2007/9/1 13:56
前話公開後、私がどのような危険に遭遇したのかを公開して欲しいというコメントが多かったので、恥ずかしいから余り書きたくないのだが、簡単にレポートする。
道路台帳にはあたかも県道が存在するように描かれた、城山の北側斜面(それは余りの山岳的険しさゆえ「城山北壁」という言葉を連想させた)に、小雨の中突進した私。
しばらくは何とか道の跡を辿っていたが、結局それも途切れ、ただの斜面へと変わっていった。
なお諦め悪く斜面を進んでいくと、最後にはどうしょうもない急な崖と沢に阻まれ、撤退を余儀なくされたのである。(ここが前回の最後)
黙ってきた道を引き返せばよいものを、私は「6の好奇心」と「4の使命感」によって、この谷を下ってみたい衝動に駆られる。
使命感というのは、一体自分がどこまで進めたのかをレポートでお伝えしなければ、という気持ちだった。このまま引き返したのでは、自分がどこまで前進したのかを客観的に説明出来ないと思ったのだ。(この谷も崖も地形図には描かれていないので)
谷はおおよそ45°の傾斜で、ほぼ真っ直ぐ相模川の河床へ向けて降下しており、その両岸は切り立った岩場であった。
この険しい山の名は城山というが、その名の通りかつて頂上に津久井城という戦国の山城があったらしい。
ある読者は、この谷を津久井城の竪堀の跡ではないかという感想を寄せてくださったが、天然の地形に手を加えてそのような施設に代えた可能性もあると思う。
ともかくこの谷は、一直線に谷底を目指した。
猛烈に蚊が多いので、私は殆ど振り返ることもなく、ガレた礫の山を蹴り崩しながら下っていった。
しかし、下っても下っても、なお谷底は現れない。
私が前進を断念した位置と相模川の河床とでは、100mもの高低差があったのである。
谷底が思いのほか遠いことに、次第に不安を覚え始めたときには、既に容易に引き返せる状況ではなくなっていた。
再開発事業が急ピッチで進み、次々と高層ビルが建ち始めた相模原市の橋本新都心からは、ここまで約5kmの直線距離である。
相模川を取り囲む河岸段丘上には、新興住宅街が広がっている。
ここは、紛れもなく「都会」の「片隅」なのである。
だが、谷を下る私の目に映る景色は、人の手が及ばぬ深山そのものであった。
かつて、森吉山の奥深くへ泊まりがけで潜入したことがある。
あの朝に見た景色と、何ら違いを見いだせない。
樹齢数百年の巨木が幾本も谷を塞ぎ、その上に新しい生命を誕生させようとしていた。
森は都市の包囲に対し、あくまで高潔を貫こうとしているかのようだった。
えっ… .
この色って…
まさか…
私は、ようやく見え始めた谷の終わりに、凍り付いた。
ゲーッ!
…ダムの下にも湖があるの?!
ヤバイ… どうしよう……。
私は、谷底へたどり着ければ、後はどうにでもなると思っていた。
ダムは放水しておらず下流に全く流れが無いことを知っていたので、川原を歩いて小倉側の県道終点へ行くことも出来ると思ったし、対岸へ渡ってからチャリを回収しに戻っても良いと思っていた。
だが、私が下っていた谷の真下に、大きな水溜まりが有ることは想定していなかった。
水溜まりとは言っても、それは大層深いもので、そのうえ、岸辺はコンクリートの高い擁壁に護られていた。
このままでは、河床へ下ることは出来ない…。
引き返そうにも…
こんなところを無理に下ってきたものだから……。
あー! 俺のバカバカ馬鹿!
