後にも先にも、山行が史上最悪の路面崩壊といえば、松の木峠の旧道を置いて他にない。
そう信じてきた私だが、レポート公開以来、読者から「もっと凄い場所がある!」
そんな挑戦状のようなメールが、年に数回以上も届けられるようになった。
中でも、複数の人から繰り返し紹介された場所がある。
東京都奥多摩町の日原川流域に、おそらく松の木峠を越える絶望的な崩落地点が、存在するのだという。
促されるようにして、WEB上で見ることが出来た幾つかの現地レポートを見たが…
皆 撤退していた。
だが。
私は、この崩壊地をモニタ越しに何度か見るうち、
「突破できるのではないか」 「言うほど難しいのだろうか?」
そんな疑問を感じるようになっていた。
確かにその崩壊地の幅は、松の木の比ではないように見えた。
だが… 松の木の時のように、チャリ同伴を強制される訳ではないのだ。
極端な話し、山頂まで高巻することだって、谷底まで迂回することだって出来るのではないか。
年に数回、誰かしからは届く、“日原からの挑戦状”。
遠く秋田にいた私は、それを読むたび、もうもどかしさでどうかなってしまいそうだった。
もし東京で暮らすことがあったら、じっくりと挑戦してみたい。あの松の木の時と同じように… 独りで、思う存分…。
そう願ってきた。
2007年1月5日、私は上京を果たす。
その日より僅か11日目の朝。
挑戦するために 私は独り 家を出た。
問題の大崩壊地は、東京都の西端部を占める奥多摩町の中北部の一角、日原(にっぱら)という場所にある。
自宅からは約50km。電車を乗り継いでいけば簡単に行けそうな近場だ。
旧道を地図に探したが、最新版ではもう描かれていなかった。
手許の古い地図でも見てみると、日原トンネルを迂回するような谷沿いのグネグネ道と一本の短い隧道が、確かに描かれている。
情報によると、その旧道の入口付近に崩壊があり、隧道の内部や裏側へは行くことが出来ないというのだった。
日原上流には関東有数の規模を誇る鍾乳洞があり、渓流釣りや登山に適する場所も豊富で、日原全体が都民の一大レクリエーション場となっている。
反面、一帯の地下には石灰石が膨大に埋蔵されており、昔からの石灰石鉱山地帯でもある。奥多摩町氷川に本拠を置く奥多摩工業は、専用鉄道を日原谷の奥地まで延ばし、今なお盛んに採掘を続けている。
未曾有の崩壊に見舞われた旧道は、その鉱山の一角であるという。
…… 鉱山絡みか……
色んな意味で、難しい探索になりそうだという、いやーな予感がした。
接 近
奥多摩駅前より 日原街道へ
10:36
本日は快晴なり。
夜明け前に自宅を出たわりに、寄り道が過ぎたのか日原探索のスタート地点である奥多摩町氷川(ひかわ)に到着したのは、昼間近になってからだった。
町役場もある氷川地区は、多摩川と日原川が合流する地点にひらけた山間の街で、袋小路の日原へ向かう場合必ず通る場所である。
写真は、JR青梅線の終着駅である奥多摩駅。
いまは山小屋風の洒落た駅舎だが、最初の駅舎は太平洋戦争のさなかに建てられた。
日原からの石灰石輸送が、戦時中でありながらここまで線路を延ばさしめたのだった。
奥多摩駅前はお土産物屋が並ぶ、いかにも観光地の駅前風景であるが、そこから日原方向へ進むとすぐに異質な光景に出会う。
巨大なプラントが山裾を埋め尽くしている。
これが奥多摩工業の氷川工場で、現在は主に東日原の氷川鉱山(これから向かう先だ)から送られる石灰石を加工して出荷している。
原石の輸送には「曳鉄線」と呼ばれる軌間762mmの特殊鉄道を用いている。
正式名は「奥多摩工業曳索鉄道氷川線」といい、その字面の通り、線路上に敷いたワイヤーでトロッコ同士を結び、ワイヤーを牽引することで無人輸送を行う鉄道だ。全長3.9kmの殆どがトンネルである。
工場を脇目に日原川を高い橋で渡ると、急傾斜地に段状をなして家屋が連なる氷川の街中を通る。
まもなく1.5車線の舗装路にぶつかったが、これが日原への唯一の車道、都道204号日原鍾乳洞線である。
さらに行くと間もなく民家が途切れ山岳道路が始まる。
駅前の標高は343m、日原集落は650m内外にあり、ここからは約8kmの道のりとなる。目指す旧道は少し手前の東日原にあって、そこまでなら7km強だ。全線川沿いの道のようだが、かなりの高低差があるから楽は出来なさそうだ。
都道のご多分に漏れず、この道も路線名や県道番号で呼ばれることはない。
この道の通称は「日原街道」という。
