走破レポート  松ノ木峠 その3
2002.6.13


 松ノ木峠の旧道を、初夏の日差しの中登りつめ、遂に峠に至る。
下りに取り掛かろうとした私の前には、再び、厳重なゲートが現れた。
このゲートを越えることが、恐怖の始まりとなった…。

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峠の松
2002.6.6 12:01
 正午となり、再出発。
峠のゲートは、施錠されていたものの脇を簡単に通れた。
雄勝側同様、一車線の舗装路である。
しかし、景色は一変する。
こちらの主役は、なんと言っても、目が覚めるような白い麗峰。
鳥海山である。

 鳥海山は東北では珍しい標高2000mを越える山で、とにかくよく目立つ。
本荘由利地区ならば、どっからでも見えるような山なのだ。
富士山のような雄大な山容と万年雪がトレードマークである。

 この写真の右上に写っている松の枝。
これが、この峠の名の由来となった、松の巨木である。
 なんとも安直に名付けられた峠と思ったが、これほど立派な松が孤立しているのには、私も圧倒された。
この名は、相応のものかもしれないな、と思ってしまった。
 この松ノ木は、ご覧のように車道のすぐ脇であり、この道がもし長い間現役であったなら、環境の悪化により枯死ということもありえたのではないか。
しかし実際には、この先(多分)自然死するまで延々、誰の目にも晒されない運命となったようである。

GPS遭難!
12:03
 快調に下り始めて間もなく、いきなりのアクシデント!
松林の中を下る最中、道路上に散乱した朽木に乗り上げ、その衝撃で手に持っていたHandyGPSが電池ボックスだけを残して飛散。
高速に移り変わる視線の隅に、今まさに墜落してゆくGPS(2万数千円)がチラリと映った。
緊急制動!!
舗装路のため、約5mで停止したものの、墜落したGPSはその衝撃と速度ゆえ、いずことも不明。

 …探しましたよ。
道路上にたっぷり堆積し、植物の繁茂するまでになった落ち葉と朽木を掻き分けて。
汗が目に入る。
イライライライライライライライライライライラ
      イライライライライライライライライライライラ
           イライライライライライライライライライライラ…



 10分後、やっと発見。
何とか路上に残っていたために発見できたが、ガードレールの外だったらあきらめだったな…。
ホッとしたが、どっと疲れた。
 
見晴らしよし
12:14
 この松ノ木峠、雄勝側と鳥海側でまったく景色が違うが、道の線形も大きく異なる。
雄勝側が、じっくりと高度と距離を稼ぎ峠に接近したのに比べ、地図を見ていただければ分かるとおり、この鳥海側では、非常に険しい。

 この写真は、これから降りてゆく道が、樹海の中にかすかに見える。
直線距離の短さに比較して非常に高度差が大きいことがお分かりいただけるだろう。
このことが、この後、重大な危機の原因となる。

 同じ場所から見た鳥海山。
なんとも爽快な眺めである。
鳥海山が出羽富士と呼ばれる所以たる美しさを、最も感じられるのが、この方角からの眺めだと思う。

死道
12:16
 雄勝側以上に荒れ果てている。
アスファルト自体はしっかりしているが、とにかく路上の落ち葉と、朽木と…落石がひどい。
忘れもしないあの場所…3年前に一生忘れ得ない恐怖を思い知った…が近い。
もう一度自身に言い聞かせた。

「前回よりも状況が良くなっていなければ、引き返そう。
もう2度とあのような事はしてはいけない。
私は生きて帰らねばならないのだ。」

 こんな場所から引き返すなど、辛い。
当然である。
しかし、絶対に、死ぬのはごめんだ。

 …何度も言い聞かせた。
なぜなら、直感していたから。

きっと、あの崩壊は、復旧などしていない。
この荒廃ぶりが、その事を何よりも物語っていた。
 何年間も、誰も通っていない道のにおい・・・が、そこにはあったから。

 もはや、道は死んでいた。
進むほどに、状況は悪化していた。
ほんの数年前まで現役であったはずの国道は、舗装という仕事着を纏ったまま、埋もれていた。
路上には、足の踏み場も無いほどに大小の落石がはびこり、落石防止のフェンスは全てが、粘度の様にひしゃげていた。
ここに見たものは、旧国道の、歴史の道の風情や情緒ではない。

