2019/4/2
国道153号の大瀬木交差点を西へ折れ、「沢城湖」の案内がある市道へ入るのが、鳩打峠へのルートである。
道はすぐさま伊那谷に背を向けて、木曽山脈から流れ出る無数の谷が生み出した複合扇状地を直登していく。
この間、正面方向に顕著な鞍部が見えており、そこが大瀬木を5〜600mの高位置から見下ろす鳩打峠だ。
チェンジ後の画像は、ある程度登ってから振り返って撮影したもので、伊那谷を挟んで伊那山地を臨み、
背後に3000m級の赤石山脈が聳える好眺望であった。かつて鳩打峠を通った誰もが目にした風景だろう。
しかし、今回の私は時間的な都合からやむなく序盤を自動車の力で登ったので、惜しい気持ちがした。
2019/4/2 14:07 《現在地》
車を駐め自転車に乗り換えたのは、大瀬木から約2.8km登った海抜800m付近だ。
ここにある丁字路が現在の林道鳩打線の起点であり、右折するのが林道である。
特に車の進行を妨げるものがあったわけではないが、峠への礼儀としても、発見を見逃さないためにも、ここからは自転車で登ることにした。
この入口、様々な標柱や看板や石碑が立ち並んでいて、とても賑やかだ。
ここまで抑えられていた鳩打峠の主張が、急にここで露出してきた印象である。
まず一番手前の矢羽根標柱は、長野県が整備している信濃路自然歩道のもので、そのすぐ後に見える林道標は、「林道鳩打線、管理者飯田市、延長12935m、幅員3.6〜4.0m」といった緒元を明らかにしていた。
峠のトンネルまではここから3.9kmなので、峠を越えた先の道の方が遙かに長いことになる。
丁字路の奥角に安座され、周囲をしっかりと刈り払われているのは、高さ2mほどもある立派な記念碑だった。(手前にある小さな碑は歌碑だった)
(表面)
鳩打林道記念碑 郵政大臣井出一太郎書
(裏面)
起工昭和十九年十月
竣工昭和三十四年十二月
昭和四十五年二月建之
伊賀良森林組合
事前に得た竣工時期が、永遠のいしぶみにしっかりと刻まれていた。
碑文から推測するに、工事を主導したのは、昭和31年に飯田市と合併するまでこの地にあった下伊那郡伊賀良(いがら)村の森林組合であったらしい。
かつての伊賀良村の範囲を旧地形図で見ると、峠を越えた黒川の流域も相当広範囲に広がっているので、そこからの伐出目的で一村内にほぼ完結する林道を開削したのだと推測が可能だ。
そして、300mを越す長いトンネルを含むこの林道工事を政治的に支えたのが、長野県(現在の佐久市)出身の政治家で第29代郵政大臣などを歴任した井出一太郎氏だったのだろう。
目を林道の進行方向に転じずれば、そこにはこの先の道行きを占うような2枚の看板が。
一つは、3.9km先にある鳩打隧道の高さ制限が3.0mであることを示す予告標識。
もう一つは、飯田市が設置した「林道鳩打線 落石注意」と大書された看板である。
前者は古い林道隧道…しかも数年前まで老朽化で呼吸を失いそうになっていた…に対する覚悟を試すようだし、後者はどこが落石注意というのではなく全線そうなんだというような怖さを演出しているように見える。
まあ、私の探索のメインである“初代隧道”の捜索範囲は、この鳩打隧道よりも上の話なので、自転車の機動力でサクッと峠近くを目指しちゃいましょう!
そこで手こずるようだと、時間的にも本戦は無理だぞ。
14:26 《現在地》
道の悪さに対する心配は全く杞憂で、舗装された真っ当な1車線道路が、安定した様子で伸びていた。
既に起点から1km近く前進し、地図上に見える最初の九十九折りに差し掛かっている。
ここまで注意点は、途中にあった飯田国際射撃場との分岐を、間違いなく直進して正しい峠への道を選ぶことだけだろう。
九十九折りのヘアピンカーブ部分は、大型車も楽に通れるように幅が広くなっており、林業の大幹線として活躍してきたことを伺わせた。
道の周囲はいかにも信州らしいカラマツの林が広がっていて、4月に入ったとはいえ標高1000mに迫るこの地はまだ寒々しい。
寒々しいというか、寒い。
そして、さっきから峠の方角に掛かっている雲が、怪しい。
しかも、秋田県に長く住んでいる私には、この雲の意味するところが手に取るように分かっていた。
やっぱり降ってきた、雪。
大粒の雪がバラバラと音を立てて降り注ぎ、アスファルトを勢いよく転がった。
季節外れの、という表現が果たしてここで合うのかは分からないが、
周囲に残雪がない中でのことだから、ある程度はそうなのだろう。
さすがに積もらないと信じたい。
鳩打峠への登路が付けられているのは、茂都計(もつけ)川という変った名をした谷沿いで、まさにその源頭に峠の鞍部がある。
したがって路肩からは大抵この谷を見下ろすことが出来るが、その谷底に近い対岸斜面に、コンクリート製の桟橋のようなものが発見された。