都内の他の街道の多くは本当に“街の道”であるのに対し、日原街道は山間の道だ。
県道の終点は日原集落のさらに奧にある日原鍾乳洞前で、ご覧の標識の通り、本県道の氷川地内を除く全区間が特殊交通規制区間となっている。
日原をはじめとする以奧の集落はどこも本道以外に外部と通じる車道を持たず、通行止時には孤立してしまう環境にある。
右手に日原川の河谷を見下ろしながら、早速きつい登りで高度を稼ぐ。
すぐに見晴らしの良い場所があり、振り返ると氷川の工場を俯瞰することが出来る。
また、谷を跨ぐ巨大なアーチ橋も見えるが、その上には草がぼうぼうと生えている。明らかに廃橋だ。
これは、戦後間もなくに建設された水根貨物線の跡だ。
多摩川の上流に小河内ダムを建設するため、当時まだ氷川駅と呼ばれていた奥多摩駅から1067mm軌間のレールがダムサイト建設地である水根まで伸ばされていた。
ダム完成を前に役目を終え休止されたまま、現在も放置されている。
(ORJにてレポートを連載中…ただし07年2月号は本レポートをお休みします)
都道204号には、この先ご覧のような狭隘区間が断続的に現れる。
頻繁に待避所はあるが、ハイシーズンの休日となればかなりの通行量があり、平日でも路線バスが頻繁に通行するので、マイカーでの訪問はあまりオススメできない。
私が行ったときにも狭い部分でバスと鉢合わせになり、狭い道を引き返す羽目になった乗用車を目撃した。
この道が通行量のわりに改良が進んでいないのは、予算云々と言うよりは、単純に地形的な制約によるのだろう。
寺地、不老と、村落の見当たらない場所にバス停が設けられている。
そこを過ぎると、日原までで唯一の集落である大沢とその上にある菅沢の家々が見えてきた。
写真にも、正面左の山肌のかなり上の方まで点在する民家が写っている。
また、日原川の対岸には、集落を見守るようにして石灰岩の岩峰がそそり立つ。
いよいよ日原谷の研がれた刃の如き峻嶮が、その姿を現し始める。
だが、目指す日原の地はまだ先だ。
大沢通過 日原街道をさらに奧へ
11:01
氷川から約3km、大沢にて道は二手に分かれる。
日原へ向かう都道は直進で平石橋を渡る。この橋の親柱には裏側に竣功年を示す銘板が取り付けられており、昭和30年とあった。狭いとは思ったが、案の定、古い橋である。
左へ行くのは大沢や菅沢に向かう道。
近くには大増鍾乳洞と大沢国際鱒釣場がある。
秋田から東京へ引っ越してきて、もう当分の間は見られないかと覚悟していた透明感がそこにはあった。
道の左側に替わった日原川の清流のことである。
ここからしばらくの道は、谷底の岩場を豪快に削って造られている。
さらに行くと、まるでマッチ棒で組み上げたような華奢な鉄橋が道路と川を跨いでいる。
その上にはガラガラと鉄の擦れる音を立てながら、やはりマッチ箱のようなトロッコが行き来する。
これが、奥多摩工業曳鉄線で我々が目にする唯一の地上部分で、川乗鉄橋という。
鉱山の休みの日をのぞいては、こうして一日中無人のトロッコが運行している。
下からはその積み荷まで見えないが、オレンジの小さなトロに満載されているのは当然、採掘された石灰石であろう。
平成十五年三月十一日 奥多摩町の道路(日原しょう乳洞方面)
のガケ下で二〇歳代から四〇歳代までの女性の手足首や
太いバリバリの黒髪が発見されました。(中略)
警視庁青梅警察署捜査本部 TEL○○
このニュースは私も知っている。
現在も事件は解決していないばかりか、他の部分遺体も発見されていないようだ。
道幅一杯になって迫ってくる路線バス。
チャリで良かったーと思う瞬間。
この先で2箇所ほど拡幅工事のため片側交互通行となっていた。
だが、道を広げるとはいっても、いかんせん土地がない。
ご覧の通り、谷は険しく深い典型的なV字峡を成している。
そこで、最近の拡幅区間は殆どが腹付けの桟橋となっている。
やがては日原まで全線が二車線に生まれ変わる日も来るのだろうが、まだ未改良の部分が大半だ。
道はこのあたりから再び沢からの高度を上げ始める。
川乗橋、神庭沢、桜平と、バス停は都心並みに(?)頻繁に用意されているが、その周囲に民家は全くないか、あっても一軒だけ。だが地名があると言うことは、平らな場所など全く見つけられない谷筋ではあっても、昔はちゃんと集落があったのだろう。
杉の木立に囲まれた薄暗い上りにしばらく耐えると、突然に視界が開けた。
そこには巨大な採石場が。
地図で現地を確認する。
…間違いない!
