道路レポート 塩原新道 桃の木峠越 第一次踏査 導入編

所在地 栃木県日光市〜那須塩原市
探索日 2008.05.31
公開日 2021.03.27
このレポートは、『日本の廃道 2009年1月号』に私が執筆した同名レポートのリライトです。

三島通庸と塩原新道 〜歴史解説〜

(1) 塩原新道と桃の木峠の位置

今回紹介するのは、かの有名な“土木県令”こと、三島通庸が手がけた、明治の“幻の新道”だ。
その名を、塩原新道という。
そしてこの道の踏破は、私の悲願であった。

書籍『土木県令 三島通庸』(丸山光太郎著・栃木県出版文化協会)によると、塩原新道は、栃木県那須郡三島村を起点に、塩原村、桃の木峠を経由し、福島県界山王峠を終点とする、全長約52kmの道だという。
現在の地名に置き換えると、栃木県那須塩原市三島〜同市塩原〜日光市界桃の木峠〜福島県界山王峠となる。(左図)

巨視的に見るとこれは中央分水嶺の帝釈山脈を越えるルートで、関東地方と東北地方を結ぶ道である。
また、最寄りの位置にある現在の幹線道路は、国道400号である。
だが、経由地のうち桃の木峠だけが忘れられた存在になっている。どこにあるのかさえほとんど知られていないのではないか。




塩原新道には二つの峠がある。(右図)
一つは帝釈山脈を越える山王峠で、いまは3本もの国道が重複する、関東と会津の間を最短で結ぶ歴史的にも極めて重要な峠だ。
そしてもう一つが、那須連山を越える桃の木峠である。だがこちらは廃道である。

桃の木峠の5km南に並行しているのが、国道400号が越える尾頭峠だ。
ここに国道は2km近いトンネルを穿っているが、山王峠のトンネルが500m足らずであることを見ても、那須連山越えが簡単ではないことが分かると思う。

大々的に建設された塩原新道の桃の木峠は、なぜ廃れてしまったのだろう。
百年以上後まで使われている道を多く残した三島が、ここでは弘法よろしく道を描く筆を誤ったのだろうか。それとも、何か別のやむを得ない事情があったというのだろうか。

現地探索レポートをお伝えする前に、塩原新道の開発の歴史を説明したい。



(2) 塩原新道開発の歴史

塩原新道の年表を作成したので、掲載する。
授業じゃないので、憶える必要はもちろんないぜ!

和暦 月日 出来事 黄色は「塩原新道」関連 三島年齢 三島役職 解説文
番号
明治7年 12月3日 酒田県令となる。 39 酒田県令     教部省  
明治8年 8月31日 酒田県庁を鶴岡に移し、鶴岡県と改める。 40 鶴岡県令      
明治9年 8月22日 統一山形県誕生、初代山形県令となる。 41 山形県令        
  11月 苅安新道(万世大路)の工事に着手。          
明治13年 8月3日 栃木県那須野ガ原一千余町歩の借地を行い、開墾を開始。(のちの三島農場であり三島村) 45       @
  10月19日 栗子隧道が貫通。          
明治14年 10月3日 明治天皇を迎え、万世大路の開通式を行う。 46        
明治15年 1月25日 福島県令兼任となる。 47 福島県令      
  5月11日 福島県会議案毎号否決を決議。県会の県令に対する対決姿勢が鮮明になる。        
  7月12日 山形県令解任、福島県令専任となる。        
  8月 会津三方道路起工式。         A
  11月28日 喜多方事件発生。県令による自由民権運動化に対する弾圧が本格化。          
  12月1日 福島事件発生。福島自由党首魁河野広中らを逮捕し、党をほぼ壊滅させる。          
明治16年 2月 藤川県令下の栃木県議会が、塩原新道建設を否決する。 48       B
  10月30日 栃木県令兼任となる。着任は同年12月12日。     栃木県令  
  12月下旬 塩原新道(第一工区:三島村〜塩原村古町)の測量を開始。       C
明治17年 1月 塩原新道(第一工区)着工。 49    
  2月23日 栃木県庁を栃木から宇都宮に移す。      
  4月 塩原新道(第一工区)竣工。      
  4月23日 陸羽街道(栃木県内分)の改修に着手。        
  5〜6月 塩原新道(第二工区:塩原村古町〜山王峠)の測量を開始。
当初の尾頭峠経由をやめ、桃の木峠経由に改めることになる。
      D
  5月30日 塩原新道(第二工区)着工。       E
  6月6日〜 栃木県臨時県会が開かれる。
塩原新道について、県令独断によるルート変更とそれに伴う追加支出の是非を問う議論が起こる。
     
  8月30日 会津三方道路竣工。      
  9月 塩原新道(第二工区)、一部橋梁を除いて竣工。      
  8〜11月 油絵師高橋由一が、三島県令の委嘱により、栃木、福島、山形三県の新道を写景。
8月11日に工事中の新道を通過(写景は11月に再度実施)。
       
  9月25日 三島県令に対する爆弾テロに端を発する、加波山事件が発生。        
  9月30日 福島、栃木両県の陸羽街道同時竣工。        
  10月21日 内務省土木局長就任。樺山資雄が栃木県令代理となる。事実上、三島の県令生活にピリオド。     土木局長  
  10月22日 新装なった栃木県庁開庁式に出席。      
  10月23日 塩原新道、会津三方道路の合同開通式を、三島村および塩原村にて挙行。
一行の400人余りは、桃の木峠を通って会津若松までパレードした。
翌11月中に高橋由一が塩原新道を写景し、作品は『三県道路完成記念帖』に収められる。
    F
  11月21日 残務処理をすませ、福島県令を退任。      
  12月20日〜 栃木県臨時県会が開かれる。
塩原新道の追加支出の是非については、翌年雪解け後に現地調査を待ってから再議することとなる。
       
