(1) 塩原新道と桃の木峠の位置
今回紹介するのは、かの有名な“土木県令”こと、三島通庸が手がけた、明治の“幻の新道”だ。
その名を、塩原新道という。
そしてこの道の踏破は、私の悲願であった。
書籍『土木県令 三島通庸』(丸山光太郎著・栃木県出版文化協会)によると、塩原新道は、栃木県那須郡三島村を起点に、塩原村、桃の木峠を経由し、福島県界山王峠を終点とする、全長約52kmの道だという。
現在の地名に置き換えると、栃木県那須塩原市三島〜同市塩原〜日光市界桃の木峠〜福島県界山王峠となる。(左図)
巨視的に見るとこれは中央分水嶺の帝釈山脈を越えるルートで、関東地方と東北地方を結ぶ道である。
また、最寄りの位置にある現在の幹線道路は、国道400号である。
だが、経由地のうち桃の木峠だけが忘れられた存在になっている。どこにあるのかさえほとんど知られていないのではないか。
塩原新道には二つの峠がある。(右図)
一つは帝釈山脈を越える山王峠で、いまは3本もの国道が重複する、関東と会津の間を最短で結ぶ歴史的にも極めて重要な峠だ。
そしてもう一つが、那須連山を越える桃の木峠である。だがこちらは廃道である。
桃の木峠の5km南に並行しているのが、国道400号が越える尾頭峠だ。
ここに国道は2km近いトンネルを穿っているが、山王峠のトンネルが500m足らずであることを見ても、那須連山越えが簡単ではないことが分かると思う。
大々的に建設された塩原新道の桃の木峠は、なぜ廃れてしまったのだろう。
百年以上後まで使われている道を多く残した三島が、ここでは弘法よろしく道を描く筆を誤ったのだろうか。それとも、何か別のやむを得ない事情があったというのだろうか。
現地探索レポートをお伝えする前に、塩原新道の開発の歴史を説明したい。
(2) 塩原新道開発の歴史
塩原新道の年表を作成したので、掲載する。
授業じゃないので、憶える必要はもちろんないぜ!
和暦 | 月日 | 出来事 黄色は「塩原新道」関連 | 三島年齢 | 三島役職 | 解説文 番号 |
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明治7年 | 12月3日 | 酒田県令となる。 | 39 | 酒田県令 | 教部省 | |||
明治8年 | 8月31日 | 酒田県庁を鶴岡に移し、鶴岡県と改める。 | 40 | 鶴岡県令 | ||||
明治9年 | 8月22日 | 統一山形県誕生、初代山形県令となる。 | 41 | 山形県令 | ||||
11月 | 苅安新道(万世大路)の工事に着手。 | |||||||
明治13年 | 8月3日 | 栃木県那須野ガ原一千余町歩の借地を行い、開墾を開始。(のちの三島農場であり三島村) | 45 | @ | ||||
10月19日 | 栗子隧道が貫通。 | |||||||
明治14年 | 10月3日 | 明治天皇を迎え、万世大路の開通式を行う。 | 46 | |||||
明治15年 | 1月25日 | 福島県令兼任となる。 | 47 | 福島県令 | ||||
5月11日 | 福島県会議案毎号否決を決議。県会の県令に対する対決姿勢が鮮明になる。 | |||||||
7月12日 | 山形県令解任、福島県令専任となる。 | |||||||
8月 | 会津三方道路起工式。 | A | ||||||
11月28日 | 喜多方事件発生。県令による自由民権運動化に対する弾圧が本格化。 | |||||||
12月1日 | 福島事件発生。福島自由党首魁河野広中らを逮捕し、党をほぼ壊滅させる。 | |||||||
明治16年 | 2月 | 藤川県令下の栃木県議会が、塩原新道建設を否決する。 | 48 | B | ||||
10月30日 | 栃木県令兼任となる。着任は同年12月12日。 | 栃木県令 | ||||||
12月下旬 | 塩原新道(第一工区:三島村〜塩原村古町)の測量を開始。 | C | ||||||
明治17年 | 1月 | 塩原新道(第一工区)着工。 | 49 | |||||
2月23日 | 栃木県庁を栃木から宇都宮に移す。 | |||||||
