の資材置き場として利用されているようでもある。




 さらに進むと、またも外部からの接続路が登ってきて一つになる。
旧路盤も取り壊され、2車線の新しい路面に組み替えられていた。
ここでの注目は、高速道路の舗装の“厚み”を目視できることだ。



 高速道路の安全性を左右する最大要素の一つが線形ならば、もう一つは路盤の出来であるという。
ここにその断面を観察できる、明らかに通常の舗装よりも“硬げ”な舗装は、高速走行と大量通行の絶え間ない衝撃、暴力に長期間耐えながら、かつ走行性(快適性・安全性)の高い舗装として、高速道路で愛用され続けてきた「密粒度アスファルト舗装」である。
近年ではさらに水捌けなどの改善された高機能舗装が浸透しつつあるのだが、アスファルトの表層面だけでも厚さ30cmを超える事が観察出来るこの舗装は、大袈裟でなく、日本の屋台骨を支え続けたものといえるだろう。



 「相模湖17」 は、中央道の成長の証しを留める生き証人




 ごくごく新しげな道が、高速への流入路を彷彿とさせる形で本線に対し鋭角に合流してくる。
こんな形の合流だが、流入路側から見て左折禁止ではないらしい。
現状では本線側にバリケードがあって左折は出来ないが。
そして、このバリケードの出現で本線上に一つの閉塞区間が成立したことになる。

 戯れに、この流入路から流出してみる。


 が、 この道もまた塞がれていた。

一体、この道の周りには何箇所のバリケードが設けられているのか。

ともかく、脇が甘いので外へ出てみよう。

ここからもう少し下ると、突き当たりのT字路になっており、左は県道方向へ、右は…



 この「相模湖17」のプレートが付けられた暗渠となる。
まずは旧道、そして連続して現道を、結構な上り勾配のまま潜っていく。
両方あわせると結構長いが、途中に短い明かり区間がある。
ここは現役の道で、私がこうしている間にも、勢いよく軽トラが登っていった。

 旧道の暗渠には、中央部分にご覧のような不連続部分が存在する。
ちょうど上り線と下り線の境目の位置にあたる。ただの継ぎ目ではなく、この前後で勾配も少し変化する。
隣接する現道の暗渠は6車線分あるのでさらに長いが、このような継ぎ目はない。

この継ぎ目こそ、当初の中央道がわずか2車線のみの対面通行にて開通した事実を示すものである。



 この写真は、昭和45年に発行された『中央高速道路工事誌(日本道路公団編)』に掲載されている、開通当時(昭和44年)の上野原〜大月IC間の光景である。

見て欲しい。
「本当にこれが高速道路?」と問いたくなるような景色を。
間違いなく、これが中央高速道路であった。
先に開通した東名高速道路が当初から4車線であったのに対し、建設費圧縮のため暫定2車線で開業した中央道(八王子〜大月〜富士吉田が暫定2車線であった)は、日本で初めての上下線分離のない高速道路となった。
これでも時速80kmの走行が可能であったが、対向車線を利用しての追い越しも可能であったことから痛ましい正面衝突事故が絶えず、“高速道路”の名称が制限速度以上の高速度走行を助長しているとの議論も起き、この後の高速道路は“自動車道”と呼ばれるようになった経緯がある。

 残念ながら手元の資料からはいつ4車線化が完了したのかは分からなかったが、やがて大月から名古屋(小牧JCT)まで繋がるようになって(全線開通は昭和57年)、本来設計の4車線となったものであろう。





 「相模湖17」で引き返し、本線へと戻った。





 路傍に残ったままの、非常電話の在処を伝える標識。

実際に300m先に電話機は存在しなかった。



 柵は中央分離帯まで後退し、当初の上り線2車線が新たな路盤を手にしていた。
先ほどまでの狭い区間よりも舗装が新しく見えるのは、一般道路として再畳築しているからだ。
異常に広い路肩の空き地に、高速から一般道に変貌を遂げた余剰スペックが垣間見られる。
また、ガードレールも高速道路時代のものを再利用しているようである。




 この辺りは、接続部分を除けば旧道と新道がもっとも近接している場所であり、空中写真でも新旧10車線が並んでいるように見える。
このうち、南側6車線が現道で、2車線が旧道跡の未利用地、そして柵を経て残る2車線が再舗装された側道(現在地)となる。

