嫌な予感は的中した。
夕暮れの迫る峠直下でのパンク。
修理が終わり、再出発となった彼の前に、98年来のあの壊滅的な崩落地が迫っていた。
いよいよ、畑の沢林道のレポートも最終回。
どんな結末が待ち受けているのか。
<地図を表示する>
峠の前後の区間は、切り立った断崖に張り付くような道である。 この景色は、田沢スーパー林道の黒崎森隧道付近を思い起こさせる。 最近は新たに設置されることのめっきり減ったと思われる「ガードロープ」が、ほとんど用を成さなくなった状態で、一応は崖への侵入を留めようとしてくれている。 近代的な林道とは異なり、排水設備や待避所などはほとんど無い。 秋田市にとって、最長かつ、この一帯を貫通する唯一の林道なのだが、余り重要とは考えられてはいないようだ。 |
この狭い切り通しこそが、98年の甚大な落石事故により、その後少なくとも2年間は不通となっていた箇所である。 今回はご覧のように、すっかりと復旧していた。 とはいっても、再発防止と思われる工事はなされておらず、只あの膨大な土砂をどかしただけの様だ。 それでも、この道が『復活』していたことは、この上ない喜びである。 長い黄昏の時代を経て、森へと還って行く道とばかり思っていただけに、安心した。 ちなみに、崩落中に、ここを訪れた経験のある読者もおられることと思うが、ひどい惨状であったと言うことに異議を唱えるものはおるまい。 それほどの崩落であった。 記憶を元に書かせてもらえば、直径3mほどの岩隗2個がこの切り通しを、さながら天の岩戸のように、閉ざしていた。 もちろんその上には崩土が積もり、巻き添えを食った木々が、無残にその根を晒していた。 それでもなお、ここを突破せんとするものには、2つの厳しい選択支があった。 一つは、岩隗や崩土をよじ登り、木々の根や枝と格闘して、乗り越える道。 わずかだが、こうして越える者がいたようで、99年にはそれなりに獣道のようなものができていた。 もう一つは、「天の岩戸」には、小さな小さな隙間があったので、ここを、潜り抜ける道。 この道は、…まさにスリリング。 不安定な岩隗の隙間は、高さ1m、幅40cmくらいだったと思うが、ここを通るのは気分の良い物ではなかった。 しかし、チャリでの突破には、愛用された。(というか、トリオは使用した。) この狭さゆえ、同じ2輪と言えどバイクでの通行はできなかったようで、引き返してくるライダーに遭遇したこともあった。 そんな崩落地が、実は密かにスキでもあったのだが、…復旧していた。 うれしかったけどね。 余談だが、奥に見える白いものは、残雪である。 例年、沢の奥地である西向き斜面のこの一帯にのみ、7月ごろまで雪が残る。 しかし今年は暖冬であったようで、もうわずかに残るのみであった。 |
もう、峠までは2,3のコーナーを残すのみ。 近場に見える山々のほとんどよりも高い位置にいる。 最後の力を振り絞るかのような、強烈な西日が照りつける。 しかし、もはや先ほどまでの炒るような熱気は、微塵も感じられない。 愛する道が、まもなく、私をその頂点に誘おうとしていた。 どこか、寂しさを覚えた。 それは、妙に白々しい、この日光のせいだったか…。 分かっていた。 …、 いつまでも走っていたかったのだ。 この道を、いつまでも。 これ程に満足を覚えた道は、本当に久々であった。 自分の山チャリの原点に、非常に近いこの道。 今では共に走ることの無くなった輪友との、多くの思い出の眠る道。 かつて、この峠への道は、延々と思えるほど長く、苦しかった。 しかし今回、この峠はもはや、今の自分には敵しなくなっていた。 自分の体力が…… それは多分違うのだ。 峠が、道が、誘ったのだ、私を。 そう感じられた。 | |
この地点からは、訪れるもの皆が、その余りの美しさにため息を漏らすであろう景色が望める。 これはズームで撮影したものだが、実際には、さらに贅沢なパノラマが広がる。 ここでの主役はやはり、遠くに浮かぶように見える男鹿半島であろう。 この地を今回“奥の窓”と勝手に命名したが、これは言うまでも無くの地点との対比である。 ここからの眺めは、なんと言えばいいか、からの眺めは、単純に美しい…、大パノラマ!ってかんじかな。 一方、ここからの景色は…、意外性。 深い深い白山沢の峡谷の隙間に見える、はるか遠くの男鹿の山並み。 絶妙な配置である。 そしてもう一点、額縁のような手前の山々が、今まさに越えてきたその場所であると言うことから来る征服感が、感激に上乗せされる。 なんともいえない、本当に絶妙と言うしかない、眺めである。 |