明治18年 1月25日 残務処理をすませ、栃木県令を退任。 50      
  7月5日 栃木県臨時県会が開かれる。
塩原新道の追加支出が否決され、第二工区の廃道化が決定される。
それでも、明治26年に尾頭峠の新道が開かれるまでは一定の利用があった。
        G
  7月24日 我が国で初めて、主要道路に路線番号を付ける。陸羽街道が国道6号となる。          
  9月7日 清水国道(群馬・新潟)開通式に土木局長として出席。          
  12月24日 内閣制度下初めての警視総監就任。         警視総監  
    塩原に別荘を建てる。          
明治21年 9月23日 警視総監官舎において病死。享年53才。 53        

年表解説文 @

三島通庸が那須地方と最初に関わりを持ったのは、山形県令時代の明治13年。万世大路の建設工事を盛んに進めていた最中である。

三島はこの年、火山灰地質のため水利が乏しく、広大な原野に過ぎなかった那須野ガ原の一千町歩(1km×1.6km)を国から借り受けると、まだ幼い息子弥太郎を農場主にしたうえで、移住者を全国から募って大々的な開墾経営を進めた。三島農場と呼ばれた。

那須野ガ原開墾の重要な前提施設であった那須疎水の開発にも三島の政治力が発揮され、明治18年の完成へと導いたといわれる。
三島農場が那須野ガ原を代表する大農場として完成を迎えたのは、那須疎水の完成後である。

この三島農場は間もなく「三島村」と呼ばれるようになり、明治22年の町村制施行時に狩野村の一部となった。その後、西那須野町を経て、現在は那須塩原市の三島という大字に名前を残している。(右図)


年表解説文 A

明治15年に福島県令になった三島は、すぐに「会津三方道路」の計画を発動する。
これは会津若松を起点に、北行して山形県へ向かう「羽州街道」、西行して新潟県へ向かう「越後街道」、南行して栃木県界へ向かう「野州街道」の3本、総延長196kmを整備するものであった。

野州街道の終点は栃木県界山王峠と定められていたが、このとき既に山王峠から那須野ガ原へ至る塩原新道の構想を固めていたといわれ、栃木県令藤川為親との間で両道同時着工の約束をとり交わしていた。


年表解説文 B

明治16年当時の栃木県は、福島県同様、三島と対立する自由党勢力の県会が強い力を持っていた。
藤川県令は、三島と約束を取り交わしていた塩原新道の建設を栃木県会に建議したが、建設費の約半分を地方税(住民税)に賦課する計画が「民力に耐えず」と批判され、廃案同然とされてしまう。
やむなく藤川は県会の決議を経ずに着工すべく内務省へ上申したが、県会のさらなる批判に晒され、県令を辞職した。

同年10月、福島県の自由党勢力をほぼ壊滅させた三島は、福島県令兼任のまま栃木県令に赴任した。
彼が腹心の部下を大勢引きつれて栃木県庁(当時は現在の栃木市にあった)へ着任したのは、明治16年12月のことだった。


年表解説文 C

栃木県令に着任した三島は、さっそく自らの構想である塩原新道の建設にかかった。
まずは三島農場がある三島村から、塩原村古町(塩原温泉)までの約20km(第一工区)を測量し、完了次第、県会の反対をまったく無視して着工した。
測量開始が明治16年12月下旬、着工は翌年1月だったが、わずか3ヶ月後の明治17年4月に竣功している。

この第一工区は、藩政期より存在する塩原街道が下地となったが、山間部である関谷から塩原温泉までは馬も通れない悪路だったから、工事はトンネル開削を含む大規模なものであった。開通後も長く活躍し、現在の国道400号のベースになっている。

なお、藤川県令時代の新道計画では、起点は奥州街道と分岐する親園村とされ、三島村を通る予定はなかったが、三島は起点を三島村に変更している。
これは、三島が旧来の奥州街道に代わる陸羽新道の整備を行う計画も持っており、三島村が陸羽新道と塩原新道の分岐地点とされたためである。


年表解説文 D

第一工区竣功の翌5月、早くも塩原古町から山王峠まで(第二工区)の測量がスタートした。
測量により決定されたルートは、さらに次の三つの区間に分けられていた。
私が探索したいと思ったのは、この全てとなる。

 塩原古町〜善知鳥沢 四六七一.三間 (8.5km)
 善知鳥沢〜横川村男鹿川 一一〇八五.九間 (20.2km)
 男鹿川〜山王峠 二〇〇〇.三間 (3.6km)

◆合計★ 一七七五七.五間 (32.3km) ←私が探索すべき全長!

各区間は峠ではなく川を渡る地点で区切られた。そのせいで桃の木峠という最高地点の存在感は目立っていない。
注目すべきは距離の長さで、この第二工区だけで32kmもあった。第一工区と合わせれば52kmにもなる。
三島が手がけた有名な万世大路は、米沢から福島まで約48kmあるのだが、それに匹敵する長さを持つ新道だった。
しかも、第二工区の沿道は、起点以外まったく人家のない山中であったという。

私は、塩原新道第二工区の完全踏破を目指していた。
しかし32kmの踏破は、当時経験したことのない長距離であり、この数字を最初に本の中で見た私は、興奮するよりも先に寒気がしたのを覚えている。

なお、この第二工区でも測量段階での計画変更があった。
藤川県令時代に立てられた当初の計画では、桃の木峠ではなく、旧来の塩原街道をなぞるような尾頭峠越えが考えられていたらしい。現在の国道400号と同じルートだ。
この計画変更の理由について、栃木県会で三島の部下は次のように述べている。

「尾頭峠を越えることは勾配が急で車道にすることは困難であるばかりでなく、冬期積雪が多いので、むしろ山腹の善知鳥沢に路線を変更することによって、当初の目論見を全うすることが出来た。その結果2里あまりの路線の延長はあったが、将来の事を考えるとやむを得ないものがある。」

善知鳥沢は桃の木峠に通じる川の名前だ。
この計画変更により、旧計画と較べて距離が2里(8km)も伸びたという。
小縮尺の地図(右図)で見る限り、この計画変更で距離の短縮はあっても、逆に8kmも伸びるわけがないと思えるだろうが、記録では確かにそういうことになっている。


