道路レポート 国道362号にあった“幻のループバイパス計画”

所在地 静岡県静岡市〜川根本町
探索日 ----.--.--
公開日 2022.01.07

希望は欺罔へと変った、幻の長大山岳バイパス


このレポートは、現地レポートを含まない机上調査のレポートです。

皆様は、国道362号の静岡市〜川根本町の区間を通行したことがあるだろうか?
首都圏側から、東海地方有数の秘湯、そして「美人づくりの湯」として人気の高い寸又峡温泉や、鉄道ファンに人気のある千頭(せんず)方面への最短ルートであるだけに、一度は通ったことがあるというドライバーも少なくないと思う。
静岡市中心部の県庁付近から、千頭駅付近まで、おおよそ35kmの道のりである。

だがこの国道、利用者ならみな口を揃えると思われるが、東海地方有数の“酷道”である。
静岡市側から千頭へ向かって走っていくと、前半の藁科川沿いを遡っていくうちは、多くの沿道集落があり、ミニバイパスや道路標識も完備された文句ない道路なのだが、区間のほぼ中間に当る黒俣という集落を出たところから、突如道路は1車線となり、同時にもの凄いヘアピンカーブと急勾配が続出するようになる。
特に勾配は凄まじく、道路構造令の上限をオーバーした15%勾配が多出するので、全く気が抜けない道路だ。

そして急坂の果ては、静岡市と川根本町の境となる最大標高900m近い稜線に達する。
この稜線沿いを走る区間も長いが、所々に茶畑を伴った集落があるのが印象的である。東海道メガロポリスのすぐ傍に、こんな秘境的山村が、そして酷道が潜んでいたかと、初通行時は誰しも驚くと思う。もちろん集落内も道は狭い。




(←)この写真は、静岡市側の最奥集落となる蛇塚集落(海抜700m付近)の酷道風景だ。
幅員5.5m未満で、大型車とは決してすれ違えない道路が、15%前後の猛烈な勾配を伴いながら続く。茶畑が見晴らしを雄大にしており魅力的だが、ハンドルを握る1名はこれを楽しむ余地はあまりないだろう。

道が川根本町へ遷ると、2車線を確保した比較的新しげな区間が多くなる。しばらくはアップダウンしながら稜線付近の高度をキープするが、やがて堰を切ったように下り始め、その途中に1箇所1kmほどだけ静岡市側で見たような激狭急勾配区間が残る。だがそこさえ抜ければトンネルと長大橋梁を連発させる理想的な山岳バイパスが現れ、あっという間に大井川中流部の小都会、千頭に達する。
静岡市街からの標準的な所要時間は1時間20分ほどで、アップダウン800mの大きな仕事を終えたドライバーは、やっと胸を撫で下ろす。


右図は、上記した国道362号の酷道区間の拡大図だ。
酷道をもう少し正確な用語で表現するなら、道路構造令に照らした未改良区間であり、そのおおよその配置を赤線でハイライトした。
こうして見ると、静岡市側を中心に長い(約9km)未改良区間が残っていることが分かるだろう。

しかし、この地図からは分かりづらいだろうが、単に狭いというよりは、急勾配と見通しの悪いカーブの連なりに対する交通量の多さというギャップにこそ、最も“酷さ”を感じる国道ではないかと思う。
静岡市から千頭方面への他に選択肢のない圧倒的な最短ルート(現実的な迂回ルートがない)であるために、案外に交通量が少なくないのである。
たとえば平成22年度の交通センサスを見ると、この国道の峠付近は平日でも1日平均663台の自動車交通量があり、日中12時間に限れば522台である。日中は1時間40台あまりの車が行き交っているわけで、この手の“酷道”のなかでは群を抜いているのではないだろうか。
こうした交通量の多さもまた、酷道に不慣れなドライバーには辛い印象を与えることだろう。

……結果、「次に千頭へ行くときは、少し遠回りでも島田経由で行こう」という考えになる人は少なくないし、中には、「もう行くまい」となってしまう人もいることだろう。
一度でもこの道を通ったことがあるというアナタは、どうでした?



ところで、この国道を走っていくと嫌でも目につく、“未成のミニ・バイパス”がある。

1度の通行で、嫌でも“2度”目につくので、利用者なら皆ご存知だと思うが……

(←)この2枚の写真が、現道を走っていくと必ず目につく、ミニバイパスの出入口だ。

特に1枚目の千頭側入口は、オーバースピードで突っ込んで行ってしまいなねないほど完全に現道の進行方向を奪っている。
だが先へ進むには、坑口前を直角に右折し、前述したような狭い現道へ入らねばならない。

(→)右図はこのミニバイパスの平成30年(2018)度現在における完成状況を表示したもので、全長1.6kmのバイパスは、全長220mの橋1本を残すだけになっている。
だが、この状況になってから、少なくとも3年は経過している。
というのも、私は2015年にこっそり当該区間へ入ってみたが、当時からこの橋1本を残して、他の構造物はほぼ完成していた。
そもそも、左の写真のトンネルを始めとする出入口付近の構造物は平成14(2002)年頃の完成であり、この1.6kmほどのバイパスの整備には、既に20年以上の月日を要していることになる。

なんとも遅速であると思うが、それでもここは厳密な意味では未成バイパスではない。
事業主体である静岡県島田土木事務所でも、令和に入ってからもわざわざこんなパンフレット(pdf)を用意したりして、正直言って“悪目立ち”してしまっているこの未成っぽいバイパスが、決していわゆる行政の過ちから来る未成道ではないことを宣伝している。
また、平成30年度の資料によると、この区間の事業期間は平成34年度とあったので、まさにこれを執筆している2022年度中には、ようやく完成するものらしい。
くり返すが、このバイパスは未成ではない。




静岡県資料「平成30年度公共事業再評価(道路事業)
一般国道362号 本川根〜静岡バイパス」より

時間はかかったが、2022年度中には国道362号の静岡市〜川根本町の区間のうち、川根本町内の全区間が2車線の道路へ生まれ変わるようだ。

右図は、平成30年(2018)度に静岡県道路局道路整備課がまとめた事業再評価の一部だが、前記のミニバイパス1.6kmを含む川根本町小長井〜静岡市境の約10kmは、一般国道362号 本川根〜静岡バイパスという事業名で道路整備が進められてきたようで、事業期間は昭和56(1981)年度〜平成34年(2022)度となっていた。
10kmという長い距離を考えれば、無理はないことなのかも知れないが、40年もかかってやっと完成しようとしているわけだ。

おめでとう、これで“酷道”は返上…………とはならない。


だって、

静岡市側の整備が終わっていないどころか、

整備計画すらないんだもの。

どうやら、静岡市はこの国道の市境区間の整備には、あまり熱心ではない。
私が調べた限りにおいて、静岡市はこの区間の具体的な(公表された)整備計画を有していない。
ここは国道で市道じゃないのに、なんで静岡市が事業主体として期待されるのかと思われるかも知れないが、静岡市は平成17(2005)年に政令指定都市に移行しているので、区域内の補助国道(=国道の指定区間外)は、原則的に市が管理主体である。
だから、この区間についても、国が権限代行で工事するのでない限り、静岡市の事業として整備する必要があるのだが、静岡市が公表している最新の「第3次静岡市総合計画」や「静岡市都市計画マスタープラン」を見ても、当該区間を大々的に整備するような計画は持っていないようだ。
かといって、国の権限代行工事と言う話も聞こえては来ない。

40年もかかって、川根本町側の道路がようやく整備されたのに、静岡市側は未だに計画さえ固めていないとか…。
私が生きている内に、この区間の酷道が返上される期待は、持てないかも知れないな……。


この国道、そんなに重要度が低いと見做されているのかぁ…。

まあ、確かに千頭へ行きたいと思わなければ、使わないのかも知れないが……。






↑この地図を知っている?

