◆◇ 伊豆半島の明治隧道たち ◇◆
伊豆半島で古い隧道と言えば、なんといっても天城山隧道が有名だろう。
明治38年に下田街道の最高所、旧天城湯ヶ島町(伊豆市)と河津町の間を隔てる天城峠に開通した全長445mあまりの総石造りの隧道は、平成13年に道路隧道としては全国で初めて国の重要文化財に指定された。
この端正な隧道は古くから多くの文化人に愛され、川端康成の『伊豆の踊り子』の舞台として特によく知られている。
しかし、伊豆にはこれよりも古い道路隧道が何本か存在している。
明治29年に旧伊豆長岡町(伊豆の国市)と沼津市を隔てる丘陵地に掘られた全長170mの三津坂(みとさか)隧道はその一つである。
文豪・井上靖が『しろばんば』などに登場させたこの明治隧道は、最近まで泥と藪の奥に埋もれていたが、地元のNPOが観光資源として目を付け"第二の天城山隧道"として整備しつつある。
だが、それより遙かに古く作られた隧道が、ほとんど知られぬままに眠っている。
旧中伊豆町(伊豆市)と伊東市とを隔てる柏峠。
そこにかつてあった柏隧道は、明治15年の竣工とされているのだ。
◆◇ 隧道建設の背景 ◇◆
今日の半島の道路地図を元に考えれば、伊豆半島を縦貫する下田街道の要所として後に国道指定も受けた天城山隧道と、それより23年も早く開通していた柏隧道を比較して、後者がより重要な路線であったようには見えない。
今日の伊豆半島における幹線道路網は、海岸沿に半島を周回する国道135号および139号、そして南北に縦貫する414号が中心となっているのであって、柏峠の後を継いだ冷水(ひえかわ)峠も主要地方道に指定はされているものの、余り改良の進んでいない自然度の高い県道として知られているぐらいだ。
この地に半島でいち早く隧道が建設された経緯を理解するためには、明治以前からの地域産業と、その運搬路を理解する必要がある。
柏峠は旧中伊豆町冷川と伊東市を結ぶ峠であるが、歴史的に中伊豆町一帯は大見郷と呼ばれて来た。
天城山脈の懐に抱かれた山深い大見郷の産業は山稼ぎに依存しており、その主な産物としては木炭・山ワサビ・椎茸・材木などがあげられる。特に天城山では良質の木炭が焼かれ、幕府御用炭の産地として知られていた。
江戸時代から明治初期にかけて、これらの産品および内陸で生産された年貢米や石材等の江戸(東京)回送における中心的ルートとなったのが、宇佐美峠(冷川〜宇佐美)や鹿路庭(ろくろば)峠(冷川〜池)、そして柏峠(冷川〜伊東)である。
これらの峠を利用して一旦東岸沿いの各港へ運び出し、それから先は海路によっていた。
天保7年(1836)に書かれた『熱海村外十二箇村願書』のなかには、「当村地内者、当国御林天城山之御用炭津出シ之路次ニ而、冷川村迄山中二利余極難之峠壱里余、人馬通路之道普請年々三度ツヽ」とあり、これは柏峠が年に三度も村人総出の道普請を行わねばならないほど重要な通路であった事を示している。
当時、険しい海蝕崖が続く海岸通りの宇佐美と熱海の間には不通があって(開通は大正14年…この旧道のレポートはこちら)、伊東一帯は関東から見た半島内陸部への上陸地であり、柏峠などの峠が玄関口となっていたのだ。
以上のような背景により、柏峠に半島第一の隧道が掘られた事は、決して突飛ではなかったのだと考えられる。
◆◇ 南遷を続けた峠の歴史 ◇◆
柏峠(海抜450m)の最も古い道は中世から利用されて来たと考えられており、上記昭和34年の地形図にも点線で記載されている。