4月 | 塩原新道(第一工区)竣工。 | |||||||
4月23日 | 陸羽街道(栃木県内分)の改修に着手。 | |||||||
5〜6月 | 塩原新道(第二工区:塩原村古町〜山王峠)の測量を開始。 当初の尾頭峠経由をやめ、桃の木峠経由に改めることになる。 |
D | ||||||
5月30日 | 塩原新道(第二工区)着工。 | E | ||||||
6月6日〜 | 栃木県臨時県会が開かれる。 塩原新道について、県令独断によるルート変更とそれに伴う追加支出の是非を問う議論が起こる。 |
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8月30日 | 会津三方道路竣工。 | |||||||
9月 | 塩原新道(第二工区)、一部橋梁を除いて竣工。 | |||||||
8〜11月 | 油絵師高橋由一が、三島県令の委嘱により、栃木、福島、山形三県の新道を写景。 8月11日に工事中の新道を通過(写景は11月に再度実施)。 |
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9月25日 | 三島県令に対する爆弾テロに端を発する、加波山事件が発生。 | |||||||
9月30日 | 福島、栃木両県の陸羽街道同時竣工。 | |||||||
10月21日 | 内務省土木局長就任。樺山資雄が栃木県令代理となる。事実上、三島の県令生活にピリオド。 | 土木局長 | ||||||
10月22日 | 新装なった栃木県庁開庁式に出席。 | |||||||
10月23日 | 塩原新道、会津三方道路の合同開通式を、三島村および塩原村にて挙行。 一行の400人余りは、桃の木峠を通って会津若松までパレードした。 翌11月中に高橋由一が塩原新道を写景し、作品は『三県道路完成記念帖』に収められる。 |
F | ||||||
11月21日 | 残務処理をすませ、福島県令を退任。 | |||||||
12月20日〜 | 栃木県臨時県会が開かれる。 塩原新道の追加支出の是非については、翌年雪解け後に現地調査を待ってから再議することとなる。 |
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明治18年 | 1月25日 | 残務処理をすませ、栃木県令を退任。 | 50 | |||||
7月5日 | 栃木県臨時県会が開かれる。 塩原新道の追加支出が否決され、第二工区の廃道化が決定される。 それでも、明治26年に尾頭峠の新道が開かれるまでは一定の利用があった。 |
G | ||||||
7月24日 | 我が国で初めて、主要道路に路線番号を付ける。陸羽街道が国道6号となる。 | |||||||
9月7日 | 清水国道(群馬・新潟)開通式に土木局長として出席。 | |||||||
12月24日 | 内閣制度下初めての警視総監就任。 | 警視総監 | ||||||
塩原に別荘を建てる。 | ||||||||
明治21年 | 9月23日 | 警視総監官舎において病死。享年53才。 | 53 |
年表解説文 @
三島通庸が那須地方と最初に関わりを持ったのは、山形県令時代の明治13年。万世大路の建設工事を盛んに進めていた最中である。
三島はこの年、火山灰地質のため水利が乏しく、広大な原野に過ぎなかった那須野ガ原の一千町歩(1km×1.6km)を国から借り受けると、まだ幼い息子弥太郎を農場主にしたうえで、移住者を全国から募って大々的な開墾経営を進めた。三島農場と呼ばれた。
那須野ガ原開墾の重要な前提施設であった那須疎水の開発にも三島の政治力が発揮され、明治18年の完成へと導いたといわれる。
三島農場が那須野ガ原を代表する大農場として完成を迎えたのは、那須疎水の完成後である。
この三島農場は間もなく「三島村」と呼ばれるようになり、明治22年の町村制施行時に狩野村の一部となった。その後、西那須野町を経て、現在は那須塩原市の三島という大字に名前を残している。(右図)
年表解説文 A