今は残念ながら会社がなくなってしまったが、道路地図の老舗だった人文社が、
昭和末頃から平成中期にかけて刊行し続けてきた「県別広域道路地図」シリーズより、
昭和63(1988)年版「静岡県広域道路地図」だ。

私はこのシリーズの地図で育ったといってもいいくらい、長く愛用していたシリーズなのだが――


↓↓↓



うお!!!

めっちゃ高規格なバイパスが「計画線」として描かれている〜!

その名は、富士城バイパス。

ループまである!

40年かかって、実際に建設された現在の「本川根〜静岡バイパス」と比較すると、
途中までは、この壮大無比な「富士城バイパス」の計画線をなぞっていたことが伺える。
だが、現在も難航している前記ミニバイパスの区間を境に、計画は現道依存へ縮小されたように見える。
その過程で、静岡市側の計画も、いつの間にか立ち消えになってしまったのか……?




そして、この不可解な計画変更の背後には、温和な私でも吐き捨てたくなるような、
裏切りの欺罔(きぼう)があったことを、私は知ってしまった……。



 歴史解説編(1)   〜第一次バイパス計画〜


さてここからは、かつて存在した大掛かりなバイパス計画がどのようなものであり、なぜ生まれ、なぜ実現しなかったかということを解説していく。
しかしその前に、川根地区における歴史的な道路網の概要を述べておこう。


古来、千頭を中心とする大井川中流の川根地域は駿府藩の領地であり、千頭と駿府城下(静岡)と結ぶ最短ルートが、問題の富士城峠を越える川根東街道であった。
これは海抜900m近い稜線で無双山地を越える険しい道だったが、政治的な意味でも、山間地と平野部との物資交換のための道としても、たいへん重要視された。
本編の冒頭で、富士城峠の頂上付近にはいくつかの沿道集落があるということを書いたが、これらは古くから往来が盛んであった名残であり、両方から持ち上げられた物資を物々交換で引き換える場所でもあった。

なお、川根地域のもう一つの重要路線としては、大井川に沿って島田に出る川根(西)街道もあった。
川根東街道と川根(西)街道はいずれも東海道に通じる道だったが、前者の方が近かった。
この2本の道は、現在も川根地区を通る2本の国道である国道362号と473号という形で継承されている。

次に、川根東街道の近代における改良の歴史だが、この道に荷車による初期の車両交通がもたらされたのは、明治40(1907)年から大正2(1913)年にかけての大改修の賜物であった。
このときは沿道の村々(上川根村、東川根村、清沢村)が協力して「土功組合」を設立して計画を建て、県の許可を得たうえで、当時は里道であった山間部を大々的に改修、初めて車馬の通行を可能とした。
そして、ずっと後に国道へ昇格することになるルートの大部分(現在もバイパス化されていない区間の大部分)は、この明治時代の改修路をなぞっている。

川根東街道は明治末に改良されたことで、ますます利用が盛んになり、大正9(1920)年には旧道路法下の府縣道東川根静岡線へ認定されている。
またこの大正時代には、後に大井川鉄道として結実する鉄道計画が誕生するが、大正7年の立案当初は駿府鉄道という社名で千頭と静岡を川根東街道沿いに結ぶ鉄道を敷設する計画であった。すぐに大井川沿いに島田へ結ぶルートへ変更し、最終的には金谷へ結ぶルートで工事を行い昭和6年に全線の開業を果たしている。
同社の主目的は川根地方と東海道の連絡であったから、当初は最短距離である富士城峠越えを考えたのだろう。

また、これとは別に川根地区の貨物を東海道へ大量安価に移出する手段として、大正10年に川根電力索道株式会社が設立されて、昭和5年に藤枝方面と千頭付近(沢間)を結ぶ長大な索道を完成させている(昭和13年廃止)。
こうした動きは川根地区から東海道への産物(主に林産物)輸送がいかに膨大で、当時の名望家と呼ばれる人々に熱を帯びさせたかということを伝えるものであろう。

以上述べたとおり、川根東街道は、もともと需要の少ないところを結ぶだけの、貧弱が宿命付けられたような“酷道”では決してない。
逆に、道が悪いからこそ、この程度の交通量しか捌けていないのではないか。そう思えるだけの歴史的なバックグラウンドがあるように私は思っている。

川根東街道の整備は、昭和に入ってからも徐々に進み、やがて自動車の通行が目指されるようになった。
県道としての路線名も変遷し、昭和30年には現行道路法下の県道静岡犬居二俣線に認定。これは現在の国道362号の静岡市〜浜松市天竜区の区間に相当する。昭和30年代には、富士城峠の全線にわたってどうにか小型運材トラックが通行できる程度までは整備されたようである。
また昭和31年には東川根村と上川根村が合併して本川根町(現在の川根本町とは異なる)が誕生し、富士城峠の道路整備をより広域的な体制で県へ要求する体勢が整う。
さらに、昭和34年5月に県道静岡犬居二俣線は県道静岡春野天竜線へ路線名が変更され、同時に一般県道から主要地方道への昇格も果たしている。主要地方道まで来れば、これより上のポストは一つだけ。
昭和50(1975)年4月、同県道はついに一般国道362号(愛知県豊川市〜静岡県静岡市)へと昇格し、明治時代に一番下の里道から始まった出世劇は、一般道路カーストの頂点へ上り詰めるのだった。

なお、上記した県道の変遷については、伊豆半島北部の道路研究(@s9vVAUZYchdQehd)の情報提供に拠った。ありがとうございました!