年表解説文 E

明治17年5月30日に第二工区も着工された。
途中に人家の全くない32kmもの山岳道路工事だったが、なんと3ヶ月後の9月時点で一部の橋梁以外竣工していたというから、全く恐るべき電撃的工事であった。

この工事では、三島の常套手段である地域住民からの【献夫】献夫とは工事に半ば強制的に駆り出された地域住民である。道路の開通による受益者負担を念頭とした制度として、三島は山形や福島でも同様の制度を利用して工事の速成を進めていた。道路用地の強引な接収と共に、彼の暴政の象徴ともいわれるが、彼の専売特許というわけではなく、明治期の官製工事には少なからずこうした地域住民の夫役が関わっていた。も携わったが、それは全体の1%以下で、ここでは各地から募集された土木作業員(土工)が中心となった。周辺に人家が乏しかったことや、専門的技術を要する岩場作業が多い山岳工事であったためと言われる。
明治17年1月から9月までの工事に関わった延べ作業人員は36万8千人余り(第一工区12万人、第二工区25万人)と記録されている。最盛期には5000人以上が一斉に山へ入って道の開削に従事したとされる。

栃木県令としての三島は、まるで己の任期の短いことが予感されていたかのように、これまで以上に工事の速成に心骨を注いだように見える。
塩原新道52kmを約8ヶ月で完成させるのと同時進行で、県内分の陸羽街道121kmも5ヶ月余りで開削した。こちらは平地での工事が多かったので、さらに早い工事であった。ちなみに現在の国道4号の栃木県内のほとんどの部分は、このとき三島が作った陸羽街道をベースにしている。

塩原新道の工事を急いだ理由について、三島の部下が答弁した内容が残っている。
曰く、冬期間に積雪のため工事を中止すると、春先に冬の間の崩壊を直さねばならず、冗費が増すことになる……というものであった。
なるほどと思う。
このように一気呵成に工事を行うために、本来は3ヶ年継続事業とされていた国庫からの補助金を一度に引き出し、県の負担金である地方税分は、安田銀行から借り受けて工事を進めたという。
まさに独断専行、三島の政治手腕がなせる荒技だった。


年表解説文 F

栃木県会は三島の赴任以来、繰り返し彼の独断専行を批判しており、塩原新道の工事についても説明を求めていた。
だが、三島はこれをほぼ完全に黙殺して工事を完成させた。

明治17年10月21日、三島に再び辞令が下り、土木局長としてのポストが与えられた。酒田県令から足かけ10年にも及んだ県令生活にピリオドを打つ、政府中央への栄転であった。
東北地方開発の障害となる交通不便の打開のため、立ちふさがるものは、山であれ谷であれ、自由民権の士であれ、ことごとく力でねじ伏せた10年であった。
“土木県令”と謳われた三島は、この後わずか1年ほどであるが、国の土木行政のトップとして、国道に初めて路線番号を与えるなど、道路制度の近代化を推し進めることになった。

10月23日、会津三方道路と塩原新道の合同開通式が盛大に執り行われ、三島もここに参列した。
翌24日には、時の太政大臣三条実美を迎えた人力車の一行400人余りが、塩原から会津へ向けて新道を行進した。
そして残念ながら、桃の木峠が歴史の表舞台に立ったといえるのは、この一度きりだった。


年表解説文 G

明治18年7月、三島が去った栃木県会では活発な論戦が交わされた。
その議題は、完成した塩原新道をどうするかというものだった。

設計時のルート変更があったという話は既にしているが、そのとき工費の追加も行われており、県の負担金である地方税の追加分約2万円を今後3年間で支出することとしていた。だが三島は県会の了承を得ていなかった。
普通に考えれば、既に開通式を挙げている道をここで「どうするか」議論しても仕方のないような気もするが、在任中無視され続けた県会の苛立ちが、ここで爆発することになった。
第二工区の不要論(=廃道化すべし)が上がったのである。

このとき、道の存続をに対して不利だった点が三つある。
一つは、これは三島も恐れていたことだが、冬期の雪害による道の破損が大きく、さらに1万円の補修費(うち追加地方税3000円余り)を要する目論見になったことだ。沿線住民が全くいない山岳道路の維持費が、県財政に重くのし掛かることが明らかになっていた。
二つめは、この段階でも一部完成していない所があったようで、開通しているという既成事実が認められなかったことだ。
そして三つめは、県会に渦巻く反三島の怨嗟の声。彼は県令としての在任中一度も県会に出席しなかったというから、それもやむを得ないことではあった。

三島の在任中に逮捕までされている民権派議員田中正造(三島の県令解任により釈放)は、塩原新道の意義について次のような批判を展開したという。

「塩原新道が出来れば、従来は白河に出る会津方面からの貨物は皆三島に回ると言うが、やがて鉄道が白河を通って仙台まで伸びるだろう(東北線は明治20年に仙台に達した)。そうすれば、誰がわざわざ5里も遠回りをするだろうか。」(右図参照)

「はじめは行うべきと思っていた工事でも、後になって不必要だと分かればやめるべきだ。ましてこの工事は以前から我々が反対してきたものだ。鉄道の敷設など考えもしなかった当時でさえそうなのに、いまさら…」

対して県庁側も、「鉄道の敷設によって影響を受けるのは、塩原新道ばかりではない。今まさに竣工しようとしているのに、そんなことを論じるべきではない」と反論しているが、劣勢だった。

特に塩原から遠く離れた県南部の議員による反対が強かった。中には、「この道が開通しても、その利益を受けるのは会津田島の人ばかりである。そのような工事を栃木県の支出で行う意味が分からない」という議員もいた。
三島が意図していたような、県単位よりもっと大きな東北地方と関東地方を結ぶ新道という理想は、理解を得られなかった。

