2014/3/25 6:03 《現在地》
深谷隧道の探索は、その西口の2kmほど手前にある地ノ谷という集落の外れから開始した。
前説で、深谷隧道が富田川流域と日置川流域を結ぶものであると書いたが、その表現に則れば、地ノ谷は富田川方の最奥集落である。
谷間に10軒くらいが並ぶ小さな集落で、深谷隧道へ向かう道と、黒ノ峠に向かう道の追分である。両方とも例の分水嶺に3kmほど離れて並ぶ峠だ。
自転車を下ろして出発すると、刺すような空気の冷たさがあった。
たぶん日の出の時刻はまわっていると思うが、道が深い谷間にあるせいで、空の明るさも、温かさも、まだ届かない。そして、しばらくは白けた色合いの写真ばかりだと思う。
私は、和歌山県道221号という、まだ海のものとも山のものともつかぬ道を、夜明けに乗じて走り始めた。
始めて探索するエリアなので、普段以上の緊張感を持って景色を眺め、そこから多くの情報を得たいと思った。
探索中に何を体験するとしても、探索者の私がそれを意識しないかぎり、ただ右から左に通りすぎたことにしかならない。
だからこそ、体験を“解釈”できるだけの感覚(土地勘ともいうものかもしれない)を早く構築して、探索を少しでも有意義なものにしたいと思う。
初めてのエリアでの探索は、まずこの意識を先頭にして始めることが多い。
たとえば、出発して間もなく現れたこの川の眺めは、普通のものではない。
大都会の人工河川もかくやというほどの、ガッチガチの床固めを施されていた。
このことから解されるのは、この川が極めて旺盛な侵蝕力を持っていて、頻繁に周辺や下流に被害を与えたのであろうということだ。
「この地域は河川災害が多そうだ」という“勘”を、入手した。(ただし、それがどの程度事実であるかを確かめてはいない)
6:15 《現在地》
出発から10分ほどで1km前進し、新旧道の分岐地点に辿りついた。
現在地の標高は約200mで、左の新道を選べば、これ以上は上る必要が無い。
右が旧道だが、特に立ち入りを妨害するようなゲートも標示物もない。
いたって普通な新旧道分岐であった。
すぐ近くにあったので、ちょっとだけ新道のトンネル前まで寄り道した。
坑口の扁額および工事銘板に刻まれたトンネル名は新深谷トンネルであるが、地理院地図では「深谷トンネル」と注記がある。誤表記だろうか。(一般的な傾向だが、新トンネルの名前に「新」の文字を付けられた場合は、旧トンネルが併存されることが多い)
その完成は1999(平成11)年12月と、予想通りまだ新しい。
全長1298m、幅7m、高さ4.5mなどのスペックも、高さと幅については旧隧道の約2倍だ。順当に進化したという感じか。
特に目を惹くものも無かったので、旧道へ向かう。
旧道へ入ると、それまでの2車線道路が1車線に狭まったが、今朝まだ暗いうちに車で走った地ノ谷以西の県道221号上には、随所にまだ1車線区間が残っていたので、特に違和感もない。
変な言い方になるが、「新トンネルという贅沢をする以前の、この道の本来の姿」だと感じた。
1車線しか無くても鋪装はしっかりしているので、自動車で走っても問題は無さそうだ。
全く封鎖されてないのだから、そりゃそうか。
大規模な皆伐の伐採地が旧道沿いに広がっていた。
これは深読みかも知れないが、旧道が現役の県道だった当時には、沿道ではあまり余り大規模に伐採できなかったのかもしれない。
ここは道幅が狭いので運材トラックに積み込みをする余地が少ないし、木を伐れば自然と石も落ちるから、どうしても道路に悪影響がある。
旧道に入って250mほど進むと、地ノ谷以来ずっと道の隣にあった赤木谷という谷川を渡った。
そして道はそのまま反転して山腹に取り付くのだった。
多くの峠道において序盤と中盤の境として存在する、「麓から寄り添った川との決別、山腹への取り付き」を、ここで済ませた。
それにしても、先ほどの床固め工を見た後では案の定と言うべきか、渓相が荒れまくっていた。
特定の災害によってこうなったという感じでもない。
大雨の度に大量の土砂が流出している気配がある。
そのためか、赤木谷を渡る部分も橋ではなく、頑丈な暗渠によっていた。
だんだんと、このエリアの地形に関する情報が手に入ってくる。
道は谷間を離れて、鬱蒼とした杉の植林地へ。
まさに昼なお暗い感じのじめじめした道は、県道時代にはさすがにもう少し路上の掃除も行き届いていたのであろうが、2本の轍の部分しか鋪装が見えないほどに様々な堆積物で覆われていた。
山側の法面に連なる間知石の石垣も、良い感じに呆けてきている。
昭和24年開通当初からの石垣かも知れないと思った。
当分は、こんな感じの薄暗い道が続くものと思っていたのだが、予想外の場面展開があった。
6:28 《現在地》
突然の解放感。
その理由は、単に皆伐された伐採地に入り込んだというだけなのだが、ちょうどこれまでの旧道約700mの道のりを振り返るに、うってつけな場所だった。
スタート以来の上り坂との闘いで軽く息も上がって来たので、ここで初めてのドリンク休息を取った。
ひゅ〜!