あとは、実際の道路としての万全な整備を実現するだけだが、そのための下地は国道昇格という形で十分に整ったといえた。
少なくとも国道昇格に報に触れた当時の地元の人々の多くは、そのように期待したと思う。
そして、そのような地元関係者にとって絶好の機会が、すぐにやってきた……。

富士城バイパス計画が、始動する。




『本川根町史 通史編3』(平成15年刊)は、「国道362号線問題」という項目を特別に設けて、同町と県庁所在地を最短で結ぶ国道362号富士城峠の整備の経過についてまとめている。このこと自体、本道に対する町の並々ならぬ思い入れを窺わせる事実であるが、以下では本書および『本川根町史 資料編5』を元に解説を進める。


昭和46(1971)年、建設省は「長島ダム建設計画」を初めて公表した。

これは本川根町の北部にある接岨(せっそ)地区で大井川を堰きとめて、治水、利水を目的とした多目的ダムを築造しようとするものだった。大井川水系では明治後期から盛んに水力発電用のダムが建造されていたが、治水や利水を目的としたダムがなく、下流部で度々洪水が引き起こされていたので、対策が必要とされていた。
計画されていたダムの規模は高さ112mの重力式コンクリートダムで、実現すれば本川根町の梅地や犬間地区の半数近くの住民が移転を余儀なくされるほか、既設の林道や大井川鉄道井川線も長距離にわたって水没することになるものだった。

建設省は計画公表後速やかに、ダム予定地である町および地元住民に対して概要の説明を行った。この段階では事業の実施計画は固まっておらず、町に対して説明をしたうえで現地の立入り調査などを求めるのが、実施計画確定への最初の段階となる。

はじめて調査協力の依頼を受けた地元では、この機会を捉えて長年の悲願であるバイパス建設を実現しようとした。昭和47(1972)年12月27日、長島ダム建設のため、建設省が「実施計画調査」立入りの申入れをした際に、本川根町側から接岨地域の振興計画(集落再建・道路整備・井川線存続。産業振興)の実現と主要地方道静岡春野天竜線バイパスの早期完成の確約を求めた。

『本川根町史 通史編3』より

本川根町は、建設省のダム建設にむけた立入り調査を認める代わりに、主要地方道静岡春野天竜線バイパスの早期完成の確約を求めた。

主要地方道静岡春野天竜線とは、もちろん富士城峠の道路に他ならない。
この対応一つをとってみても、町は最初からしたたかな頭脳プレーでことに臨んだようだ。県道整備の本来の事業主体である県を飛び越えて、そのうえに君臨する国に直接交渉する絶好の機会と考えたのだろうか。

では、このような要求を受けた建設省サイドは、どのように答えたのだろうか。

「本格的調査を実施し、早期築造を図りたい」との確認書が建設省・知事・町長(地元)の間で取り交わし、その上で調査の実施が同意された。これがバイパス建設計画の出発点であり、その内容は――

『本川根町史 通史編3』より

なんと、すんなり確約が果たされていた。

もちろんこれは町史の記述であるから、実際に取り交わされた「確認書」の内容を見ないとならないだろう。
昭和47(1972)年12月27日に取り交わされたこの確認書は、『町史資料編』に掲載されていた。
長いので全文の掲載はしないが、書面の冒頭には、「調査の実施について、本川根町(甲)と静岡県(乙)および建設省(丙)は次の事項について確認する」とあり、本文には次のように書かれていた(抜粋)。

一 乙および丙は、甲より要望のあった次の事項の実施について、その重要性にかんがみ誠意をもってあたるものとする。
(一) 地域振興対策について  (略……水没周辺地域の整備についての内容)
(二) 主要地方道静岡春野天竜線のバイパス建設について
 本年度種々予備的な検討を行っているが、ご要望の趣旨に沿うべく来年度には本格的な調査を実施し、早期に築造を図りたい。

二 この確認書の取り交わしにより、甲は調査に同意するものとする。

『本川根町史 資料編5』より

なるほど、確かに「早期にバイパスの築造を図りたい」という言質を取っている。間違いなく交換条件を獲得しての立入り調査の承諾であった。

これを得て、現地ではダム実施計画策定に向けた国の調査が進められると共に、バイパスの設計も進められたとみられる。
そして昭和49(1974)年、国は大井川総合開発事業の中核施設として長島ダムの実施を正式に決定、事業に着手することになった。
また、昭和50(1975)年4月には前述した通り、県道静岡春野天竜線は国道362号へ昇格を果たしているほか、国道362号の整備期成同盟会が、本川根町や静岡市を含む静岡・愛知沿道各市町村の参加によって設立されている。
この時点では、ダム建設とバイパス整備は両輪のように上手く歩調を合わせて、確かな前進を続けていた。

昭和54年3月17日建設省、県より「補償調査に伴う確認」として、井川線は付け替えて存続する、国道362号線バイパスは建設するとの回答をえた。
バイパスについては、現在着工のための具体的な調査に入っている、この調査結果を待って昭和56(1981)年度までに着手し、遅くともダム完成時には供用を開始する予定であるとした。

『本川根町史 通史編3』より

ちなみにこの当時、長島ダムは昭和60(1985)年度の完成を目指して、井川線付け替えなどの準備工事を既に着工していた。
それまで(つまり6年後まで)には国道バイパスも完成させるというのである。あまり時間の猶予はない。

そして昭和55(1980)年12月、ついにバイパスルートや整備計画が決定したとの連絡が町にあった。「富士城バイパス」初お披露目である。
次に紹介する記事と図は、本川根町議会が発行していた「議会だより」昭和56年2月号に掲載されたものである。


『本川根町史 資料編5』より

昨年12月、県・建設省より国道バイパス着工について新路線が提示され、本年1月9日着工担当の島田土木事務所長が来町、具体的なスケジュールの説明と協力について要請がなされた。国道バイパスの実現への明るい見通しは、長年にわたる町民の悲願でもあり、本町発展への展望が開かれたことはまことに喜ばしいことである。

左に示された略図の通り、小長井(南端)より静岡市八幡に至る延長20.3キロメートルの新路線で、幅員8メートルの2車線の快適な道路となり、完成の暁には静岡市へ車で40分内外で行けることになる。

この間を4工区に分け、諸調査を急遽実施し、昭和56年度一工区(小長井より馬路橋上架橋対岸にわたる地点)より、着工のための用地買収等の諸準備に入り、昭和57年度施工の運びとなった。

工事内容は、具体的な調査結果により判明することではあるが、馬路橋上流の橋梁(長さ約170メートル、高さ約100m)や高度を下げるためのループ路線、距離を短縮するためのトンネル、急斜面にかかる陸橋等特色のあるバイパスの実現が予想される。

『本川根町史 資料編5』より

これこそが、昭和63(1988)年版の道路地図帳に壮大な計画線を描き出していた、全長20.3kmにおよぶバイパス計画の全容であった。
図を見る限り、トンネルは全部で7本が計画されており、うち1本はループトンネルである。
全通時には静岡市中心部まで40分ほどで到達できるとあり、これが令和4年現在の標準所要時間の半分ほどだ。

工事全体は4工区からなり、最も西側の一工区には昭和56年度から着手するとあるが、この昭和56年度という数字に見覚えがある。
今年ようやく完成の見込みとなっている現行計画「本川根〜静岡バイパス(全長10km)」の事業期間が、「昭和56年度〜平成34年度」となっていた。
つまり、現在の計画も、このときの計画を直接引き継いでいるということだ。

本町の将来に大きな影響をあたえるものと思われ長年の夢であった、県都「静岡市」へ通ずる待望の国道362号線バイパスが57年7月末から小長井地内において工事が行われております。
このバイパスは、町の要請により県が計画実施するもので……(以下略)