明治15年に福島県令になった三島は、すぐに「会津三方道路」の計画を発動する。
これは会津若松を起点に、北行して山形県へ向かう「羽州街道」、西行して新潟県へ向かう「越後街道」、南行して栃木県界へ向かう「野州街道」の3本、総延長196kmを整備するものであった。
野州街道の終点は栃木県界山王峠と定められていたが、このとき既に山王峠から那須野ガ原へ至る塩原新道の構想を固めていたといわれ、栃木県令藤川為親との間で両道同時着工の約束をとり交わしていた。
年表解説文 B
明治16年当時の栃木県は、福島県同様、三島と対立する自由党勢力の県会が強い力を持っていた。
藤川県令は、三島と約束を取り交わしていた塩原新道の建設を栃木県会に建議したが、建設費の約半分を地方税(住民税)に賦課する計画が「民力に耐えず」と批判され、廃案同然とされてしまう。
やむなく藤川は県会の決議を経ずに着工すべく内務省へ上申したが、県会のさらなる批判に晒され、県令を辞職した。
同年10月、福島県の自由党勢力をほぼ壊滅させた三島は、福島県令兼任のまま栃木県令に赴任した。
彼が腹心の部下を大勢引きつれて栃木県庁(当時は現在の栃木市にあった)へ着任したのは、明治16年12月のことだった。
年表解説文 C
栃木県令に着任した三島は、さっそく自らの構想である塩原新道の建設にかかった。
まずは三島農場がある三島村から、塩原村古町(塩原温泉)までの約20km(第一工区)を測量し、完了次第、県会の反対をまったく無視して着工した。
測量開始が明治16年12月下旬、着工は翌年1月だったが、わずか3ヶ月後の明治17年4月に竣功している。
この第一工区は、藩政期より存在する塩原街道が下地となったが、山間部である関谷から塩原温泉までは馬も通れない悪路だったから、工事はトンネル開削を含む大規模なものであった。開通後も長く活躍し、現在の国道400号のベースになっている。
なお、藤川県令時代の新道計画では、起点は奥州街道と分岐する親園村とされ、三島村を通る予定はなかったが、三島は起点を三島村に変更している。
これは、三島が旧来の奥州街道に代わる陸羽新道の整備を行う計画も持っており、三島村が陸羽新道と塩原新道の分岐地点とされたためである。
年表解説文 D
第一工区竣功の翌5月、早くも塩原古町から山王峠まで(第二工区)の測量がスタートした。
測量により決定されたルートは、さらに次の三つの区間に分けられていた。
私が探索したいと思ったのは、この全てとなる。
塩原古町〜善知鳥沢 四六七一.三間 (8.5km)
善知鳥沢〜横川村男鹿川 一一〇八五.九間 (20.2km)
男鹿川〜山王峠 二〇〇〇.三間 (3.6km)
◆合計★ 一七七五七.五間 (32.3km) ←私が探索すべき全長!
各区間は峠ではなく川を渡る地点で区切られた。そのせいで桃の木峠という最高地点の存在感は目立っていない。
注目すべきは距離の長さで、この第二工区だけで32kmもあった。第一工区と合わせれば52kmにもなる。
三島が手がけた有名な万世大路は、米沢から福島まで約48kmあるのだが、それに匹敵する長さを持つ新道だった。
しかも、第二工区の沿道は、起点以外まったく人家のない山中であったという。
私は、塩原新道第二工区の完全踏破を目指していた。
しかし32kmの踏破は、当時経験したことのない長距離であり、この数字を最初に本の中で見た私は、興奮するよりも先に寒気がしたのを覚えている。
なお、この第二工区でも測量段階での計画変更があった。
藤川県令時代に立てられた当初の計画では、桃の木峠ではなく、旧来の塩原街道をなぞるような尾頭峠越えが考えられていたらしい。現在の国道400号と同じルートだ。
この計画変更の理由について、栃木県会で三島の部下は次のように述べている。
「尾頭峠を越えることは勾配が急で車道にすることは困難であるばかりでなく、冬期積雪が多いので、むしろ山腹の善知鳥沢に路線を変更することによって、当初の目論見を全うすることが出来た。その結果2里あまりの路線の延長はあったが、将来の事を考えるとやむを得ないものがある。」
善知鳥沢は桃の木峠に通じる川の名前だ。