殺された道の、悲痛な叫びがこだまする。
私は、この晴天の下でも、締め付けられるような何かを感じずにはいられなかった。


 怨嗟の眼差しを持った死人は、えてして道連れを欲するものだ。
そして、生贄が今、迷い込んだ。
それは、私であった…。

 私は、遂に、死の舞台へ、踏み込んだのだった。




壊滅
12:19
 そこには、道が無い。
3年前の状態のまま、絶望的な崩壊は、完全に放置されていた。
驚いたことに、まったく人が通った跡もなかった。
それは予想外のことであった。

 自分しか知らないようなマイナーな林道の奥でも、どういう訳か人に遭遇することがある。
それに比べ、ここは広く知られたる道だ。
その上、3年である。
これだけの期間があれば、たとえ復旧までは望めなくても、踏跡の一つくらいは出来上がるものだと、油断していた。
 この崩壊は、誰も寄り付かぬほどの、ましてや、まさか足を踏み込む者などありえない、危険すぎる崩壊地だったのだ。
油断だった…。

「引き返すべきだ。」
私の中の理性は、一斉にそう叫んだ。

『行けないか?』
3年間、どれだけの経験を繰り返してきたのだ。
3年前の自分ではないのだ。行けるはずじゃないのか?

「バカな。死にたいのか!」
お前は、半分泣きべそで、この崖に孤立した、あの時の恐怖をもう忘れたのか?


激しい葛藤があった。
私にとって、道があるのに引き返すということは、最も耐えがたい苦痛だ。
屈辱だ。
いまだに、そのバカさだけは、治っていないのだ。

 冷静になってこの崩落を観察してみた。

 崩壊は、はるか頭上50mほどの稜線直下から始まっており、道を完全に飲み込んだ上、なんと道の下にもさらに、200mは続いている。
平均の斜面角度は、60度くらいか。
そして、道が完全に埋まっている区間の長さは、どう見ても、50mはある。
ありすぎる。
あまりにも巨大な崩落であった。
この道の無理な建設が引き起こしたものであろうということは容易に想像できるが、道の息の根を完全に止めてもなお、暴走を始めた巨大重力は、砂地獄のように、次から次へと新たな崩壊を誘発しているようであった。
山容まで変えつつあるほどの、信じ難い大崩落である。

 この崖の怖さは、十二分に知っている。
とにかく、崩れ出た土砂が小さな瓦礫の非常に密なものであるから、取っ掛かりがこの上なく悪いのだ。
人一人が踏み込むだけで、激しく崩れ、とても体重を支えることはできない。
その上、チャリを脇に抱えた片手の状態では…、死ににいくようなものだ。

 3年前は、運良く、本当に運良く、足元は崩れ落ちなかった。
それでも、何度か滑りかけたが、奇跡的に、途中で止まり、滑落を免れた。
何もかもが奇跡のようであって、絶対に、前のように無策に挑んだら、今度は、  落ちる。

 その上、どういう訳か、あまりに情けないのだが、この日…。
私は、普段の仕事靴で来てしまった。
このくたびれまくった臭い革靴は、スリッパのように脱げ易い。
絶望的だ。
あまりにも条件が悪い。


試行錯誤
12:22

 すぐに引き返しはしなかった。

 とりあえず、脱げ易い靴を脱ぎ、靴下のままでどれくらい進めるものか、チャリとリュックを置いて、身軽になった状態でチャレンジしてみた。
しかし、ごつごつした岩山である。
すぐに痛みに我慢できなくなり、これは断念。

 次は、靴を履き、脱げないように、輪行時に外した車輪を結わくための紐で、きつく靴の上から足の甲を縛り上げた。
これは、少し効果ありそうだった。
そして、いよいよ、ルート選考だ。
身軽なまま実際に崖に取り付き、試行錯誤してみた。