県会は、「三ヶ年土木費予算追加の議題」を廃案とした。
すなわち、県はこれ以上塩原新道建設に関する支出を行わず、塩原古町〜山王峠間の管理も一切行わないこととなった。
こうして、正式に開通したとも、していないともいええないような微妙な状況のまま、開通式のわずか9ヶ月後に、桃の木峠の廃道化が決定した。



(3) ミッシングピースとなった塩原新道

こうして、開通式の翌年には早々と廃道化が決定し、今日ではすっかり忘れられてしまった塩原新道第二工区「桃の木峠」であるが、明治26年に栃木県会はこれに代わる尾頭峠の改良を決定し、荷車が通れる道が整備された。これが後に国道400号になったが、峠を車で通れるようになったのは昭和63年の尾頭トンネル開通以降である。

右図は、三島が10年間に山形、福島、栃木の県令を歴任する中で整備した700kmを越える新道の主要な路線を示したものだ。
こうして描いてみると、塩原新道に科せられていた使命の大きさに、興奮を禁じ得ない。これは大きな文字で言いたい。

塩原新道は単なる地方の道路にあらず、東北と関東を結ぶ最重要路線である。

三島は、奥羽山脈の東側に陸羽街道、西側に羽州街道と会津三方道路という縦軸を置き、この両者を結ぶ万世大路と塩原新道という横線を置いた。
塩原新道の完成は、三島の東北地方を統べるグランドデザインに点睛を書き加えるべき最終手であったのではないか。
明治7年、三島を酒田県令に送った大久保利通との間で、既に将来のグランドデザインに関する何らかの約束があったのではないかと思えるほど、三島が各地に作った大規模新道は繋がりを持っている。無駄がないのだ。

とはいえ、陸羽街道はかつての奥州街道への追従を脱していない。
だが塩原新道から始まる会津三方道路と羽州街道は、三島が切り拓いた新たな東北地方の国土軸である。
もしもこの塩原新道が完全に完成していたら、どうなっていただろう。
後の世の「国道13号」の起点は福島ではなく那須塩原市三島となっていたかも知れない?
桃の木峠の直下に、「東北中央自動車道」の長い長いトンネルが開通していたかも知れない?

……塩原新道には、超国道級の夢がある!




 付録章: 塩原新道以前の「桃の木峠」について


@ 藩政期の桃の木峠と塩原街道

三島通庸が東北地方と東京を結ぶ幹線として整備した塩原新道。
その最大の難所が、海抜1200mの高所にある桃の木峠だった。
明治17年6月から9月まで短期間に延べ15万人以上の人夫を投じ電撃的に建設された桃の木工区(塩原新道第2工区)は、途中集落皆無の山岳地帯を切り開くものであったという。

しかし、この峠自体は、三島が初めて切り開いたものではないのかもしれない。
桃の木峠という名前も三島が名付けたものではないと思う。命名の由来は未だ不明だが…。
道は描かれていないのに、峠名だけは最新の地形図にも燦然とあるこの峠の過去を、分かる範囲で探ってみた。


江戸時代を通じて塩原付近を通っていたのは塩原街道である。
別名を会津脇街道(または会津東街道)といい、会津藩の公道であった会津西街道(下野街道)と、幕府の公道であり東北最大の幹線である奥州街道を結ぶ、尾頭峠越えの連絡路であった。

地震によって古五十里湖が出現して西街道が通行不能となった一時期、迂回ルートとして尾頭峠から小滝宿(上塩原)を経て高原宿に至る道(高原街道)が利用されたこともあったが、長くは存続しなかった。
塩原街道全体として見ても、それほど高い利用度はなかったようで、後の塩原温泉もまた山間の秘湯に過ぎなかったようだ。

桃の木峠は、塩原街道と西街道を結ぶ位置にあったが、いずれの道にも属しておらず、この頃の文献で触れたものは見当たらない。
それは、単純に道が存在しなかったからなのか、既に忘れられた古道に属するものであったか、そのどちらかだと思う。



A 中世の桃の木峠で合戦があった?

平安時代の治承4年(1180)、勢力拡大を目指す秋田三郎致文率いる軍勢が、会津方から山を越えて塩原へ押し寄せ、迎え撃つ塩原領主塩原家忠とのあいだで、度々合戦が行われたという記述が、『那須記』(延宝4(1676)年成立)にある。
このときの合戦の一つが「桃の木峠」で行なわれたものではなかったかとする説があり、塩原の郷土誌『塩原の里物語』(平成10(1998)年発行)が、この説を採っている。

『那須記』は、那須氏の歴史を軍記物風に記した作品だが、歴史的事実とは異なる民間伝承の類が多く含まれ、歴史書としては正確とは言いがたいというもあるのだが、明治25(1892)年に復刻されたものが国会図書館デジタルコレクションで読めるので、峠の情景に関する記述を確認してみた。

総勢二千余騎の兵を引率会津口より押寄せ已(すで)に合戦に及ぶこと六七合なり。さてこの塩原は北は会津の道路。東の口は那須野に続いて蘆野伊王野黒羽太田原佐久山より往還の地なり。西と南は高山鉄壁を畳(たたみ)たる嶮岩なり。山の中腹より麓は森々たる喬木怪岩刃を立てたる如く人馬の通路なかりけり。山上は去年の雪今年の雪と降積もり絶ゆることなし。萬木不生雪砂は天に捲上風雨の絶間なかりけり。会津と那須との両道有といえども山嶮くて谷深く人馬道路無れば山の半腹に細道を当て岩間を伝い丸木橋踏通し故に奥州の大勢進み難くぞ見たりけり……
『那須記 第1編』(大金重貞 編)より

なんとも凄まじい情景が描写されている。
峠付近などは岩ばかりで樹木がなく、万年雪を戴くような高山をイメージさせる描写だが、さすがにこれは著者の誇張を通り越した空想の産物と言うべきものだろう。実際の桃の木峠は、岩山というよりは限りなく森閑とした静寂の森であった。