おっかねぇっ路肩だ。
伐採前は、木が一応のガードレールというか、転落防止の障害物になっていたゆえに、正規の転落防止柵を持たなかったのかも知れないが、今となってはハンドル操作を誤れば即座に80m下の谷底へダイブできる、分かり易すぎる死地になっていた。(対岸に見えるのは少し前に通った道だ)
というか、どうやってこんな斜面で伐採したものか…。すごい。
なんかもう峠が近くにありそうな解放感だが、深谷隧道が潜り
抜ける分水嶺の稜線に対しては、まだまだ中腹も中腹である。
全長654mもの隧道が無ければ、このあとさらに
最低1時間は、上り坂を余儀なくされたに違いないと思う。
だが、早くも現れる。
稜線まで、まだこれほどの高さを残しながら……、
和歌山県最長道路トンネルランキング元王者、
「深谷隧道」が現れる!
6:34 《現在地》 旧道入口から1.2km、20分弱で深谷隧道の西口に辿りついた。
現在地の標高は約310mで、直上の稜線までは290mを残すが、これで上り坂は終わりである。ここまで近付いてしまうと、見上げても稜線までは見通せず、山壁に穿たれた坑口付近は落ちくぼんで特に暗い。厚みの分からない山へ突っ込んでいく感覚は、長大なトンネル特有のものであって、出口も見通せなかった。
また、ここまで来ても封鎖するものは何も無かった。
誰しもが大手を振って通行できる隧道のようだ。
?? なんだろう?
ここに着いたときからずっと、何か変な音が聞こえていた。
どこから聞こえてくるのか最初は分からなかったが、どうも隧道の中からだ。
長らく県内最長だったトンネルである。
坑口前にはなにがしかの偉業を誇る記念物を期待したが、そういうものは何も見あたらなかった。
見慣れ普通の坑口前風景だった。
そういえば、長大トンネル前には大抵ある市町村境を示す案内標識さえも無いのである。
峠のこちらも向こうも同じ田辺市だと前説で述べたが、田辺市が巨大化する平成17年以前から既にそういう状況だったのだ。ただ名前が大塔(おおとう)村だったというだけの違いだ。昭和31(1956)年の大塔村成立以来、ずっとそうだった。
ちょっとだけ普通ではなかったのは、1本だけ立っていた警戒標識…… の残骸?
ここまでボロボロで倒れずに立っているのは立派だが、もはや用を成していない。
標識の内容は「スリップ注意」なのも、よく分からない。隧道内がスリップ注意? 本来は、隧道を抜けてきた車に対して向けられているべき内容では無いのか?
これは、凄いな………。
なんて書いてあるのか、読めただろうか。
もちろん、右から読む。
祖國再建
…そう書いてあった。
終戦の僅か4年後に完成した隧道に捧げられた題字には、書かれている文字以上の重みがあった。
「祖国」という表現は、現代の日本では余り使われていない。
少なくとも、日本人が日本の国土をそう表現することは少ない。
終戦によって、日本は「祖国」の意味する古来固有の国土だけを残し、広大な海外の土地を失った。
そのため、我々の父母祖父母は否応なく、祖国の国土の立て直しに力を尽くさねば、生きられなかった。
そういう、戦争が残した暗い時代のスローガンが、「祖国再建」だった。
再建が無事に果たされた今日でも、祖国の重みは変わっていないはずだが、
この言葉は、先祖を敬う感謝の向こうに、少し遠くなったのだと思う。
5枚目のプレートには、小さな文字がいくつも刻まれていた。
苔が一部を覆っていて、全てを読み取れなかったのは残念だが、だいたい次の内容だ。
昭和二十三年
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和歌山縣知事
小野真次書
小野真次氏は、昭和22(1947)年に和歌山県初の公選知事として当選し、昭和42(1967)年まで、5期にわたって知事を務め上げた人物である。
知事が扁額を揮毫したとあれば、これは単なる集落間交通路以上の期待感を持って為されたと考えるのが常套だろう。
それ以前に、我が国のトンネルに掲げられた無数の扁額の中にあって、隧道名以外の題字を掲げた例は極めて少なく、それ自体が貴重である。
この隧道には確かに県内最長の地位に相応しい、格式めいたものが与えられていたのだと、そう理解した。
なるほど、なるほど、これは一本取られたぜ。
この隧道に込められた「本気度」を、ばっちり扁額が、教えてくれましたな……。
こいつは、私も心して挑まねばなるまい!!
幾百、幾千の“声”が鳴り止まぬ、真闇の洞内へ、いざ!