ここの眺めは、なかなかに爽快である。
柵がなければ、なお良かった。




 柵越しに前方を眺めると、再び現道と旧道が二手に離れていくのが見て取れた。
ここからが、後半のS字カーブとなる。

 そして、ここには橋が架かっている。
そのことに気付いたのは、実際に橋上に差し掛かり、ガードレールの向こうに法面が見えなくなった後だったが。



 「長峰橋」で 日本の流通を支えたモノを見る 触れる


 橋である。
これが、廃止区間内では唯一の橋であり、名前は長峰橋ということが銘板から確かめられた。
地形図上では特に下に川はなく、平行する現道にも橋は無いので、一種の桟橋なのだろう。
道路橋にありがちな路面の継ぎ目も見られず、親柱も無いし、欄干も他のガードレールと何も違わないので、高速走行中は橋の存在に気付かなかったかもしれない。




 橋の袂の一隅に、独特の取り付け方をされた銘板が存在していた。
これを我々一般人がこうやってマジマジ見ることが出来るのも、現役中には有り得なかったことで、そう思うとことさら貴重な存在に見える。



1968年8月
日本道路公団建造
鋼示(1964)一等橋
施工 株式会社 大林組

 この橋が、“初めからの橋”だったことが分かる。
竣工年は昭和43年を示しているのだから、間違いない。下り車線側の橋が後から継ぎ足されたのだろう。




 …ああ。 

なんだか、この橋は素敵だ。


 なにか。

もっと、この橋に“近づく”方法は無いものだろうか。


もっと、こいつのことが、深く知りたい。




 そうだ! 

こいつで…
橋の裏側に行ってみよう…。




 現道から見ればまるで身投げ。

そう見えたに違いない。


私は、ガードレールを跨ぎ、橋の裏側へ通じるタラップに身を委ねたのである。

そして期待通り、私は間もなく、まだ見ぬ世界へと招待された。




 タラップは、橋脚の列に沿って下り線の下の方まで続いていた。
高速道路や廃道といった特殊な事例を除いても、これまで橋の“この位置”に足を踏み入れたことはなく、興奮する。
いままで、ここに入ってみたいという気になったことはなかったのだが、なぜか今日はすんなりと。

 タラップは狭いが、手すりもしっかり完備しており、シースルーゆえ高所恐怖症の人には向かないものの、特に危険を感じはしない。




 ここが、上り線と下り線の橋の継ぎ目の真下である。
右が昭和44年の暫定2車線開通当初の橋で、左はその数年後に建設された橋である。
構造は全く同じに見える。

鉄筋コンクリート製の重厚な作りである橋脚と橋桁の間には、大きな隙間が設けられ、両者を緩衝しつつ繋いでいるのは、橋脚ごとに数基ずつ設けられた“支承”というパーツである。




 これがその支承のうちの一基。(隣にもう一基写っている)
大きさの比較のために、左下に携帯電話を置いている。
外見的には金属を組み合わせた塊にしか見えないが、走行の衝撃を和らげて橋脚に伝え、また地震による橋桁の揺れを吸収する役目も果たしていた。

 この支承の群れたちが、昭和44年から平成13年までの32年間、日本の東西交通の一翼を担ったことになる。
日平均4万台以上の車両が、この上を駆け抜け続けた。
そして、もう二度と本来の力を発揮する必要は無かろう。それは、哀れとも思える。


 もう一つ。

橋を構成する留め具の一つである、巨大なナット。
大人の掌でも覆いきれない大きさだ。
人の手に余る構造物を、人が作り上げたという、その象徴的な絵柄である。

この後、私は引き返してもとの路面に戻った。
下り線側には梯子が無く、登りようがなかったのだった。




 廃高速の終点へ


 この先、路肩にいくつかの標識が残存しているのを見ることが出来る。
もとは上り車線に対する標識を逆送しながら探しているわけで、発見の都度正面に向き直る必要があったが、逆にそれが何の標識なのかを振り返って確かめる楽しさもあった。

 とりあえず、この辺りは東京側に向かって長い下り坂となってるようで、速度超過に注意を呼びかける標識が見られた。




 また、高速道路ならではの標識として、非常駐車帯の位置を示す標識もあった。
ただし、駐車帯自体は既に判然としないほど藪と一体化していた。
ガードレールが途切れている箇所がそれだと推測することは出来るのだが。