この採石場が曳鉄線の終点でもある氷川石灰石鉱山だ。そして目指す旧道のある場所。
現道は長い日原トンネルで尾根ごと採石場を素通りしている。
一方、例の大崩落地があるという旧道は、この採石山の中腹を巻いて裏側へ回り込むルートだ。
この時点で、旧道を通して走ることは不可能と悟った。
そんな道など山ごと消えていた。
急に怖くなってきた。
余りにも巨大な、しかも現役の採石鉱山。
そこへの突入という
末路が
予感される
旧道…。
これまでに鉱山絡みの探索で何度となく味わった、ヒリ付くような緊張感が脳裏に去来する。
やはり、モニタの向こうの世界は“嘘”だったのかも知れない。
現地に立ち、五感で感じる この強烈さは……
まだ実際の旧道を少しも見ていないのに… すでに 怖い!
倉沢橋 そして日原トンネルへ
11:27
ワクワクとドキドキ。
そう言えば、何だか楽しそう。
でも、この時私が感じていた激しい動悸は、それとは違う気がする。
そうだ、 これはプレッシャーだ。
生きて帰りたいのはもちろんだが、何かしら新しい成果を上げなければ帰ってイケナイ気がする。
モニタ越しに再三見せられてきたあの大崩壊地で、私は何が出来るだろう…?
写真は、倉沢橋。
昭和34年に開通した都内で最も高い(谷底からの高さ61m)橋であると、袂の解説板に書いてあった。
倉沢橋には、旧橋のものと思われる巨大な石造橋脚が、左岸の急斜面に2基残っている。
写真の赤丸で囲んだ部分に写っているのだが、林に隠れ冬場でも分かりづらい。
しかし、両岸共に橋台の痕跡は見られず、また石と木だけで架橋するにはあまりに谷が大きいことから、正直、自分で橋脚だと判断しておきながら信じられない気もする。
昭和34年よりも以前にここに橋が架かっていたのか、今後調べてみたい。
氷川の起点から6.3km、約1時間を要して日原の玄関口、日原トンネル前に到達した。
ここには岩松長根というバス停があり、実質的には氷川鉱山関係者の専用停留場のようになっている。
一般人でここに降り立つものは少ない。
ここで左に分かれる道。
それが旧道であることは、すぐに分かる。
しかし、予想していた通り……
立ち入りは不可能。
もう少し奥までは行ってみたのだが、すぐに守衛の立つ入口に繋がっていた。そしてその向こうには一面の砂利山や禿げ山が見えていた。古い地形図に描かれた旧道の細いウネウネ道はすでに消滅し、不毛の石切場に変わっていたのだ。
この旧道を少しでも辿りたいなら、やはり、日原側から大崩壊地を越えてくるより無いらしい。
ここまでは予想された展開である。(でも内心は、意外にガードが緩かったりするんじゃないのと、期待もしていた…)
さて、日原トンネルで先へ進もう。
旧道にも同名のトンネルがあるとのことなので、こちらは新日原トンネルとでも呼ぶべきものだ。
将来の改良を見越して、歩道付きの完全な道幅で施工されている。その長さは1107m。
私より2歳年下だが、AMラジオも受信できるとはなかなか出来る奴だ。
このトンネルは、結構きつかった。
普段、長いトンネルの中というのは自転車の場合、まずまず走りやすい事が多い。
もちろん、車が多いトンネルは不快だったりするが、陸上よりも勾配が緩やかだったり、涼しかったりと、メリットがある。
だが、この日原トンネルにはその常識が通用しなかった。
1100mもあるトンネルの全部がきつい上り勾配となっているためだ。
それもそのはず、入口と出口では比高が50mもある。
これは旧道の2kmを半分近くに短絡した、その代償といえる。
そして、この日原トンネル、妙にグネグネしている。
大縮尺の地図で見るとそれがはっきりするが、中間部分に少し直線があるだけであとは全部カーブだ。しかもその線形は“S字”さえ通り越し、イン●ンも驚きの“M字”カーブとなっている。
写真は、延々の登りといやらしい逆風にプチ切れのさなか、ようやく見えてきた出口。
最後もクネクネしている。
ここから出れば、すぐに旧道との 死会い が始まる。
私が訪れた2007年1月16日の時点で、(少なくともWEB上においては)誰一人としてその真実を明かさなかった、約2kmの旧都道。
そして、その接近と遭遇は、私の想像をおおきく超える、あたらしい旅の始まりとなった。
日原谷の失われた路へ、いま、歩み出す。