そもそも、峠名に関する描写がないので、これが塩原と会津の間にあったどの峠を指しているのか判然としない。
候補はおそらく二つで、一つは尾頭峠である。資料によってはこの合戦を「尾頭峠の合戦」と呼んでいるものがあり、この場合、桃の木峠の存在は等閑視されている。もう一つの候補が桃の木峠だ。
果たしてどちらが正解なのか、私には判断できかねるが、『塩原の里物語』は(文中で明瞭な根拠を示さず)桃の木峠が、この合戦の舞台であったとしている。

個人的にも、判断材料が少なすぎてなんとも言えない。ただ強いて言えば、『那須記』は塩原の地を「西と南は高山鉄壁を畳たる嶮岩なり」と述べているので、塩原の西にある尾頭峠ではなく、北にあって会津への最短ルートである桃の木峠が会津方からの侵入ルートとして意識されているのかなと思える程度だ。

ただ、この半世紀ほど後の安貞元年(1227)に、会津の田島城主長沼氏が尾頭峠(現在地の尾頭峠付近にあった“元尾頭道”)を切り開き、これが後の塩原街道の原型になったという歴史があり、尾頭峠より桃の木峠は古いのかもしれず、であるなら、治承4年の合戦の舞台は桃の木峠であるべきとも考えられる。
またいずれにしても、この安貞元年の尾頭峠開発によって初期の桃の木峠は廃れ、江戸時代にはすっかり古道として忘れ去られていたのではないかと私は考えている。

なお、『那須記』には具体的な合戦の描写もあるが、こちらも想像の産物であろうと思うから細かく引用はしない。
一応、「九十九折りなる難所」の存在や、「塩原勢が峰から大岩を落として秋田勢を攻撃した」といった記述から当時の道が谷伝いにあったことなどが読み取れる。
そして合戦の結末としては、地の利と戦略に勝った塩原方が、多勢の秋田方を一方的に退けて終わっている。

合戦の舞台が桃の木峠であったとしたら、三島無念の峠は、その暁からして、ひどく血塗られたものであったことになる。



塩原新道の探索計画立案

(1) 最新地形図の調査

桃の木峠を探し出せ!

私が塩原新道のことを初めて知ったのは平成17年夏頃である。
前回紹介した『土木県令三島通庸』を読んで、「おいおい、そんなトンデモナイ“三島廃道”があったのかよ!」と叫んだ。
だが、同書はあくまでも三島通庸の人物誌であるから、彼が作った道の現状についてはほとんどなんの解説もない。
ならばとネットを漁っても、万世大路ならば豊富にある探索記録が当時ほとんどなかった。登山者の記録さえ見つからなかった。

探索はまず、「桃の木峠」という場所を、現代の地形図から探すことから始まった。
しかし相手は、明治17年に開通するも、その後すぐに放置され、遅くとも明治26年頃には利用が途絶えたとみられる道だ。
あの清水国道にも匹敵するような、短命で、山深い、明治廃道である。



果たして、現代の地形図に見つけられるだろうか。(↓↓↓)



最新の2万5000分の1地形図にも、ちゃんと「桃の木峠」は記載されていた。


ただし、


道は、ない。


なんで峠名だけで道がないんだよ! というツッコミをグッと堪える。



海抜1200mという高所に描かれた、南北に長い見事な鞍部。
両側の山の肩より200m以上低い、これほど明瞭な鞍部は、なかなかない。
天然の造形物でありながら、我々の峠となることを願っているかのようである。
そこにポツンと書き加えられた、「桃ノ木峠」の文字が、私を誘う。
遙か遠い峠の風景を想像し、しばし恍惚の表情を浮かべる私がいた。

だが、峠なのに道が描かれていないのには困った。 とりあえず、廃道確定である。
峠に道はないが、峠の北側は直線距離で1200mほどの位置まで林道らしき道が接近している。
南側はさらに道は遠く、直線距離で3200mくらい下流にある「ウトウ沢川」沿いの林道終点が最寄りだ。
ただ峠に立つことだけが目的であれば、北側から沢筋を直登すれば、達成出来そうだ。
だが、私と三島の対決が、そんな雑なものであって良いはずがない。

峠の位置だけは分かったが、やはり辿るべきルートを知るには、塩原新道をちゃんと描いた地図が必要だ。



(2) 旧版地形図の調査

桃の木峠の位置だけは分かったので、次のその周辺を描いた“最も古い地形図”を入手した。
明治43年測図版「那須岳」、明治45年測図版「塩原」、同「糸沢」、計3枚の5万分の1地形図である。(右図)


……

…………

………………

全く道が書かれてねぇ!

ひでぇ!

ここまでとは、思わなかった。

似た境遇なのでつい比較したくなる清水国道だって、この頃の地形図には、「国道」としてばっちり描かれている。
だがこちら、この塩原新道の第二工区は、本当に抹消されている。
栃木県会が正式に廃道としていたこの道は、どんなに荒れていても「国道」であり続けていた清水国道とは、地図上の扱いが根本的に違うのかも知れない。

明治17年に盛大な開通パレードが通行してから、たった20数年後の当時であれば、さすがに道形は十分に残っていたと思うのだが、それでも全く描かれていないのは、描く気がなかったとしか思えない。

しかも、一部だけ描かれているということさえ無さそうだ。
塩原新道の終点とされた「山王峠」には、現在は旧国道になっている当時の県道がしっかり描かれているが、特に途中から分岐する道はないし、反対の上塩原側も、峠の5km以上南まで、全く道はない。

極めつけは、峠の名前も無いじゃないか!
むしろこれだと、最近の地形図になぜ名前が書かれるのか不思議である。


……いやはや、これは廃道として、本当に筋金が入っていそうだ……。

だが、こうなったら意地だ。
あまり役に立ちそうにはないが、20万分の1地勢図の一番古い版も取り寄せてみよう。
地勢図ならば、明治20年代のものが存在するはずだ。




道が描かれていた!