なにかの廃道かと色めきだったが、良く地形図を見ると、あの位置には水路があるようだ。
もう少し上流から引水し、沢城湖に注ぎ込む水路が。
…………というか、あっという間に雪が積もり始めている……。
14:38 《現在地》
バラバラと大粒の雪が落ちるなか、起点から約1.5km、第2の九十九折りが始まるところまで来ると、道の外に石碑があるのを見つけた。
そこは道から10mほど下の緩やかに傾斜した広場のように見える場所で、人工の地形なのかどうかは分からないが、路上からよく見える位置だ。
自転車を降り、斜面を下って間近に寄ってみた。
碑は台座も含めた高さが70cmほどの落花生型の自然石で、表面に何かの文字が刻まれているのは分かったが、風化が激しく読み取れなかった。(碑面の大写真)
印象としては石仏だ。馬頭観音か二十三夜塔のような感じ。
これが石仏だとして、問題はその立地。
なぜ、道路沿いではなく、その一段下にあるのかということが疑問となる。
新旧地形図を比較してみると、かつての道、すなわち開通記念碑がある林道が整備される以前の、伊賀良と清内路を結んでいた“旧鳩打峠道”は、全体に車道らしい九十九折りを描くことなく、ほぼ直登に近い感じで茂都計川の左岸斜面を上り下りしており現道とは違いが多いが、ところどころ重なっていたようだから、この石碑も旧峠道の名残かもしれないという推測は可能だ。
もしそうだとすると、私がこれから探しに行く“初代隧道”とも、時代を一にする碑だったのかもしれない。
狭い谷の中で大々的な林道工事の影響は大きかったようで、この古い峠道の痕跡と断定できる発見は周辺になかったが、興味をそそる“謎の碑”であった。
切り返して第2の九十九折りへ。
今度はスパンが大きく、自転車の速度では九十九折りという印象はあまりない。
山に入る前までは、あんなに爽快に見通せていた伊那谷の下界は、完全に雪雲と雪そのものの遮蔽効果に遮られ、見えなくなってしまった。
こういう状態で峠に挑むのは、いつだって不安な気持ちになるものだ。
いま私に心がけられることがあるとしたら、出来るだけ行動を急ぐことだ。少しでも明るさがあるうちに目的を達して下山する必要がありそうだ。
足に力を!
14:50 《現在地》
頑張って、標高950m付近の尾根突端の切り返しに到達したら、急に晴れ間が!
相変わらず下界は白っぽかったが、抜けるような青空が頭上に展開してホッとした。
ここには沢城浄水場という施設があり、写真左に見えているのがそれだ。
しかし、晴れたのは一瞬で、すぐに雪雲の暗さが戻ってきた。
そして、道も尾根の安穏を長く享受することはなく、先ほどよりも高い位置からもう一度、茂都計川の谷へ進入していくのだった。
すると、法面がいかにもな砂地を見せ始めた。
無駄に廃隧道探索の経験値が豊富な私が思うに、砂地の山は隧道には不向きである。
よほど注意深く保守しないと、すぐに崩れてしまうから。
まだこれが全てというわけではないだろうが、峠まで残り1.5kmほどのところでいかにもな砂地の山を見せられて、早くも“初代隧道”の悲しい末路が目に浮かんだような気がした。
……ほんと、砂地は駄目だから……。
というか、何か残っていてくれるだろうか。
完全に痕跡がなくなっていて、どこにあったかさえ特定できず終わるのが一番悲しいパターンだが、情報の希少性からして仮にそういう結果に終わったとしても、このレポートは没ネタにはならないよ。(突然の予防線)
谷線の奥に峠のピークが明瞭となった。
あそこに戦時中から工事が行なわれていたという鳩打隧道があり、さらにもっと古い大正時代の隧道が眠っているというのか。
稜線の周辺は植林が進んでいるのか妙に青々としており、どちらかといえば平凡な印象だが、宝の情報を持つ今の私には、宝の山に思えた。
変な天気だ。
今度は激しい雪と日差しが同時に現われた。
峠には暴かれまいとする何かがあって、それ故に、初めてその何かを意識して迫ろうとしてきた私を幻惑により退けようとしているのだ……、そんな想像を楽しみながら、鍋鉉式に山ひだを迂回する度に大きく近づいてくる峠を着実に目指した。
たぶんここ、
うおー! 大・絶・景!
って出来る場所なんだと思う。
でも、いまは電源が入ってない画面みたいに、何も見えず。
良かろう!
俺とお前(初代隧道)の戦いには、余計な歓声など不要ということだな。
必ず暴いてやる!
……というわけで、東屋が見えてきたということは、峠のトンネルに到着したようだぜ。
15:26 《現在地》
起点から3.8km、海抜1090m、鳩打隧道へ到達した。
坑門の直上に鞍部が見えているが、比高はせいぜい60〜70mだろう。
この範囲のどこかに、初代隧道があったはずだ!
探せ!