 さらに進むと、行く手に跨道橋が現れた。
橋は、この旧道と現高速道路とを連続して渡っており、他では見られない景観を作り出している。

相変わらず路上に動くものはなく、最初のバリケードから1kmほど来ているが、一人として人に会わない。




 跨道橋には高速から見えるように銘板が付けられており、「栗原橋」という名前を知った。

この上に行けば良い眺めを得られそうだが、当然のことながら、高速から容易にアクセス出来るルートがあろうはずもない。
両者は本来、余りに格の違う存在であったのだ。




 橋の上へ登るための方策を考えながらさらに進んでいくと、行く手に三度本線を塞ぐバリケードが見えてきた。
そして、栗原橋へのアクセスもここから右折すれば可能なようだ。

 また、ずっと先に、巨大な電波塔らしき建物などが丘の上に見え始めた。
地図で確かめると、それは下り線用の談合坂サービスエリアであるようだ。
このサービスエリアもまた、この廃道を産み出した一連の改良によって新設されたものである。




 直進する本線も、右に分かれる連絡路も、ともにバリケードで塞がれていた。
特に、本線上のそれは当分動かすつもりはないようだ。
右折すれば栗原橋へ上がれる、取りあえずここを飛ばして間近となった終点へ向かうことにした。


 バリケードを過ぎると、路面の状況が一変した。
それまでの新しい舗装ではなく、白線も消えた。
そして、4度目のバリケードが現れる。
また、これまで柵で隔てられていた2車線は、強化プラスチック製らしい半透明の柵の向こう側に消えた。

次に気付いたときにはもう、向こう側は、さっきまでの黄昏れた路面ではなくなっていた。
それは、暴風のような時速100kmの世界であった。




 薄板一枚の向こう側を、猛スピードの自動車が吹っ飛んでいる。
大型車が通るときには、柵が揺れるような錯覚を覚えるほどだ。
これだけ高速の本線に近い位置を歩けるのも、結構珍しいかも知れない。
柵が透明なので迫力がある。



 完全に廃高速上をなぞる区間が終わったことを理解した。
既に新旧の高速は合流してしまったようで、妙に日焼けしたアスファルトのこの道は徐々に右に逸れ、同時に築堤上から下りはじめる。
高速道路との特権的親近関係は終わった。
行く手は広々と視界が開け、眼下にちらほらと民家が見える。
高速がどれ程高い位置を通っていたのかが知れる。

 そして、下りの途中で5回目となるバリケードが現れた。
半分崩壊しており、バリケードとしての役を成していない。




 11:14、上野原市野田尻の集落に到着。
一連の廃高速道路跡と、跡地利用として作られつつある側道の旅は、ここに終わる。
このまま高速の築堤下を300mほど直進すれば、県道30号に合流できるようだ。

 私はここで引き返した。




 約1.4kmほどの廃高速道路。
図中の赤い実線部分が、実際に高速道路跡を利用した道となっていた。
途中には5箇所もバリケードが築かれ、いずれも全く厳重ではないものの、この道を通して利用させまいという意志は強く感じられた。
バリケードさえ無ければ、一部2車線に満たない箇所もあったものの、総じて便利な道となるだろう。
せっかく下道との入出路も多数用意したのだから、このまま放置するのは惜しいと思う。

思った。




 同じ道を戻ったが、帰りは先ほど素通りした栗原橋(跨道橋)へ上がってみた。

1車線のいたって普通の跨道橋であったが、期待したとおり眺めは良かった。
ただし、転落防止用の柵が高く、ここから撮影するとどうしても柵の一部が写り込んでしまうのには困った。

 ともかく、これが名古屋方の眺め。
高速道路の旧道が、かなりの角度で現道にぶつかって、そして掻き消えていく様子が分かる。
ここは確かに、相当危険な急カーブだったと頷ける景色だ。




 続いて、東京方。

足元の旧道は、上り2車線、下りは3車線あったことが分かる。
下りの1車線は登坂車線だ。それだけの急坂(高速道路にとっては)だったということだ。

私が辿った立派な2車線路でさえ、本来の高速から見ればさしたる幅ではない事も分かる。
よく見れば、新しく車道として生まれ変わっているのは、元々の第一通行帯と、更にその外側の路側帯の部分であったのだ。
故に、柵は第二通行帯と第一通行帯の間に設置されていたわけだ。




 帰り道。

さっきは影も形もなかったおばあさんが二人、高速道路を背にMeetingの最中だった。
案外ここは、車も通らないし、良い語らいの場なのだろう。日当たりも景色も良好だ。
これからじっくり時間をかけて、廃高速も村の人たちの手に還っていくのだろうか。
そのことを考えると、ここがいつまでも車の無い道であって欲しい。
そんな気もするのである。

 この土地はもう十分、国のため働いたのだから。