これは地勢図の原点といえる20万分の1仮製図で、明治20(1887)年の制作だ。
ここには確かに、右下の「三島」から始まり、「関谷」、「古町」、「横川」を結ぶ、太い道が描かれている。
これが塩原新道を示していることは間違いないだろう。
当時まだ全国的な測量網が未発達で、地形図のような正確な距離や方位は表現されていない。そのため谷の位置や向きが所々おかしいが、道自体が少ないので消去法的に断定できる。

ただし、桃の木峠という地名はやはり書かれていない。位置としては大きい矢印の所に相当するはず。
また、その南側に付した小さい矢印は、これも無記名だが、尾頭峠を示していると思う。
この段階では、明らかに尾頭峠よりも桃の木峠が、太く描かれている。

この地図には凡例がないので、この太さの道が何を表現していたかは、はっきりしない。とにかくこの地図にある道としては、三島を南北に通る陸羽街道や横川を南北に通る会津西街道と同じ最も太い線で描かれている。当時、陸羽街道は国道で、会津西街道は仮定県道であったので、これらが同じ太さで描かれている以上、塩原新道の格付けは確定しがたい。
というか、古町から先は、当時既に正式には廃道になっていたはずなのだ。


ようやく、描かれている地図を1枚ゲットした。

が、こんなものは探索の役には立たない。 ……申し訳ないが。
もしこれ以上詳細な地図を得られなければ、いきなり現地へ行って道を探さざるを得ない。
当時、ネットは今ほど頼りにはならなかった。確か「塩原新道」というキーワードでググっても、ほとんどヒットしなかった記憶がある。
だが、ある別のキーワードがヒットした。
そこで私は飛躍的に重要な情報を得ることになる。



(3) 「復元する会」の詳細地図

「三島+桃の木峠」というキーワードで、『三島街道を復元する会』(現 『audi107’s blog』)というサイトがヒットした。
その内容はタイトル通り、塩原新道(地元では「三島街道」と呼ばれている)を、現代に(歩道として)復元させようという活動をしている有志のサイトであった。

私が瞬間的に持った印象は、大変身勝手で恐縮だが、「復元」というワードへの強烈な焦りだった。
「やばい!早く探索しないと遊歩道になっちゃう!」という焦りだ。自分の狭量が情けないが、そう思ったことをまず告白したい。
だが、サイトの記事をつぶさに読み進めていくと、まだ大半部分に手は付けられていないことが分かった。

彼らは活動のルールに従って、月1回程度ボランティアでの刈り払いなどの復元作業を行っていた。日光市側を1期区間、那須塩原市側を2期区間と分けて、最終的に塩原新道ほぼ全線の復元を目指していた。
活動開始は平成15(2003)年で、私がサイトにアクセスした平成18年当時は活動4年目。その頃、復元作業は1期区間の途中まで進んでいて、2期区間はまだ手付かずとのことだった。


そして私は自らの探索という野望のため、サイトの主宰者である「三島街道を復元する会事務局」に教えを乞うことにした。
具体的には、「詳細なルートが分かる地図はあるか。あれば購入できるか」を問い合わせたのである。
親切にも、すぐに返事をいただいた。

「三島街道跡の詳しい資料(地図)等は市販されておりません。日光森林管理署のOBの方が実測し、地形図に記入したものが原本です。会で会員に配布している縮小コピー(A3)でよろしければ郵送いたします。」

私は今度こそ脱帽せねばならなかった。
さすがは森のプロ(のOB)というべきだろうが、全線が実踏済みだというのだ。
山菜採りが偶然歩いたとかではなく、私と同じように、この道の踏破を目指して、実測しながら歩ききった人物が、最低一人は居る! うおおーっ!! 負けちゃいられねぇ! 


……ありがたく、頂戴することにした。 その“宝の地図”を。

さっそくご覧いただだこう。


これが、塩原新道第二工区 全長32km “幻の三島街道”の全貌だ! ↓↓↓




『三島街道を復元する会』より提供いただきました

長ーーーーーーい!

ぱっと見ただけで、とんでもない長さを感じた。32kmは伊達じゃねぇ!

平山城址公園駅から京王新宿駅までの距離にほぼ匹敵する長さの明治廃道だ。 まじで半端ねぇ!

痺れた! 実測図を見た瞬間、私の中の三島がクワッと眼を見開き、言った。

「かかってきんしゃい!」

私は即答しなかった。

いや、出来なかった。


実測図の注目ポイントを、いくつかピックアップしてみた。↓↓↓

[山王峠付近]
旧国道の峠頂上から東へ塩原新道が分岐している。山王峠が終点とは聞いていたが、まさしく峠そのものだとは思っていなかったので驚いた。
[桃の木峠北側]
直線距離1200mの区間に捻じ込まれた、日光市側の長大な迂回コース。馬車道ゆえの勾配緩和策だろう。『復元する会』が当時復元作業を進めていたのは、この区間。
[善知鳥沢沿い1]
那須塩原市側のルートは、ウトウ沢川沿いの林道ではなかった。右岸の高い山腹を、これでもかというくらい曲がりくねって迂回していた。地形的にだいぶ荒れていそうな気がする…。
[善知鳥沢沿い2]
那須塩原市側の起点付近でウトウ沢川を渡っているが、橋なんて絶対残ってないだろうなぁ。渡れるのかな…。


“その後”の復元活動について

今回、レポートをリライトするにあたって、私の探索に大きな助け船を出して下さった「三島街道を復元する会」の活動のその後を調べてみたところ、平成25(2013)年10月に最終回の活動を行い、解散されていることが分かった。

同年9月28日活動報告によると、「歴史あるこの道を復元すべくボランティア会員を募り、現日光市の横川集落から「桃の木峠」を経由して現那須塩原市の古町までの全長23kmの全線を整備する予定でした。横川の「男男鹿橋」から「桃の木峠」までの7km区間は順調に整備も進みましたが、「桃の木峠」から塩原側については法的制約や事故に対する責任問題等もあり、進捗は難しい状況となりました。機会があれば、再度塩原側の整備を行いたいと思っています。会は本年を以って解散しますが、是非復元作業を行いたいと言う方がいれば応援は惜しみませんので御連絡をお待ちしております。」 ……とあって、塩原側では復元が行われなかったようだ。