命の危険を感じた私は、写真の撮影を中止した。
私には、本当に余裕が無くなったとき、カメラをフトコロへ仕舞う癖がある。
というわけで、ここで写真のタイムスタンプは数分間飛んでいる。
右の写真は、最大の難所をどうにか突破し、崖すれすれの立木に身を預けて精一杯腕を伸ばして撮影した城山ダムだ。
奥の緑色のプールに向かって落ちていた沢を脱出し、左に写る崖を必死に横断、命からがらここへ来た。
なお河床へのラスト5mの崖が立ちはだかったが、とにもかくにも、最大の難場はこの斜面の横断だった。
こんなオブローディング的にはどうでも良い場所で大怪我をするのかと、私は呆れてしまったよ。自分のダサさに。思慮の浅さにも悲しくなった。
魔が差したのだろうな。
でも恥をかきたくない一心で、スリッパみたいな靴に、己の全神経を懸けた。
で、最後はこの崖を何とか下って、河床へ着いた。
辺りは裸の岩場ばかりで、転落すればおそらく骨折を免れないだろう。
そんな恐怖がリアルにイメージされ、私の動きはいつもに増して精彩を欠いた。
相変わらず蚊も多くて、しかも澱んで乾いた谷の水は異臭を放つ。
私の針穴に糸を通すような神経を、猛烈に逆撫でした。
私の天運が、この日の愚行の数々をどうにかフォローしてくれたので、本当に良かった。
同じ事を繰り返すまいと思う。
面倒でも、最後の最後(河床が見えたとき)で引き返していれば、こんな敗北感に震えることはなかったのだから。
澱んだ水が点々と泉を成す、広々とした河床の様子。
腐臭が漂うそこは、動くものの全くない、まさに死んだような景色だった。
あの時のワンミスでここへ叩き付けられたのかと思うと、今でもぞっとする。
近くに手頃な固定堰があったので、これを使って対岸へ横断した。
下流側の県道終点まで、容易に川原を歩くことが出来る状況だったが、そんな気にもなれなかった。
まずは、チャリを回収しよう。そして、一旦自分をリセットだ。
端正な姿の城山ダム堤体。
しかし、この死んだ川の中から見上げるとき、とてもその偉容を肯定する気にはなれない。
「お前が殺したんだよ」
…なんて、無慈悲に言い放ちたくもなる。
「誰が殺したの?」
「人間がね、殺したの。」
このあたりが、私にとって死地になり得た。
対岸には河床から脱出するためのはしごが有った。
そして、これを登ると無人のダム関連施設があり、一般車通行止めの寂れた車道が、山の上の国道まで通じていた。
そこをしばらくトボトボ歩きながら、辛くも掴んだ生還の喜びを噛み締めた。
侮りと無思慮が私の命を脅かした。これは、里山のたいへん苦い体験となった。
14:41 【城山ダム上】
無理矢理谷底を経由したお陰で、自分がどこまで辿り着いたのかは判明した。
ダムからは、ろくすっぽ進めてなかった事が、はっきりと分かってしまった。
直後、再び藪へ分け入りチャリを回収。
役に立たない私の「九死に一生」報告は、これでおしまい。
以下、県道レポートを再開する。
チャリとともに一気に移動。現在地は相模原市小倉宮原地区。
県道511号の起点として一般に認識されている小倉橋交差点の200mほど南の地点である。
以後、本レポ内ではここを「偽起点」と称することにする。
この宮原地区には、偽起点に始まる県道の、最初の“ヘキサ”がある。
そこには、これまで幻のようで掴み所の全くなかった「県道511号」が、ナンノヘンテツもない道として存在している。
軽くショックを受けたが、そんなショックを理解してくれる人がいるとは思えない。少なくともこのレポを公開する前には。
それでは、今度は偽起点を突き抜けて、本当の起点へ向けて走ってみよう。
両者の距離は約2.6km、うち700mほどは艱難辛苦の末攻略済ということになるが、もはや完全攻略の線は失せている。
まあ良い。道があるところまで進んでみよう。
右の写真は上の地図の「現在地」から、偽起点方向を撮影。
先に交差点が見えている。また、さらにその上を跨ぐように巨大な橋が架かっている。
この特徴的なアーチ橋の姿は、当レポでも既に何度か遠景として登場していた。
お分かりだろうか。
(写真左)偽起点のT字路である。
突き当たりの道は、番号一つ違いの県道510号長竹川尻線である。
そして、向こうに見える巨大なアーチ橋もまた、同じ県道だ。
(写真右)同地点から右手を望むと、相模川に仲良く架かる大小のアーチ橋を見ることが出来る。
手前の低い橋は昭和13年に架けられた小倉橋。奥の巨大な橋は平成16年に開通したばかりの新小倉橋である。
素晴らしい対照美だと思うが、地元にとっても自慢の種らしく、夜は異なる光線でライトアップされると言うことだ。
新しい橋の開通で、それまで悩みの種だった古橋の価値が見直された好例であろう。嬉しいものだ。
偽起点である。
一見するとT字路だが、よく見ると互い違いの変則十字路になっている。
奥に写る電話ボックスを挟み、二本の小道がそれぞれ上り坂と下り坂として分かれている。
どうやら道路台帳が示す県道は、右側の下り道のようだ。
偽起点を通過する県道510号側には青看が設置されていた。
これには確かに変則十字路の形が描かれているが、県道表示はおろか行き先を表示するスペースさえ割かれていない。
まったく青看の感知しない道になっているようだが、これも予想通りと言ったところか。
なお、「偽」だなどと言っているが、もしこの交差点に県道511号のゼロキロポストでも有ったら大変である。
私の探索の全てが否定されかねない。おそるおそる交差点の四隅周辺を探してみたが、それらしい物は見あたらなかった。 ホッ。
15:30 【小倉橋交差点】
目立たない道だが、舗装もされているし、それなりに通行量もあるようだ。
地図を見るとこの先は行き止まりだが、途中に小倉スポーツ公園がある。
あとは、太公望やキャンパーなどによる、相模川の川原への交通需要もある。
道は始め一気に下り、殆ど相模川の水位に近いところまで行く。
腰まで川に浸かる鮎釣りたちが幾人も見える。手前の広い川原は、手軽なオートキャンプ場のように開放されている。
対岸には、ダムからの通常放水を受け持つ眼鏡型の吐水口が見えた。
津久井湖底の取水口からここまでの相模川は、大水の時以外、地下にだけ流れている。
故にダムの直下は、大河らしからぬ死んだような川になっていたのである。
15年の歳月と巨費を投じて築かれた新小倉橋。
化粧の煉瓦タイルが少し見える他は全てがコンクリートの塊で、極めて重厚なインプレッションを与える。
真下から見上げた姿など、空を覆う天蓋のようでさえある。
そして、本県道とこの真新しい橋は、全くの無関係ではないのだった。(詳しくは後述)
この区間にも、何か県道である証がないか、私は草むらにも目をこらして進んだ。
しかし、相模川のダム開発を行った「神奈川県企業局」の境界標が所々に見られるのみで、県道の証は何もないのだった。
結局この探索…
県道に関しては、
収穫ゼロですかー!