 3年前の経験はほとんど訳には立たなかった。
前回とは逆からの進入であることが最大の理由だが、そもそもが、こちら側からの進入は難度が高いように思えた。
なぜならば、滑落のリスクを少しでも回避するためには、少しでも上方に進路をとるべきであるが、現在でも活発に崩落を繰り返していると思われる、もっとも足元が緩く、難渋な箇所が、まずはじめに超えねばならない手前側にあったからだ。

 まず考えたルートが、ガードレールに沿って進む方法であった。
確かに、足元の安定性では魅力的であったが、転落のリスクがあまりに高いので却下した。
 次に、可能な限り上部まで斜面方向に上り、あとは、斜め下の方向に進みながらここを突破する道を考え、これを試してみた。
手前にある、最大の難所と思われる活崩壊面を可能な限り迂回するためのルートだ。
下の2枚の写真はそのとき、上れるだけ上った場所で撮影したものだ。
崩壊の規模の大きさが、お分かりいただけると思う。
 このルートが、一番現実的に思えた。
…しかし、とにかく崩壊地を登るのは骨が折れた。
手ぶらでさえも、である。

実行!
12:33
 目指すベきルートを決めた。
いつの間にか、突破することになってしまっていた。
あまりに意志が弱い自分がいやになったが、もはや、選択権が自分になかった。
 「ここまできた。
 ならば、行かねばならない。」
この崩落地に挑むことが、そして勝ち残ることが、自分の山チャリスト魂を満足させる唯一の道のように思えた。
 チャリとともにここを超えんとすることが、どれほどリスキーであるかは、重々承知していた。
チャリは、自身の動きをかなり制限する。
常に片手で支持し続けねばならないし、もし、万が一、チャリを落としてしまえば、命は助かろうとも、山チャリ終了である。
一番恐ろしいのが、引き返せなくなることだった。
こんな断崖での方向転換は、まず絶望的だ。
一方通行の、…命を懸けた、挑戦となる。

 この場所に到着して、約14分後。
ついに、突入してしまった。
 まずは、登らねばならない。
できるだけ真っ直ぐ登って、高度を稼がねばならない。
しかし、写真のような瓦礫の崖だ。
予想通りだが、チャリを引き上げつつ登ることは、全く捗らなかった。
忍耐強く登っていこうと思ったが、どうしても登れなかった。
手掛かりがまったくなく、滑り落ちるばかりであったのだ。
 この段階で、早くも、先ほど決めたルートは使えなくなった…。

こんどこそ、引き返すべきであったろう。
この時ならまだ、十分引き返せたから。

 しかし私は、またも選択を誤った。
まったく考えられなくなっていた、ともいえる。
すでに、“もっとも危険な活崩壊面”を、突破する進路をとっていたのだ。

 すぐに、恐れていた事が現実になった。
斜面に体を横たえることでなんとか滑落は回避したが、前にも後ろにも身動きが取れなくなってしまった。
直径2cmくらいの瓦礫が非常に密に積み重なったその場所では、手掛かりや足がかりになるものがまったくなかった。
少しでも動こうものなら、足元の瓦礫はガラガラと音を立てて崩れた。
それとともに、自身の体もじりじりと落ち始める。
恐怖で、顔が引きつっているのがわかった。
冷や汗が噴出し、泣きたくなった。

 結局、生きる為にとった道は、自分の手で瓦礫を掘り、底の地盤に手掛かりや足がかりを作ることであった。
夢中で掘った。
常に左手はチャリを引き止めておくのに使わざる得なかったから、残った右手での、血のにじむ努力であった。

 自分で作った足場だが信用ならなかった。
しかし、万全を期す方法など無かったから、ある程度掘ったら進むしかなかった。
次の足場に移る瞬間が、バランスが最も崩れやすくひたすらに怖かった。
チャリのペダルが瓦礫に食い込み、引き上げられなくなったときは、死んだと思った。
無理に引き上げると、大量の瓦礫が音を立てて、足元を飲み込んで、なお流れ落ちていった。
その崩落は、雪ダルマ式に巨大化し、10mほど下のガードレールの“堰”を乗り越え、滝のように、目もくらむ崖下に消えていった。
次の瞬間の自身の姿が、その光景に重なってみえた。