この計画変更により、旧計画と較べて距離が2里(8km)も伸びたという。
小縮尺の地図(右図)で見る限り、この計画変更で距離の短縮はあっても、逆に8kmも伸びるわけがないと思えるだろうが、記録では確かにそういうことになっている。
年表解説文 E
明治17年5月30日に第二工区も着工された。
途中に人家の全くない32kmもの山岳道路工事だったが、なんと3ヶ月後の9月時点で一部の橋梁以外竣工していたというから、全く恐るべき電撃的工事であった。
この工事では、三島の常套手段である地域住民からの【献夫】献夫とは工事に半ば強制的に駆り出された地域住民である。道路の開通による受益者負担を念頭とした制度として、三島は山形や福島でも同様の制度を利用して工事の速成を進めていた。道路用地の強引な接収と共に、彼の暴政の象徴ともいわれるが、彼の専売特許というわけではなく、明治期の官製工事には少なからずこうした地域住民の夫役が関わっていた。も携わったが、それは全体の1%以下で、ここでは各地から募集された土木作業員(土工)が中心となった。周辺に人家が乏しかったことや、専門的技術を要する岩場作業が多い山岳工事であったためと言われる。
明治17年1月から9月までの工事に関わった延べ作業人員は36万8千人余り(第一工区12万人、第二工区25万人)と記録されている。最盛期には5000人以上が一斉に山へ入って道の開削に従事したとされる。
栃木県令としての三島は、まるで己の任期の短いことが予感されていたかのように、これまで以上に工事の速成に心骨を注いだように見える。
塩原新道52kmを約8ヶ月で完成させるのと同時進行で、県内分の陸羽街道121kmも5ヶ月余りで開削した。こちらは平地での工事が多かったので、さらに早い工事であった。ちなみに現在の国道4号の栃木県内のほとんどの部分は、このとき三島が作った陸羽街道をベースにしている。
塩原新道の工事を急いだ理由について、三島の部下が答弁した内容が残っている。
曰く、冬期間に積雪のため工事を中止すると、春先に冬の間の崩壊を直さねばならず、冗費が増すことになる……というものであった。
なるほどと思う。
このように一気呵成に工事を行うために、本来は3ヶ年継続事業とされていた国庫からの補助金を一度に引き出し、県の負担金である地方税分は、安田銀行から借り受けて工事を進めたという。
まさに独断専行、三島の政治手腕がなせる荒技だった。
年表解説文 F
栃木県会は三島の赴任以来、繰り返し彼の独断専行を批判しており、塩原新道の工事についても説明を求めていた。
だが、三島はこれをほぼ完全に黙殺して工事を完成させた。
明治17年10月21日、三島に再び辞令が下り、土木局長としてのポストが与えられた。酒田県令から足かけ10年にも及んだ県令生活にピリオドを打つ、政府中央への栄転であった。
東北地方開発の障害となる交通不便の打開のため、立ちふさがるものは、山であれ谷であれ、自由民権の士であれ、ことごとく力でねじ伏せた10年であった。
“土木県令”と謳われた三島は、この後わずか1年ほどであるが、国の土木行政のトップとして、国道に初めて路線番号を与えるなど、道路制度の近代化を推し進めることになった。
10月23日、会津三方道路と塩原新道の合同開通式が盛大に執り行われ、三島もここに参列した。
翌24日には、時の太政大臣三条実美を迎えた人力車の一行400人余りが、塩原から会津へ向けて新道を行進した。
そして残念ながら、桃の木峠が歴史の表舞台に立ったといえるのは、この一度きりだった。
年表解説文 G
明治18年7月、三島が去った栃木県会では活発な論戦が交わされた。
その議題は、完成した塩原新道をどうするかというものだった。
設計時のルート変更があったという話は既にしているが、そのとき工費の追加も行われており、県の負担金である地方税の追加分約2万円を今後3年間で支出することとしていた。だが三島は県会の了承を得ていなかった。
普通に考えれば、既に開通式を挙げている道をここで「どうするか」議論しても仕方のないような気もするが、在任中無視され続けた県会の苛立ちが、ここで爆発することになった。