『本川根町史 資料編5』より

上記は、本川根町が町民向けに発行していた「広報ほんかわね」昭和58年1月号からの引用だ。
この道路について町が語る際には、枕詞のように、長年の夢、悲願、待望などという希望に満ちたワードがついてくる。
記事では、バイパスの一工区が着工したことが述べられている。これは現在使われている国道の一部であり、無駄にはなっていない。
注目は、バイパスの事業主体が県であると明記されていることだ。国道でも県道でも、大規模で技術的に極めて難しい工事などの条件を満たせば、権限代行によって国が事業主体となる場合があるが、本バイパスの工事はあくまでも県が事業主体となって進められていたことが分かる。


――このまま何事もなければ、昭和60年度にはダムもバイパスも完成するはずだった――



 第1次バイパスルートの詳解

モノクロ印刷の計画ルートだと分かりづらかったので、見慣れた地図上に出来るだけ正確に計画ルートを転記したのが、上の図だ。
繰り返しになるが、現在の国道として使われている部分があり、それは小長井の入口から2本目のトンネル「馬路トンネル」の少し先まで、約3.6kmほどの区間である。
対して本来のバイパスの計画は20kmあまりにも及んでいた。
町史はこのルートを次のように解説している。

このルートは、静岡市八幡から県道南アルプス公園線に入り、坂の上地区を経てループ式トンネルで高度をあげ、日向付近から新道を建設し、富士城峠の北側をトンネルで通し、本川根町小長井で現道と接続する案であった。

『本川根町史 通史編3』より

静岡市側のルートが現道とは全く異なっていた。現道との分岐地点である昼居渡(八幡)から、静岡市街と井川地区を結ぶ県道南アルプス公園線に沿って、その屈曲を2本のトンネルでショートカットしながら坂の上地区へ進み(四工区)、そこから左折して1.5周のループ(うち半分はトンネル)で高度をぐんぐんと稼ぎ出す。そこからは市境稜線の北側斜面をトラバースしながら高度を稼ぎ(三工区)、無双山地の主稜線を1kmほどのトンネルで潜って本川根町へ入る。小長井河内川左岸の高い山腹を下り(二工区)、馬路トンネル付近で現在のバイパス計画線と合流し、同一の経路で小長井へ至る(一工区)。
なお、全線の中間付近(二工区終点)には、現道沿い集落へのアクセスや、工事途中段階での現道タッチに用いるべき短い支線も計画されていた。


右の写真は、先ほどの地図の 《A》 の位置で2015年に撮影したものだ。

現在の「本川根〜静岡バイパス」の整備計画では、この地点のすぐ奥に180度進路を変える半ループ橋を設置し、写真右上に僅かに擁壁が見えている上方の迎え道路と接続させることになっている。この区間の工事に20年以上かかっていることは本編冒頭で紹介したとおりだが、最新の計画通りならば2022年度内には開通する。

しかし、昭和56年の第一次バイパス計画では、このまま直進することになっていた。
チェンジ後の画像は工事末端部の様子だが、バイパスはここから真っ直ぐ奥へ伸び、背後に見える高さ一定の稜線をメイントンネルで貫くはずであった。




この写真は、《B》 の位置でやはり2015年に撮影したものだ。

県道南アルプス公園線は、蛇行する藁科川が形成した断続的な谷底平野を結びながら伸びており、多くの集落が点在している。
静岡市の奥座敷的な存在である井川へ通じるこの県道の一部が、川根地方へのアクセスにも活用される可能性があったのだ。

チェンジ後の画像は、同一地点から左を向いて撮影したもので、このスギの美林に覆われた鈍角三角形の山腹が、1周半ループの舞台になるはずだった。
実現していれば、この場所から明確に道形が見えたであろう。





――全ては順調に進んでいるように思えたのだが…――


裏切りの刃は、人知れず、町の預かり知れぬところで、研がれていた……




 歴史解説編(2)   〜第二次バイパス計画〜


昭和56(1981)年度に、富士城峠を貫く国道362号の全長20kmに及ぶ「富士城バイパス」が、静岡県島田土木事務所の手により着工した。
完成時期は、建設省が整備を進める長島ダムの完成予定年度である昭和60年度までとされていた。
事業者が異なる国道バイパス(県施工)と長島ダム(国施工)が繋がっている理由は、昭和47(1972)年にダム建設地となった本川根町が、国と県との間に結んだ「確認書」の内容にあった。それは、「町内でのダム建設にむけた立入り調査を認める代わりに、富士城峠にバイパスを整備してほしい」というもので、国と県はこれに同意したうえでダムの着工に漕ぎ着けていたのである。
バイパスの建設工事は、昭和57(1982)年7月末に起点側の一工区(本川根町小長井)から始まり、観光が重要な産業である町の人々は、その槌音に将来への明るい期待を抱いていたであろう。

だが、全線開通どころか、一工区の開通さえしていない平成元年(1989)年12月になって、静岡県は町に対して建設ルートの変更を打診する。
この場面を、町史は次のように解説している。


だが、計画した北まわり線は実現せず、ルートが変更された。建設省(道路局)は財政事情の厳しい情勢や全線が開通しないと供用開始のできないことなどから、ルート見直しを県に指示した。このため県はルートの再検討に入り、ルートの変更案を建設省と協議しつつ作成した。
昭和55(1980)年12月17日←この日付は明確に町史の誤りで、実際は平成元年12月19日である(後述する「資料編」が正しい)県より国道362号線バイパスの新しい建設ルート(これが現在のルートである)の提示説明と協力要請があった。
町は突然の変更を議会及び住民に説明しその理解を求めることは極めて難しいとして、県行政への不信感をあらわにした。

『本川根町史 通史編3』より

上記の通り、昭和56年に提示され、57年から着工していたバイパスのルートを変更したいと、県は町に対して打診してきた。
その新たなルートの説明は後述するが、ひとことで言えば、計画規模の縮小が含まれている。
そしてその理由としては、「建設省(道路局)は財政事情の厳しい情勢や全線が開通しないと供用開始のできないことなどから、ルート見直しを県に指示した」と明かしている。

ここは、計画ルート変更の原因でとなった重大な部分だが、この政治的決定の詳細は町史やその資料編にも記述がなく、これ以上の情報はない。
したがって、当時の社会の動きなどから推測を交えて、私なりに少し補足してみたいと思う。

まず、国が、県が行う国道整備事業について「見直しを指示した」というのは、いかにも強権的な印象を与える表現だが、県の国道整備事業といえども実際の事業費の大部分を地方道路整備臨時交付金という形で国が県に差配していた制度上(現在この制度は廃止されている)、不自然ではない。そもそもこの国道整備については、国も「確認書」の内容に責任を有しているから、県とは綿密な関係を持って臨んでいたと思われる。

そして、「財政状況の厳しい情勢」ということを見直しの理由の第一にしているが、昭和60年代の我が国の景気は、昭和40年代と50年代の二度のオイルショックから立ち直り、むしろ後にバブル景気と呼ばれる急騰の好景気にあったはずだ。しかしこの直後にバブル崩壊となるので、こうした動きを国が読んでいたとすれば、「財政状況が厳しい情勢」といえるのかもしれないが、正直それほど強い根拠がある表現とは思えなかった。