不躾な私の要望に対し、とても親切に情報や地図を提供していただき、本当にありがとうございました。


(4) 探索の全体計画

歴史が分かった。 ルートも判明した。 さあ行くぞ! となるわけだが、探索にはすぐに行かなかった。
実測図を手に入れたのは平成18年12月で、実際に探索したのはそれから1年半も経った平成20年5月末だった。
この遅延の訳は、32kmという未体験の長距離をどう攻略するか、決めかねていたからだった。

時速4kmという普通の歩行速度で8時間。休憩込みで9〜10時間かかる計算だ。現役時代の利用者は、集落も宿屋も茶屋も何もない山中を、それだけの時間を使って歩き通していたのだろうか。さすがの健脚と言わざるを得ないが、ならば私も……というわけにはいかない。
今や廃道なのだ。
廃道の平均時速というモノは、廃の程度によってピンキリなので算出しがたいが、経験上時速0.5km〜3kmくらいになる。とりあえず平均的な時速2kmとして…。

……時間的に無理がある。途中に廃道ではない復元済みの区間や、林道を歩くような部分が多少あったとしても、明るいうちに32kmを歩き通すことはおそらく無理である。
どこかで一泊が必要になる。それも、最も山深い峠付近での山中泊が避けがたい。

だが、今回は単独行であり、荷物は可能な限り減らしたい。
それに、私がこれまでクマに遭遇した数少ない経験の一回がこの山域で起きており、知人もまた遭遇している。この辺りはクマが多いことで有名だ。
山中泊自体も、山中泊の装備を持ち歩くことも、避けたかった。

なら、どうすればいい?


一回で歩き通すことが時間的にも装備的にも難しいと判断した私は、探索を2回に分けることにした。

第一次探索は、山王峠を出発地として、水上沢、男鹿川を横断し、桃の木峠頂上を目指す。
この間は全て塩原新道を辿るが、男鹿川〜桃の木峠間は、「復元する会」による復元作業があらかた終わっているようなので、むしろ廃道としての困難は前半にあるかも知れない。

そして重要なのが峠からの復路である。峠を引き返す際には、青の破線で示したルートを辿るつもりだ。
このうち、峠から男鹿川に降りるまでは、全く確信のない尾根伝いの下山コースであるが、等高線を信じるなら目はあると判断した。これを「脱出路」と命名し、その実用性を確認することが、次の第二次探索につながる重要任務だった。

第二次探索は、塩原古町を起点に、中塩原、要害、善知鳥沢を経て、桃の木峠を目指す。おそらくこちらは復元の手も入っていない屈強かつ困難な廃道であろうから、第一次探索より遙かに難しい探索になるだろう。

無事に峠へ二度目の到達が出来たら、即刻、「脱出路」を利用して最短距離で横川へ下山する。こうすることで、本来の塩原新道を辿ると中塩原〜男鹿川間で25km近くあるものを20km以下まで減らすことが出来る。日の長い時期を選べば、なんとか一日で踏破可能だろう。


以上のような2段階の探索プランを確定した。



(5) 第一次探索: 山王峠〜桃の木峠

探索計画を確定させたのが平成20年の春先で、雪解けの具合を測りながら決行の機会を窺っていた私に、入山と下山の部分をクルマで送迎してもらえるという千載一遇の機会が訪れた。

この年の5月末、私はある知合いに依頼された仕事のため、栃木県内に滞在することになっていた。その途中の一日を探索にあてることが許されたのだ。
しかも、山王峠までクルマで送って貰え、下山時刻には横川で回収して貰える手筈となった。ありがたかった。

決行日は平成20年5月31日となった。


三島通庸至上最長の廃道と、決着を付けるときだ!




山王峠で塩原新道の第一歩を刻む


2008/5/31 8:38 《現在地》

予定通り私は車で運ばれ、いま荷物と一緒に下ろされた。
「さあ、戦ってこい!」
ここは国道121号の横川パーキングだ。県境の山王トンネルの800m手前で、海抜820mにある。

傍にいつもの相棒であるチャリがない。今日は身ひとつだ。
また、駅もバス停も近くにないから、もうこの時点で簡単には帰れなくなった。助けを呼ぶ携帯の電波も既に微弱である。
空は暗く、山は濡れていた。残念ながら、今日は終日において雨がちな予報であった。

三島との戦闘を、これから始める。
自身に未だ経験がない32kmの明治廃道も、探索計画上は12kmと20kmに分割されている。今回はその短い方だ。しかも、後半は復元という目的で人の手が入っていると聞く。
大丈夫。今回はまだ、死闘というようなことには、ならないはず。

第一目的は、塩原新道を約12kmを歩いて桃の木峠に達すること。
第二目的は、次回使う下山ショートカットルートを獲得すること。
そして最終的には、現在地から1.2km南にある横川集落へ下る計画だ。帰りのクルマの迎えは、いまから約8時間後の午後5時でお願いしてある。



塩原新道の“終点”である山王峠へまずは向かう必要があるが、昭和55年に山王トンネルが開通して以来、峠を通る道は旧道になり、いつしか封鎖されて、ご覧の通りの廃道状態である。
横川パーキングから峠まで、九十九折りのある旧道を約1.3km歩かねばならない。

とはいえ、ここは前年に一度チャリで探索したばかりの勝手知ったる廃道だ。
峠までの高低差も小さいので、のんびり歩いても30分足らずで峠に立てると思う。
疲れないように意識して歩いた。




8:38 《現在地》

おおよそ25分で山王峠に辿り着いた。
深く大きくまっすぐ伸びた切り通しの南側は関東地方、北側は東北地方であり、太平洋と日本海に水を分ける列島の中央分水嶺の峠でもある。海抜902mだが、この標高は関東地方の中央分水界で最も低いかも知れない(未確認)。

塩原新道の入口を目視確認した!
この入口だけは、前年に自転車で来たとき確かめておいたのだが、本当に峠の頂上にあるということに最初は驚いたものだった。

私が塩原新道を知った当初から、「終点は山王峠」という情報はあったものの、それが峠の頂上だとは断定できなかった。
『三島街道を復元する会』から頂いた詳細な実測図のおかげで、楽に正解に辿り着くことが出来た。

……皆様はどこに入り口があるか気付きました?