第二工区の不要論(=廃道化すべし)が上がったのである。
このとき、道の存続をに対して不利だった点が三つある。
一つは、これは三島も恐れていたことだが、冬期の雪害による道の破損が大きく、さらに1万円の補修費(うち追加地方税3000円余り)を要する目論見になったことだ。沿線住民が全くいない山岳道路の維持費が、県財政に重くのし掛かることが明らかになっていた。
二つめは、この段階でも一部完成していない所があったようで、開通しているという既成事実が認められなかったことだ。
そして三つめは、県会に渦巻く反三島の怨嗟の声。彼は県令としての在任中一度も県会に出席しなかったというから、それもやむを得ないことではあった。
三島の在任中に逮捕までされている民権派議員田中正造(三島の県令解任により釈放)は、塩原新道の意義について次のような批判を展開したという。
「塩原新道が出来れば、従来は白河に出る会津方面からの貨物は皆三島に回ると言うが、やがて鉄道が白河を通って仙台まで伸びるだろう(東北線は明治20年に仙台に達した)。そうすれば、誰がわざわざ5里も遠回りをするだろうか。」(右図参照)
「はじめは行うべきと思っていた工事でも、後になって不必要だと分かればやめるべきだ。ましてこの工事は以前から我々が反対してきたものだ。鉄道の敷設など考えもしなかった当時でさえそうなのに、いまさら…」
対して県庁側も、「鉄道の敷設によって影響を受けるのは、塩原新道ばかりではない。今まさに竣工しようとしているのに、そんなことを論じるべきではない」
と反論しているが、劣勢だった。
特に塩原から遠く離れた県南部の議員による反対が強かった。中には、「この道が開通しても、その利益を受けるのは会津田島の人ばかりである。そのような工事を栃木県の支出で行う意味が分からない」
という議員もいた。
三島が意図していたような、県単位よりもっと大きな東北地方と関東地方を結ぶ新道という理想は、理解を得られなかった。
県会は、「三ヶ年土木費予算追加の議題」を廃案とした。
すなわち、県はこれ以上塩原新道建設に関する支出を行わず、塩原古町〜山王峠間の管理も一切行わないこととなった。
こうして、正式に開通したとも、していないともいええないような微妙な状況のまま、開通式のわずか9ヶ月後に、桃の木峠の廃道化が決定した。
(3) ミッシングピースとなった塩原新道
こうして、開通式の翌年には早々と廃道化が決定し、今日ではすっかり忘れられてしまった塩原新道第二工区「桃の木峠」であるが、明治26年に栃木県会はこれに代わる尾頭峠の改良を決定し、荷車が通れる道が整備された。これが後に国道400号になったが、峠を車で通れるようになったのは昭和63年の尾頭トンネル開通以降である。
右図は、三島が10年間に山形、福島、栃木の県令を歴任する中で整備した700kmを越える新道の主要な路線を示したものだ。
こうして描いてみると、塩原新道に科せられていた使命の大きさに、興奮を禁じ得ない。これは大きな文字で言いたい。
塩原新道は単なる地方の道路にあらず、東北と関東を結ぶ最重要路線である。
三島は、奥羽山脈の東側に陸羽街道、西側に羽州街道と会津三方道路という縦軸を置き、この両者を結ぶ万世大路と塩原新道という横線を置いた。
塩原新道の完成は、三島の東北地方を統べるグランドデザインに点睛を書き加えるべき最終手であったのではないか。
明治7年、三島を酒田県令に送った大久保利通との間で、既に将来のグランドデザインに関する何らかの約束があったのではないかと思えるほど、三島が各地に作った大規模新道は繋がりを持っている。無駄がないのだ。
とはいえ、陸羽街道はかつての奥州街道への追従を脱していない。
だが塩原新道から始まる会津三方道路と羽州街道は、三島が切り拓いた新たな東北地方の国土軸である。
もしもこの塩原新道が完全に完成していたら、どうなっていただろう。
後の世の「国道13号」の起点は福島ではなく那須塩原市三島となっていたかも知れない?
桃の木峠の直下に、「東北中央自動車道」の長い長いトンネルが開通していたかも知れない?
……塩原新道には、超国道級の夢がある!