個人的にはそれよりも大きなウェイトを持って計画に影を落したのではないかと思える出来事は、国が進める長島ダムの建設が順調ではなかったという事実だ。
昭和52(1977)年に長島ダム工事事務所を発足させ基本計画を確定させた時点では、ダムは昭和60年度完成予定とされていたが、現実にはさまざまな要因から本格的な着工が繰り延べされ続けた。
その要因とは、第二次オイルショックによる景気後退と、それに伴う下流地域における水需要の減退、インフレによる見込み工費の増大などである。(長島ダムでは地元による建設反対運動はさほど吹き荒れなかった)
このため建設は遅れに遅れ、平成元年になってようやくダム本体の着工に至っているが、当初目論見よりも遙かに「高くついた」ダムになった(292億円→610億円)。

つまり、ダムの建設が遅れたことで、ダム完成までにバイパスを完成させるという“約束”の期限も遅れる土台が出来上がっていたうえ、ダムが目論見よりも高くついたので、引き換えにバイパス工事は安上がりに済ませたいという思惑が働いたのではないかという推測がある。
ことはそれほど単純ではないかも知れないが、いずれにしてもループトンネルなどを大胆に取り入れた壮大なバイパス計画は、これから紹介するより現実的なものへと下方修正された。

ちなみに、長島ダムの建設に直接関わる工事用資材運搬道路として富士城峠が利用されたわけではなかったりする(工事関係者の出入りには利用されているだろうが)。
同ダムの建設資材は、千頭までは大井川鉄道を使って輸送され、そこから現場までは工事用道路を県道として整備している。(その際に廃止された旧林道を以前探索してレポートしている)
そのため、国道バイパスの整備は純粋に、ダムへの建設協力に対する町への見返りという性格のものであった。



『本川根町史 資料編5』より

一工区に架かる新馬路橋の先は従来通りトンネルで抜け、もと弘法の上で現道側に戻り、ほぼ現道に沿う新ルートで富士城峠を抜け三工区に至るものです。次の三工区の新ルートは現道の362号と上杉尾に行く市道の分岐点近くから従来のルートに沿った形で坂ノ上へ下り、ループ式トンネルであった所は山頂近くを一回りし杉尾川へ下り、川に沿って坂ノ上に至るものです。

町の長島ダム対策委員会と議会のダム対策特別委員会の合同委員会は、このルート変更案について真剣に協議した後受け入れることにした。

『本川根町史 通史編3』より

この図には、当時の国道362号のルートのほかに、従来のバイパス計画と新バイパス計画という、合計3本の国道362号が描き出されている。
ごちゃごちゃしていて分かりづらいと思うので、下の図をご覧いただきたい。

この地図に赤線で示したものが、昭和63年に県が変更した後のバイパス計画である。

昭和56年の当初計画と比較すると、既に着工している一工区には変更がないが、二工区の途中からは、「新馬路橋の先は従来通りトンネルで抜け、もと弘法の上で現道側に戻り」というように変更された。そしてこの変更部分は、そのまま現在の「本川根〜静岡バイパス」へと継承されている。現道沿いに戻った先も現行の計画とほぼ同じだが、当時の計画では静岡市側のバイパスが三工区としてちゃんと維持されている点に注目したい。その三工区の内容も従来から大きく変化し、ループトンネルは作られないことになった。また、事実上は県道南アルプス公園線の改良であった四工区もオミットされたようだ。

以上のように大きく変化しているが、それでも全て完成すれば、現道と比べて利便性のある新道整備計画だろう。
それ故に、この計画変更の打診に対して町は、「県行政への不信感をあらわにした」ものの、最終的には、「真剣に協議した後受け入れ」たのであった。
「新道は作りません」と全てを反故にされたわけではないから、確認書の内容を盾に抵抗することは現実的でなかったと思われる。そもそも、ダムの建設自体にも、町全体で反対していたわけでもない。

この計画変更を町として受け入れ、同時に町民からの納得を獲得するための苦心が窺えるのが、本川根町の「議会だより」平成2年2月15日号だ。ほんの数年前に壮大なバイパス計画がお披露目された際は、大きな喜びと期待を伝えていた同紙だが、この青天の霹靂のような計画変更については次のように述べている。
実はこの内容には、国や県が計画のバイパス計画の縮小を余儀なくされた最大の原因が秘められているように思う。

今一度従来ルートを確認しておくため、12月4日議員とダム対策委員で全線に亘って踏査を行いました。この調査で改めて実感したことは、未着工区間の道程の長さと地形の険しさであり、その距離は今工事中の一工区の第5.4倍の17km余り、かつ急な山間を縫うルートでした。また富士城峠越えのトンネルは約860mの計画ですが静岡側の出口は標高700mの所で現道では郡境あたりの高さに当たります。ここは能又(よきまた)川の源流部ですが、これから先は杉尾川の谷に移るため間の尾根をトンネルで抜け、坂ノ上へ向かいますが坂ノ上の後ろの山は標高差を克服するため、約900mのループ式トンネルで下ります。続く四工区は4.4kmで八幡に至りますが、途中600m以上のトンネル2本があります。今工事中の第一工区は予想外の地滑り地帯で多額の予算を投入した山止め工事が行われており、なかなか先に進めない状況です。

12月19日、県の道路建設課、資源エネルギー課、島田土木事務所の課長所長他関係の方々が来られ、議会とダム対策委員の合同委員会の席で、県としてより早く完成すると考えた新バイパスルートの説明がなされました。(中略)
県は、この問題の経緯は充分理解している。早期完成に最大の努力をするとの表明がありました。

県の方が退席した後この問題に対する取り扱いの検討を行いましたが各議員、委員間で真剣な協議が進められた中で、「ダム完成までに出来ると言われてきたが、現状ではむずかしい。新ルートでいつ頃完成するのか目標をほしい。何十年もかかるようでは困る」「二工区は現道沿いにでも通ることではあったが、三工区は現道沿いにはできないので一番問題であった。今回のルートなら受け入れたい。」「現道で防災工事が行われているが新ルートとは関係なく施工されているので、今後は投資効果を高めるためバイパスの一部にならないとムダが多い。」など多様な意見が出されましたが、委員会の結論は二工区の新ルートは整備された所からすぐ使用できる長所もあり、これを受け入れる。三工区の新ルートについても全長が少し長くなるが全体的にみて従来のものと大差ないと判断し受け入れられるものである。今後は更に変更されることが無いよう早く着工してもらい中でも三工区は全部が静岡市地内であり、市にもお願いし一日も早く着手されるようにしてもらいたい。そうすれば現道の一番の難関箇所が解消するということでまとまりました。

これに対して町長からは、三工区についても調査費が付いた由であるので、いよいよ具体化すると思う。これからは本日の合同委員会の意を体してこのバイパスの早期完成を期して全力で取り組んでゆくとの決意が表明されました。

『本川根町史 資料編5』より

町が最も重視していたのは、「現道の一番の難関難所」と表現している、静岡市側の三工区の速成であったと感じる。
そのためには、多少の道路規格の低下は受け入れられると考えたようだ。
それに、工事が難航している現状に対する理解もあったようだ。