← 正解はここ!

峠の切り通しの直前(栃木県側)右側に、稜線の山腹に伝う水平路が分かれている。 “白い標柱”が目印だ。

見ての通り、旧国道よりも3mほど高い位置から始まっており、両者の路面は繋がっていない。これは、切り通しの掘り下げが行われた際に、既に廃道であった塩原新道との接続を考慮しなかったためだろう。

なお、塩原新道が建設された明治17年当時の状況は、いまとは全く違っていた。
峠の福島県側の道は、三島が福島県令として建設した会津三方道路で、ここが終点だった。
峠の栃木県側の道は、三島が栃木県令として建設した塩原新道で、ここが終点だった。
いずれも明治17年に完成し、ここで1本に繋がった。



明治17年当時は、いま上ってきた横川からの道はなかった。
このルートは塩原新道が廃止された後、明治20年代に、塩原新道の代替として、尾頭峠と共に整備された道である。
したがって、ここが峠の三叉路として機能していた時期は、おそらくなかった。
(三方道路以前の山王峠は、200mほど西側の鞍部を越えていたのであり、それまでこの鞍部には道が全くなかったはず)

写真は福島県側から見た切り通しの様子だ。
もしも、塩原新道が三島の期待したとおりの活躍を果たした世界線があったとしたら、ここは塩原・那須方面と鬼怒川・日光方面を分ける重要な交差点になっていたのではないだろうか。


それではそろそろ、参ろうか。



ミニコーナー 洋画家・高橋由一が描いた塩原新道 【その1】

明治期を代表する洋画家である高橋由一は、明治17年に三島通庸の委嘱を受け、栃木、福島、山形に点在する、県令が手がけた新道や建築物などを題材とした128葉の石版画を、『三県道路完成記念帖』としてまとめた。
彼は下絵を作成するために、明治17年8月から11月にかけて上記の3県での長期写生旅行を行っている。

右図は、『東北の道路今昔』(建設省東北地方建設局刊)に掲載されている、彼の行程だ。
旅の序盤にあたる8月9日から11日にかけて塩原新道を初めて通行し、さらに11月にももう一度この道を往復し、これら計一往復半の通行のなかで、数点の石版画を残している。
本作は、塩原新道の在りし姿を描いたほぼ唯一の極めて貴重な絵画資料となっている。
ただ残念ながら紀行文は残されてないので、由一が旅の最中に持った感想や、道の実況について、作品外の情報は得られない。

本ミニコーナーでは、『三県道路完成記念帖』に描かれた塩原新道各所の風景を紹介していく。なお作品は全て『東北の道路今昔』より転載した。
今回は、山王峠を描いた2葉を紹介しよう。



福島県南会津郡と栃木県下塩谷郡の境 南会津郡糸沢村新道の内山王峠切り割りの図 [栃木18]

山王峠の頂上にあった切り通しを描いたものだ。
南北どちら側から描いているかが分かりづらいが、作品タイトルからは、福島県側から栃木県側を見ている印象を受ける。
もしそうであれば、切り通しの奥は左にカーブしていて塩原新道へ通じていたはず。(もし逆なら、手前が塩原新道だ)

なお、一連の作品を鑑賞するうえでの前提として、人物を風景に対してやや小さく描くことで道路構造物のスケールを強調する手法がとられていることを注記したい。
その強調の度合いも作品によって一定ではないので、サイズの比較や計測は難しいといえる。
その一方で、構造物の形状はディテールまでかなり写実的に表現される傾向があり、信頼性は高いといわれる。


栃木県塩谷郡横川村新道より福島県下南会津郡糸沢村山王峠切り割りを望む図 [栃木20]

タイトルに「横川村新道より」とあるので、明確に塩原新道の路上から眺めた山王峠頂上の切り通しだと分かる。
確かに切り通しの手前の道が右に水平に伸びている状況は、現地の道形に酷似している。

道の下にある茶色い部分は、崖というよりも、新道工事によって排出された土砂を描いていると思う。
周囲はほぼ裸山になっていたようだが、これは必ずしも工事の影響ではなく、単純に木炭生産のために伐採されていたのかも知れない。

切り通しの左側に私が峠へ上るのに使った道はまだ存在しないが、よく見ると模様のような表現で細い道が左上と左下へ伸びている。
実際に踏み跡があったのだろう。左上へ行けば旧来の山王峠があった場所で、左下は横川方面だ。いずれも工事中に抜け道として使われていたのではないだろうか。
こうしたものまで描いているところに強い写実性を感じる。




3mの斜面をスイスイ登って、かつて塩原新道の入口だった平場へ。
ここまでは前年も偵察として上っていた。
そして、入口の格好の目印となっている“白い標柱”と対面する。

位置的には、いかにも「日光市指定文化財 塩原新道」なんてことが書かれていそうだが、実は全然関係がなく、こいつの正体は積雪量計だ。
「男鹿NO.7」と書かれた白い柱に目盛りが付いていて、積雪量を係員が目視で量るというアナログ装置である。
いつ頃まで使われていたのか分からないが、積雪量を量るには平らな場所でなければ都合が悪いという理由だけで、ここに建てられたのだろう。

ただ、平らであることだけの価値しか認められていないなんて、なんとも皮肉に満ちた“道標”だ。




そして、気になる平場の奥方向の様子は……



ここに第一歩を踏み出す!



桃の木峠まで あと12km

塩原古町まで あと32km