寂しげに木々が孤立する稜線が見えてきた。 まさにあそこが峠である。 このコーナーを曲がれば、そこに峠が在るのだ。 右のほうを見ると、遠くに輝く海面がかすかにオレンジ色を帯び始めていた。 |
太平山地では河北林道などでも良く見られる砂っぽい脆弱な法面の向こういっぱいに、空が現れた。 これはもう、文句なしに決まりでしょう! 峠である。 のスタート地点からは、約18Km。 畑の沢林道起点と考えられるからは、約13Kmの長い行程であった。 峠から眺められる、今まで決して見えなかった、仁別側の景色を、パノラマでご覧いただきたい。 西日が強く、峠から続く稜線は、シルエットになってしまっている。 その中で目立って高いのが、駒頭の森(標高674m)であり、その山頂近くまで小又林道が伸びている。 この稜線は長く、徐々に標高を落としながらも、私の山チャリ発祥の地、大滝山(標高206m)を経て、遂に秋田市街の平和山公園に至り、終わる。 | |
そして、峠の脇の小山から、峠を撮影。 いかにも峠らしい、峠である。 |
仁別側は、白山側よりも急な勾配で一気に沢底へと下って行く。 峠を離れて一つ目のコーナーは、切り立った断崖に面しており、その先にこれから下って行くべき道が延々と眺められるポイントだ。 写真を見ての通り、下りも険しい断崖絶壁の道となる。 路面も凹凸が激しく、高速になりがちな下り道、慎重に行きたい。 |
急な下り坂を下ると、次々にガレた岩場が現れる。 下り坂でとまるのは気持ちのいいものではないので、ほとんどレポートにならないのをお許しいただきたい。 だいぶ下り、で眺めた道の辺りから、今度は峠のほうを振り返ってみた(写真右)。 突き抜けるように青い空に二筋の飛行機雲が。 峠に最後の別れを告げるような気分でチャリのベルを勢い良く鳴らした。 後は振り返らず、一気に終点まで走った。 |
そのまま幾つかのヘアピンコーナーを駆け抜け、見えてきた橋を渡る。 この橋が、畑の沢橋で林道名の由来となった橋だ。 考えてみると、ここまで延々19Km近く、橋が無かった。 小さな沢を何度か跨いだが、橋はなかった。 そして、この橋こそが、畑の沢林道の終点である。 ここで道は中ノ沢林道と合流し、以下は中ノ沢林道の道なりとなる。 写真左は、畑の沢林道終点から、今来た道を振り返って撮影。 昔からある「一般車両通行禁止」の看板が出ているが、前回まで確かにあった「崩落のため通行止め」は取り外されていた。 写真右は、中ノ沢林道から畑の沢林道が分かれてゆく部分。これも振り返っての撮影。 左が畑の沢林道である。 正面の道が中ノ沢林道本線で、五城目町北の又へと、これも長い峠越えの道なりとなる。 いずれ、レポートを掲載したい。 |
さらに4.5kmほどのなだらかな沢沿いの下り道を経て、全線オールダートであった今回のレポートの終点、仁別中島橋に至る。 この区間の途中には、幾つかの支線林道があり、また温泉の沸くポイントがあったりするが、それらのレポートはいずれの機会に譲りたい。 林道の入り口には、つい最近設置されたらしい真新しい看板(内容は、一般者通行止め)が立っていた。 この先の道は、古くは仁別林道として開発されたみちである。 さらにその先は、仁別の集落を経て、秋田市街地への長いロードとなる。 それらは現在、県道15号線として整備されている。 |
今回の畑の沢林道は、本当に楽しかった。 山チャリの原点的楽しさを満喫できたと思う。 それは、私の場合、 “あの角を曲がるとどんな景色かな?” というような、好奇心が満たされる楽しさだ。 最近では、たくさんの目的を持って旅することが多くなった。 …レポート取り、写真撮り、旧道廃道トレース、などなど。 また、遠くを走ることがおおくなり、それゆえに旅は忙しいものとなっていた。 気持ちの余裕も減ったように思える。 畑の沢林道は、まるで旧知の友のように、そんな私をやさしく迎え、そして、癒してくれた。 「お前の復活を、私は心より、喜びたい。」 END
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