「今工事中の第一工区は予想外の地滑り地帯で多額の予算を投入した山止め工事が行われており、なかなか先に進めない状況です。」

↑これは、重大な内容なのではないだろうか。
千頭周辺もいわゆる南アルプスの山々であり、その崩壊の恐ろしいことは、当サイト読者であれば多くがご存知のことだろう。
そんな山の中に長大な高規格道路を新たに作ることに要する費用や時間は、「確認書」を取り交わした当時考えられていたものよりも遙かに大きくなる。そのことが、一工区の建設を進める中で発覚したのではないか。それこそが、一工区の建設に計画外の長い時間を要した最大の理由であって、二工区以降の計画縮小を必要とした最大の原因だったのではないか。

県や国にとっては、ここまで大変なバイパス工事だとは思わなかったというのが、本音ではなかったか。

私は敢えて露悪的な立場をとって、本稿の副題に「欺罔」(だまし)があったようなことを加えている。
実際、町の関係者の中にはそういう感情を持った人が少なくなかった。
とはいえ、さまざまな立場に立ってみると、誰も当初から悪意を持ってことに当った者はいなかったようにも思える。

町の側に立てば、ダムもバイパスも計画通りに進まないのは迷惑だし、不誠実だし、約束違反じゃないかと不信を抱くのが自然な態度であろう。
県の側に立てば、そもそもダムは国の事業であり、バイパスについても国と町の間で完結して欲しいのに、バイパス整備は自分たちの仕事とされた。しかし国が予算を出さなければバイパス整備は出来ないので、苦心している。
国の側に立てば、長島ダムの建設は大井川流域の多数の国民の命を守る利益になるが、引き換えとして本川根町が求めている国道整備に過剰な投資をすることは、国民の税金の使い道としてバランスを欠いていると冷静に判断したかもしれない。

しかし、判官贔屓という言葉がある。
地方の道路の劣悪ぶりに困苦してきた歴史を間近に見聞きしてきた私が、基本的には地方の立場に肩入れすることは避けられない。
そうした私の心情として好き放題に書かせて貰えば……、
ここまでの国や県は全然許せる。だが、ここから先の国と県は割とクソい と思う…。





『本川根町史 通史編3』より

昭和56年の着工以来だから実に12年もかかっていたが、平成5(1993)年11月15日、ようやく国道362号富士城バイパスは一工区の全部である3226mが完成し、町内で盛大な開通記念式が執り行われた。
この区間は最も壮大だった当初計画からスケールダウンすることなく開通した唯一の区間である。
式典にて、長年にわたってダムとバイパスの問題にあたってきた本川根町の松岡武平町長は長い祝辞を述べている。抜粋しても少し長いが、この道の歴史と地域の想いを締め括るものとなっており、ぜひとも紹介したい。

(前略)ご承知のとおり、この富士城バイパスは、昭和54年、長島ダムに関連する事業として位置付けられ、本町より、静岡市に至るルートの一工区として昭和56年に着手されたものであります。以来、今日に至るまで、その一日も早い完成を待ちわびて参りましたが、今、こうして数々の難工事を克服され、奥大井の山間を貫く快適な、素晴らしく、見事な道路を目のあたりにし、別けても、馬路大橋の壮大なる鉄のアーチは、あたかも、本町を輝ける未来へ導く、夢の懸け橋とも想見し、然(しか)も、このバイパス全線完成の、一層の促進を指し示す大モニュメントにも例えたき、想いであります。

古きを訪ねてみますと、本町から静岡市に至るこの道路は、今を去る98年前の、静岡県への請願より始まっております。願が叶って調査測量がなされ、明治39年には「川根東街道」として、当時の清沢村久能尾より、上川根村千頭まで、県の「第三類道」となり、明治40年から大正2年にかけ、沿道の村々によって大改良工事が行われ、大正9年に県道として認定されて、今日の基盤が築かれたものであり、人々の長年に亘る努力の積み重ねを経て参ったものであります。

戦中戦後は、道路改良等停滞を余儀なくされておりましたが、国勢も隆昌をたどる中で、昭和46年、長島ダム建設計画が示され、以後住民あげて度び重なる陳情を繰返し、遂に、国、県のご高配のもとに、昭和50年念願の国道昇格のご認可を頂き、国道362号として、初の誕生を見たものであります。(中略)
その後昭和54年、地域住民の強い悲願の中で、建設省中部地建、県、本町の三者にて、長島ダム建設関連として、このバイパス計画も立案約束され、昭和56年より着工の運びとなり、13年の長き年月を経て、本日この記念すべき日を迎えることが出来、ひたすら感慨無量これに過ぎるものはありません。

近年に於ける車社会への急激な展開は、道路という、基本的社会資本の迅速なる整備が求められておりますが、特に地方の振興は、道路整備の如何に掛かっており、本日の富士城バイパス第一期工区の完成は、この約一世紀にも及ぶ「川根東街道」の歴史の中でも、誠に画期的な意義をもつものであり、このルートで、初の近代的道路施設が、実現したものとして、今後の本町の社会経済の振興と、活性化に寄与する効果は、極めて大なるものであると確信致しております。

申しあげるまでもなく、山間にある地方にとりましては、道路は地域の生命と活力を支える、基軸であると共に、その動脈として、正に生活関連施設そのものであり、何よりも優先整備を図る必要を痛感致しているものであります。

この上は、この第一期工区の開通を機に、第二期工区、更には第三期工区へと事業が一段と進展し進捗が図られ、362号バイパス全線の早期完遂がなされ、地域住民の悲願念願が一日も早期に叶えられますよう伏して懇願申し上げる次第であります。(後略)

『本川根町史 資料編5』より

……本川根町を与る町長の思いの丈が伝わってくる祝辞である。私は凄く好きだ。
しかし、来賓として当然聞いていただろう国や県のお偉方たちに釘を刺すかのように、この工事でバイパスは完成ではなく、さらに工事を進めて早期の全線開通が必要であることが、何度も述べられているところが、憎いではないか。

右の写真は、町長が名前を挙げて、「本町を輝ける未来へ導く、夢の懸け橋」「バイパス全線完成の一層の促進を指し示す大モニュメント」と絶賛した、平成4年8月完成の銘板がある「馬路大橋」である。
この橋が3.2kmからなる一工区の終点であり、起点からここまでは真に完備した見事なバイパスとなっている。

しかし一方で、チェンジ後の画像は同橋より眺める終点方向であるが、橋の向こうに口を開けている二工区の入口である馬路トンネルは前述した通り、令和4(2022)年1月現在でも未だ供用されていない状態にある。

町長が「懇願」という言葉を用いてまで訴えたバイパスの全線開通は、この平成5年の盛大な開通式典以降、真に牛歩のような歩みに陥ってしまった。
そしていつのまにか、国や県から、「確認書」という名前の“約束”が語られることは無くなっていくのだった……。
だから私だって、『町史』を読まなければ、以上述べたような“約束”があったことを、知ることはなかっただろう。




 歴史解説編(3)   〜第三次バイパス計画〜



最後は、平成5年以降のバイパスに関わる動きを紹介したいが、『町史』刊行以降については、町の立場から発信された情報は極端に少なくなってしまう。そのため、事業主体である県が発信する情報が頼りになる。