この道は馬も通ったが勾配が険しく、"極難の峠"とされたのは前述の通りで、明治15年に冷川と伊東の有力者が相諮って峠の南の鞍部を貫く全長67mの隧道(海抜430m)を完成させると共に、取り付きの道も馬車が通れるように改修した。(上の地図では、一本線の車道で描かれている)
今回踏破する道も、この明治15年開通の“明治新道”である。
新道開通によって往来は非常に便利となり、当時徐々に増え始めた一般の旅行者も数多く通って天城・修善寺方面に遊んだという。
次いで、修善寺方面から伊東を目指し東延を続けてきた伊東街道(県道「伊東大仁線」)が、峠の麓の冷川まで開通したのは明治31年で、そこから先伊東までの山道は柏峠を避け、より南側の冷川峠(海抜350m)を新たに切り開いて通すこととなった。
明治39年に伊東街道は全線開通し、柏峠は開通からわずか24年、明治のうちに早くも旧道となった。
伊東街道は峠の高さこそ旧道より下がったが、距離はかなり伸びた(後述)。
実際に当時、冷川から伊東へ行くには新道を馬車で行くよりも、柏隧道を歩いた方が早く着いたという。
旧道となった柏隧道だが、一時地震の被害を受けて通行できなくなったりしたものの、その都度復旧され“歩きの近道”として利用されていたという。
しかし昭和33年、半島全域に甚大な豪雨災害をもたらした狩野川台風が伊東側の坑口を破壊してしまう。
それ以降は、復旧されることなく今日に至る。
なお、伊東街道(冷川峠)のその後も簡単に紹介する。
県道伊東大仁線から主要地方道「伊東修善寺線」になった道は、狭隘屈曲を残したまま県内唯一の「国際観光路線」に指定されたりしたものの、通行量の増大に絶えかねて、近年ではかなり南寄りに新道である「中伊豆バイパス(有料道路)」を開通させている。
このバイパスも今年(2008年)7月には無料開放を予定しており、柏隧道はますます人遠い場所になりそうだ。
名前を途中で変えながら、三度も南へ遷った冷川と伊東を結ぶ峠道。代替わりする度に距離が増えていくという、奇妙な変遷を遂げている。
冷川〜伊東の距離 | |
---|---|
柏峠 | 8km |
柏隧道 | 8.5km |
冷水峠 | 11km |
中伊豆BP | 13km |
◆◇ 探索計画 ◇◆
各種資料(伊東市史、中伊豆町史、ネット情報など)を用いた事前調査によって柏隧道の歴史については大体分かったが、狩野川台風によって埋没した伊東側坑口は行方不明ということであり、伊東市街から坑口までの旧道も現状が不明であった。
現行の二万五千分の一地形図には、寺田川右岸に沿って旧道らしい点線の道はあるが、それも隧道付近で途絶えており、もちろん隧道も描かれていない。
肝心の柏隧道についても、冷川側から坑口まで行けるという事だったが、内部の状況について詳しい状況は分からなかった。
よって、今回の踏査計画における目的は次の2点となる。
- 柏隧道を含めた旧伊東街道の全線踏破
- 柏隧道の内部状況確認
具体的な計画としては、探索開始地点は伊東市猪戸一丁目にある小川橋とした。
資料不足のため伊東市街地における街道の起点が分からなかったが、とりあえず旧地形図にも描かれている橋ということと、「中伊豆町史」に経由地として記載のある猪戸地内ということで決定した。
また探索終了地点は冷川ではなく、現県道から旧道が分かれる沢内バス停付近とした。
想定される距離は、「小川橋」⇒「柏隧道(4.5km)」⇒「沢内分岐(0.7km)」、合計5.2kmほどである。
このうち、小川橋から柏隧道まではかなりの荒廃も予想されるので、本来は冬期間の藪が落ち着いた時期を選びたかったが、“気になったときが行き時”だというオブローダーの原則に則り、2007年7月26日、真夏の単独行となった。