一度川原近くまで下った道は、新小倉橋の下を底として、今度は河岸段丘の上へと登る。
すると、道を完全に塞ぎうる巨大なゲートが現れた。
近くの案内看板によると、この先はスポーツ公園の敷地であり、夜になると門は全閉されるということだ。
もはや県道らしさなど微塵も感じないのである。
たまたま道路台帳の県道の位置に道があると言うだけで、この道が県道だというわけではないのかも知れない…。
もう、そこまで弱気にならざるを得ない。
だって、本当に何の手掛かりもないんだもの。
閑散としたプールやらテニスコートやらをフェンス越しに見ながら、真っ直ぐの道を淡々と進む。
仕舞いには、敷地の隅っこ辺りで未舗装に変わる。
それとほぼ同じタイミングで、巨大な土留めが山側に現れる。
これは、先ほど真っ正面の山の中から「迎えの道」として、目的地視していた物体である。
真っ正面には、お椀を伏せたような城山が聳え立つ。
なんか、これで満足した…。
両者の間を直接踏破することは叶わなかったが、少なくとも「目」は通った。
彼我の距離が、本来的には僅かなものであることを実感した気がした。
だが、最後にどんでん返しがあった。
土留めに沿って続く道の終わりは、広場になっていたのだが、そこで一台のユンボが一生懸命土を均していたのだ。
その手前にポツンと立てられた工事看板と、「新しい道路を造っています」「津久井土木事務所」の文字。
まさかこれって、県道を造っているという意味なのか?
全く手つかずで放置された、台帳上だけの県道だと思っていたものが、今現実に建設されつつあるというのか?
否。
そんなはずはないのだ。
これは、土留めをさらに延ばす工事なのだと思う。
そしてこの土留めこそ、本「未完の県道511号」の夢を繋ぐ存在だと考えられるのだった。
いま神奈川県では、国が建設を進める地域高規格道路「さがみ縦貫道路」の建設と歩調を合わせるようにして、「津久井広域道路(仮称)」の計画を進めている。
そんな未来の道である津久井広域道路のプレ開通区間の一つが、先の新小倉橋なのであった。
現在の新小倉橋の西の袂は不自然な直角カーブになっているが、将来的にはこの先に道が出来る計画があったわけだ。
そして、直線的に道を延ばせば、すなわち現在地の土留めの上を通過することになる。
おそらくそのまま城山はトンネルで貫通するのだろう。津久井湖の南岸を横断し、相模原市藤野町付近で国道20号と接続する計画だという。完成すれば、交通の隘路となっている国道413号城山大橋の問題も、一挙に解消することになるだろう。
私はこの計画線こそ、県道511号の「幻の未開通区間」の答えなのだと思う。
路線名こそ違っているが、数十年前に県道511号を路線指定したとき、既に為政者の頭の中には、城山を貫き相模川の右岸を短絡するバイパスの構想があったのだと、私は思う。
広場で道は行き止まりかと思われたが、さらにそこから川原に下る草むした小道があった。
しかし、これは県道の進むべき方向ではない。
道路台帳の県道は、またしても山中へと分け入っていくかに描かれているが、案の定、そこに何ら道を認めることはなかった。
もう、道路台帳との付き合い方は、少し醒めたぐらいでなければヤバイと言うことを、私は学習した。
私が1時間前に死闘を繰り広げた崖が、ほんの500mほど先に見えた。
相変わらず、川には腐臭が漂っていた。
すぐに私は立ち去ったが、立ち去りながら、この探索が何だったのかを考えた。
県道など全くないのに、地図だけを追って旅をした。
やっぱり、何もないと面白さは半減だな。
それが正直な感想だろう。
道路台帳との初戦は、私の敗北で幕を閉じた。