まず客観的な事実として、平成14(2002)年に長島ダムは完成している。
実に30年の月日を費やして完成したダムは、井川線を新たな観光名所としてのアプト式鉄道に生まれ変らせることになり、この点ではダム計画当初に交わされた「確認書」(井川線は存続するという内容が含まれていた)は、履行されている。
ダム湖の周辺整備も行われ、千頭と接岨地区を結ぶ県道も立派に整備された。

しかし、富士城バイパスについては遂に、ダム完成までに全線開通を見ることはなかった。

それどころか未だに開通していないし、バイパスの全体計画自体も、さらに後退してしまった。



静岡県道路局作成 平成16年度事業再評価 資料より

平成5年以降の富士城バイパスの進捗に関する明確な資料としては、平成16年度に静岡県道路局が公表した事業再評価の文書がある(→)。
ここには現在の事業名である「本川根〜静岡バイパス」に名前を変えた(いつどういう経緯で事業名が変ったのかは不明)富士城バイパスが記載されており、平成16(2004)年度当時の進捗状況を知ることが出来る。なお、事業化年度が昭和56年となっており、富士城バイパスを継承しているのは明らかだ。

これを見ると、起点は従来と変らないが、終点は静岡市内ではなく、市境の本川根町富士城となっていて、計画延長も10.0kmであり、従来の三工区であった静岡市内の区間が省かれていることが、以前の計画との最大の違いである。
全体事業費210億円、(事業費ベースの)事業進捗率87%、供用済延長6.9km、計画交通量1800台/日など、さまざまな諸元も公表されているほか、「事業の進捗状況」としては、「平成5年度までに一期区間(3.2km)が完了し、引続き二期区間の整備を進めており、現在までに6.9kmを部分供用している」としていて、つまり全体延長10kmのうち6.9kmが供用中で、残り3.1kmが事業中という扱いである。
また、「事業の進捗が順調でない理由、今後の事業の見通し等」という項目には、「非常に急峻な地形で、地すべり地帯でもあることから、今後も集中的な投資が必要であるが、用地補償をはじめ事業は順調に進んでおり、早期供用に向け事業の促進を図っていく」と書かれていて、とにかく地形に苦しめられているような表現になっている。
そして結論としては、「当初からの事業の必要性、重要性は変らないと考えられる」ので、“事業継続”としている。

しかし何よりも気になるのは、どのような経緯から、平成5年から平成16年の間に、静岡市内の区間(三工区)を除外するような大規模な計画の縮小が再度行われたかについてである。

このことを調べようとしていろいろ検索したり、国会、静岡県議会、静岡市議会などの議事録を眺めてみたが、明瞭は答えは得られていない。
ここは、本川根町にとって簡単には譲れない重要な利益であったはずだが、どのようなやりとりで決定したのかとても気になる。



静岡県道路局作成 平成16年度事業再評価 資料より

ただし、この時点では、単純に静岡市側の計画が消失したわけでもないようだ。
というのも、右の地図はこの平成16年度事業再評価に掲載されていた「事業概要図」を拡大したものだが、「本川根〜静岡バイパス」は本川根町内で完結しているものの、図の右端に描かれている静岡市側の区間にも、現道である黒い太線と絡み合う、凡例に説明がない“二重線”が存在する。

おそらくこれは、静岡市側のバイパスの計画線を意味していると思う。
だが、この静岡市側のバイパスの事業名はおろか事業主体も不明であり、事業再評価の対象にもなっていないようなので、おそらく正式な事業化以前の“構想線”ではないかと推察した。


上の図は、第三次計画とでもいうべき、平成16年度時点のバイパス計画を、これまでと同じ地図上にプロットしたものだ。
基本的に、本川根町内の計画は、ほとんど第二次計画と変らないのであるが、前述した通り静岡市内が除外されてしまった。
だが、詳細は不明ながら、静岡市内にも“構想線”と思われるような線が描かれていたので、これを緑の破線で再現した。

こうして見ると、静岡市側の構想線は、従来の三工区とはまた大きく違っていて、二工区同様、かなり現道に近いところに新道を整備する、より低コストで実現出来そうな経路である。距離も短いので、勾配は現道並に厳しいことになりそうだが、それでも2車線幅が確保されれば、国道としての面目は保てそうである。
返す返すも、この計画の詳細が不明なのが口惜しいが、これが不明に終わってしまっている最大の理由というのは、次の時代にこの構想が継承されなかったせいなのだ。
資料的に存在感の乏しいこの点線の道は、本当に存在感が乏しいままで終わってしまうのである。

まず、この平成16年の翌年に、長年この道のストーリーを彩ってきたプレーヤーが代替わりする。
平成17年、本路線最大の旗振り役であった本川根町(ほんかわねちょう)は、隣り合う中川根町と合併して川根本町(かわねほんちょう)となる。
そしておそらくこちらの方が影響が大きかったのだが、静岡市が全国で14番目の政令指定都市に移行するのである。

この政令指定都市移行は、道路事業にとっても非常に大きな意味を有している。
従来の市制による市は、道路管理については町村と同程度の権限しか有さないが、政令指定都市は都道府県に準じた権限を有していて、域内の国道(指定区間外の国道)や都道府県道の管理者となる。
したがって、従来は静岡県島田土木事務所が管轄していた国道362号富士城峠は、静岡市側については静岡市建設局道路部の管轄となる。
おそらくだが、このような政令市移行が念頭にある中で、富士城バイパスの静岡市側の区間が削除されて、現行の「本川根〜静岡バイパス」になったものと考えている。もちろん、静岡市が計画をそのまま継承するという選択肢もあったはずだが、市が拒絶したのか事情が分からないものの、そうはならなかったようだ。

政令市施行に伴う道路管理の事情については、静岡県議会でも懸念している議員があって、平成14年12月県議会定例会で牧野京夫議員は、国道362号を例にとりながら、「来年の合併後、 政令指定都市への昇格が見込まれている新静岡市を例にとりますと、 静岡市から本川根町につながっている国道362号を初め、 合わせて8本の道路では政令指定都市の境までを県が管理し、 新静岡市に入ると市が管理することになるわけです。 今の制度では、 政令指定都市に管理が移る道路の整備については、 県からその分の財源も移るとされておりますが、 その財源を使ってどの道路のどの箇所を整備するかは、 市の判断にゆだねられることになります。少しうがった見方をすれば、 この管理の移る道路の財源を使って市内の別の道路を整備してもよいことになります。 また、 この管理の移行する道路の区間でも周辺市町村との境付近は人口の少ないところもあり、 周辺の自治体の区間は整備が進んでもその先が整備されるかわかりません。 ぜひその点、 理解のある方に新しい市長になってもらいたいと思います。これまでの県内の道路網の整備は、 国の直轄の道路を除き均衡ある県土の発展を理念として県が主体となって行ってきました。 私は、 この理念は市町村合併が進んでも堅持されるべきと思いますが、 現実の問題として同じ路線の一体的整備が崩れる心配も出てきます。 」という懸念を述べている。