 「ひとつのミスで確実に死ぬ!」
日常では、絶対に味わえない感覚だった。(無論、味わいたくなど無い。)
そして、すごく意外というか…、自分でも驚いてしまったが、心のどこかでは快感を覚えていた。
スリルという、麻薬だった。
 それに、なんといってよいのか、とても日常の感覚では表現しにくいのだが、死が余りに近くにあると、恐怖というのは麻痺するのかもしれない。
死までもが、意外に“普通な”選択肢に思えた。
 これは、人が生存するために、危険な状況でも冷静に行動できるという、すばらしい保守機能なのか?
それとも、私が壊れていたのか…?
なんと、こんな時に写真を撮影していたことからも、この時の私の“異常な”心理が、感じられる。(左下の写真)

 写真で、中央に見えるのがこの道の続きである。
ここで滑落したら、ガードレールの“堰”で止まれる可能性が極めて低いことが予感できよう。
そして、ガードレールの下に落ちたら、無事にはすまないことは間違いなかった。

 右上に見えるのが現道である松ノ木道路だ。
まったく車通りは無かった。
中間地点
12:57
 火事場の馬鹿力を総動員した、生への足掻きがついに実を結んだ。
活崩壊面を突破し、同時に、崖の中間点まで来た。
ここから先は、3年前と状況に変化は無いようだ。
多少乱暴になるが、斜め下に進路をとるなら、一気に歩を進めても大丈夫であると判断。

本当にホッとしてしまった…。

 延々の時間をすごしていた気がしたが、時刻を確認すると、なんと15分近く断崖と戦っていたことがわかった。
たった20mほどで、これだけの時間が掛かったということは、自身のワースト記録であろう。
それほどの、難渋な崩落であったのだ。

 少し心に余裕が生まれたので、ここで写真を撮りまくっている。
 自分撮りは、辛いときやホッとしたとき、自分をほめてあげたいとき、特に心が動いたときのみ撮る。
一部トリオメンバーなどは、このような自分撮りの表情を「やらせ」ではないかと疑う者がいるが、これは非常に残念なことである。
この“人間”ヨッキれんの生表情が、故意に作られたものでないことなど、懸命な読者諸氏であれば理解頂けるはずである。
 いかがであろうか?

 振り返って、さらに一枚。
最も辛かった、活崩壊面の姿である。
一部、瓦礫に非常に密な部分があることがお分かりいただけるだろうか?
そこが、一番のデンジャーポイントであった。

突破!!!!
13:01
 この崩壊地に到着してから、約42分。
生きてここを突破した!
反省点は多いのだが、とにもかくにも、自身の信念を通すことには成功したわけで、嬉しかった。
ただし、生涯2度と、ここにはもうこないとは思うが。
 こんなときだけは足手まといにもなるが、やっぱりコイツがいてこその山チャリであり、少し無理があるかもしれないが、私が致命的な怪我も負わず旅を続けてこれたのはコイツのおかげであるともいえるだろう。
なんとコイツ、この松ノ木の突破を2度経験してしまった。
ま、3年前から見ると、フレームの一部が交換になっているし、細かいパーツも殆ど交換されてしまっているが。
世界唯一の、松ノ木2度攻略自転車であろう。
って、別に誇れることでもないが。

 右手を見てビックリ!

 なんと爪の間から血が流れ出ているではないですか。
指や手のひらも、ひどく皮がむけている。
ほとんど痛みは感じなかったが、自分の手を見てゾッとしてしまった…。
自分がしたことの、あまりに常軌を逸していたことが実感されたからだ。

 3年前とおんなじアングルで撮影。

 これは、私の知りうる限り、最悪の崩壊である。
まさかこ崩土の下に生き埋めになっているものはおるまいな…。ゾクッ。
 この総延長15Km以上もある長大な旧国道が、全線において舗装まで施されているにもかかわらず、完全に閉鎖されている、ただ唯一の原因がこの崩壊であることは、想像に難くない。
将来の復旧も、コスト的に、絶望であろう。


 死道を超え、先に進む。


その4へ

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