一方、市側も国道362号を受け入れる準備をしていないわけではなく、静岡市議会平成16年6月定例会で、議員の質問に答える形で建設部長が次のように述べている。「国道362号の整備についてお答えいたします。(中略)移管される静岡市分の管理延長は約26kmであり、改良率につきましては67.8%でございます。今後、本川根から久能尾間の整備見通しでございますが、静岡県におきまして既に概略設計が実施されておりますが、今後につきましては、国土交通省を初め関係機関との公的協議が必要と伺っております。引き続き協議を進めてまいりたいと考えております」と述べている。

ここで一つ分かったのは、おそらく先ほど紹介した事業再評価の概要図に描かれていた静岡市側の“構想線”は、静岡県が既に行った“概略設計”のことなのだろう。
そしてもう一つ分かるのは、市がこの概略設計をそのまま受け入れるわけではないということだ。

これは完全に私の推測でしかないが、長島ダム建設当時の「確認書」の当事者ではない静岡市が、新たに国道362号整備の当事者となったことにより、本川根町改め川根本町としては、“約束”の履行を迫りがたい状況に陥ったように察する。もちろん、こんなことを狙って国が静岡市の政令市移行を行ったとは思わないが、しかし、政令市移行にあたって、国や県が“約束”の履行に関して、市に何らかの便宜を図っても道義上良かろうと思うが、そういうことが行われた形跡はない。見えないだけで実は便宜があったとしても、現実に道路整備の実をあげていない。冷たくね?
「クソ」というのは言いすぎにしても、国と県は、ダムが完成したこの時期において、既に全くこの道路には冷ややかであった。




ともかく、この平成17年を境にして、国道362号富士城峠の整備は、県と市によって二分化する。
そして県の側(川根本町側)については、これまで再三述べているとおりで、大変に遅速ながらも進められていて、平成30年時点の計画ではあるが、平成34年度すなわちこれを書いている令和4(2022)年度中に全線開通することになっている。つまり、昭和56年の事業化以来41年目にしてやっと町内の10km全線が2車線道路になろうとしている。

だが、問題なのは静岡市側である。
静岡市は、最新のマスタープランにも、富士城峠のバイパス整備を盛り込んではいない。
平成27(2015)年に市が作成した、市内山間部(「オクシズ」と表現している)の道路整備に関する計画である「オクシズ道路整備計画」を見ると、山間地では効率的な整備を図るために1.5車線的道路整備の手法を取り入れることを基本方針としており、1.5車線的道路整備自体は平成中期以降、全国山間部で積極的に取り入れられている手法ではあるものの、これをあろうことか……


静岡市建設局道路部作成「オクシズ道路整備計画」より

国道362号でも取り入れようとしているのである!(→)

右図の赤線は「1.5車線的道路整備手法により整備する区間」を示していて、青線が「従来通り2車線で整備する区間」である。
我らが国道362号は、図中では唯一の国道でありながら、見事に市境付近が真っ赤っか。
同時に、新道の事業計画もないということを表明してしまっている……涙。

こんなことでは、いつまで経っても“酷道”の汚名を返上することなど出来ないし、大人気トーマス号を用意して待ってくれている大井川鐵道からもこんな散々な評価を下されるし、川根本町民の悲願も永遠に達成できないのである。

だが、申し訳程度ではあるが、まったく全く救いがないというわけではないらしい。
図の下の方に箇条書きでいくつか注記があるのだが、なんて書いてあるかというと……

  • 国道362号については、国土を形成する幹線道路としての機能強化や、他の地域との連携を勘案する必要があるため、暫定的な計画とし、1.5車線的道路整備の手法を取り入れた整備を行っていく。
  • この計画は、社会情勢や交通状況の変化に応じて、将来的に見直すこともある。
静岡市建設局道路部作成「オクシズ道路整備計画」より

このように、国道362号だけ名指しで、1.5車線的道路整備は暫定的なものだと書かれているのだ。
これはちょっとだけ喜んで良いはずだが、でも、

……それって何十年後のことなんだろうなと言うのが、率直な感想である……。



以上のように、静岡市は従来持っていた県の整備計画からも離れて、独自の計画を進めていることが分った。

これは私の個人的な感想であるが、おそらく静岡市にとってのこの国道の重要度は、代々川根地方の住民が感じている重要度よりも、圧倒的に小さいはずだ。
四通八達に道が通じている大都会静岡にとっては、川根東街道は山間部へ通じる道の一つに過ぎないだろうが、逆はそうではないのである。
こうしたことはあらゆる道に多かれ少なかれ存在することであり、柳田国男は峠には表や裏があると表現したが、道路整備の意思決定に関わる根源的なことである。
だからこそ、峠を境に整備状況に大きな差がある道路が各地にある。

しかも静岡市には、川根地方へ通じるものよりも優先しなければならない峠道がある。
それが、旧井川村をはじめとする北部山間地域である。
旧井川村など、現在の市域の北部を占める6つの村が昭和44(1969)年に静岡市に編入されたことで、川根地方以上に遠く山深い地域へのアクセスルートを市内で管理している。
当然、地域振興は思うようには行かず過疎も進んでいたのだが、2020年にはこの地域が南アルプスユネスコエコパークに登録されたほか、昨今世を賑わわせている中央リニア新幹線の整備地になったことも追い風になっている。

各種報道の通り、静岡県が川勝知事を中心に、大井川の水問題などで県内のリニア整備に反対する立場を強める中で、知事との不仲が取り沙汰される田辺静岡市長は、建設を許可する意向を表明。このことでJRから大きな見返りを得た。それは、井川へ通じる最大の難関である富士見峠に、全長3700mの道路トンネルを工事用道路として新設することである。新トンネルは将来的に井川地区の生活道路、観光道路として利用されることになり、川根住民が百年悲願して果たせていない峠越えのトンネルが、人口僅か300人ほどが住む井川が先に実現しようとしている。

井川のトンネルが先に整備されるのは間違いないであろうから、富士城峠の国道整備はその次のテーマになれれば良いなという感じだろうか。
こちらにも何か過去の長島ダムや、現在のリニアのような大きな動きがあって、急転直下の整備が起こる可能性もゼロではないだろうか、ちょっと思いつかない。(災害関係は期待したくない)




いやー、書いた書いた。
書き始めた段階で考えていた倍は長く書いてしまった。
調べれば調べるほど、夢を孕んで盛大に大きかった計画が時代に揉まれて萎んでいった経過が痛々しく、そして興味深かったせいだ。

残念ながら? いや、酷道マニア的には喜ぶべき? やっぱり千頭へ頻繁に行っている身としてはそろそろ整備して欲しいのが本音であるこの富士城峠は、どうもまだ当分は狭いままであり続けるようだ。
何がハッピーエンドだとは断定できないのが道路であるから、ここまで述べたストーリーへの評価は皆様に委ねるが、今後この道を通行する機会があったら、疲れた運転の手を少しだけ休めて、美しい景色の裡に眠る会議場の熱を想像するのも面白いだろう。
未だ形を成すことなく峠に費やされた莫大な時間を、労ってやるのも悪くはない。


富士城峠には、行政に翻弄され、蹉跌へ消えた、

山脈横断“大ループ・バイパス”の幻が、眠っている。





完結。


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