12:13
オブローダーの間では長らく謎とされてきた、日原トンネル脇旧都道の奧。
凄まじい瓦礫斜面と化した石灰石採掘場跡を横断し、遂にその隠されたエリアの入口にたどり着く。
最初に現れたのは、旧隧道の出口だった。
旧々道へと私を促した旧道の塞がれた隧道、その裏側の口だ。
はたして、それはどんな表情をしてそこにいるのか。
緊張と興奮のため足下の瓦礫に躓きながら、飛び跳ねるようにその前へ進んだ。
ここが、容易にたどり着ける場所だったとしても、この坑口には心を奪われただろう。
痩せた斜面に口を開ける卵型の坑口は、その上部から際限なく提供されてくる瓦礫によって半ばまで埋もれている。
この崩落がいかに凄まじかったかを物語るように、向かって左の旧々道敷きを完全に覆い隠した土砂は、旧道にまで相当量溢れだしている。
そして、月日はこんな場所にさえたくさんの若木を生やしている。
そんな幹たちに混じって、同系色に変色した金属の柱が一本立っている。
取り付けられたミラーだけは、時さえも反射してきたたかのように綺麗だった。
日原隧道の先にも、当然旧道は続いている。
あの大崩崖を突破しなければ、辿り着けないだろう旧道だ。
(現役鉱山の敷地内を通っても来られる可能性はあるが)
あの大崩崖の迫力が抜きんでているせいか、その裏に続く旧道自体をイメージする試みは、これまで少なかったように思う。
実際、私も自分で地図を確認するまでは、例の崖を抜ければすぐに鉱山の敷地で、そこにいくらも旧道は残っていないのだと想像していた。日原隧道を出たその場所で、ブルドーザーやダンプが唸りを上げている光景さえ想像していた。
だが冷静になって地形図を確認してみれば、隧道を抜けた先でも、まだ旧道全体の中では序盤だ。
そして、地図に道自体は描かれていないが、その影のような擁壁の記号がしばし続く。
そこにはまだ、砕石による地形の改変が及んでいない、素のままに近い旧道が残されている可能性もあるのだ。
そのことを確かめるのも、ここへ立つ者の、歓びに充ちた使命であろう。
最後には現役の鉱山施設(採石場)に突き進むことが確定している旧道ゆえ、引き際が肝心とは分かっているが、でも限界まで突っ込みたい!!
12:14
それでは、背後の隧道へと進入する。
坑口には全面に金網が張られており、本来は入ることが出来ない筈だったが、膨大な落石が作用したのか、はたまた人為か、金網には通り抜けられる隙間が出来上がっていた。
なお、両側の坑口共に塞がれている状況だが、その性格は異なっている。
日原側が扉付きであって、扉さえ開けば入れるようになっていたのに対し、この氷川側ではそのような物がない。つまり、完全に塞いでいたわけだ。
塞いだのが行政か氷川鉱山かは分からないが、かなり前の段階で隧道に通路としての価値が期待されなくなっていたことが分かる。
これは、紛れもない廃隧道だ。
全長397mの日原隧道。
こちら側の坑口にも、扁額その他、竣功年を示すような物は見当たらなかった。
また、内部は著しくカーブしているため、反対側の光は見えない。ただし風は勢いよく通り抜けており、閉塞しているわけではないようだ。
足下には、坑口から雪崩れ込んだと思しき大量の土が積もっている。
だが、まったく植物の生えている形跡はない。右の写真のように時間帯によっては日光も射し込むのだが、不思議だ。
土を踏みしめて奧へと歩き出す。
10mほど進むと本来のアスファルトの路面が現れてきたが、今度は土に替わって大量の落ち葉が路面を埋め尽くしている。
日原側の入口から覗いた路面にも落ち葉は見えていたが、遙かに量が多い。一度吹き込むと、坑口の土砂が邪魔をして出られなくなるのだろう。
出来るだけ浅い部分を選んで歩いたが、それでもこの位は深い。
別に腐臭とかはないのだが、これだけ深いと、何か中で育っていそうな気がしてキモチワルイ。隧道内は風通しもよく乾燥しているので分解も進まないのだろう。
いったい、何年分の落ち葉がここに溜まっているのか。
熊でも冬眠していやしないかという怖さもあった。
入ってすぐのところから、緩やかに左カーブが始まっていた。
そして、振り返っても坑口の輪郭が見えなくなるくらい進んだところで、内壁に異変が発生。
素堀にコンクリの吹きつけという、東京都らしくないなおざりな施工が現れた。
いかにも山岳道路の旧隧道らしい光景だ。
進むにつれて浅くなってきた落ち葉はこのあたりで姿を消し、替わって意外なほど綺麗なアスファルトの路面が、やはり鮮明に残る白線と共に現れた。
長く均等に続くカーブの先に、まだ光は見えない。
手持ちのライトに照らし出されるのは、凸凹のある内壁ではなく、壁に取り付けられた反射板ばかりだ。
相変わらず冷たい風が勢いよく流れているが、肌に感じる寒気はこの風のせいばかりでは無いのかも。
落ち葉が完全に姿を消し、どちらの坑口からの光も全く届かなくなった。
ライトを消せば、真っ暗闇。
そこにあるのは不思議なほど整った路面と、継ぎ目の他はつるつるの綺麗な壁、カーブの外側が黄色、内側は白と色分けされた反射板……
変化の乏しい“隧道”という景色を形作っていた“モノ”たちが、ほぼ変わらぬ姿で取り残されていた。
風は流れていても、この洞内の時は、外よりもえらくゆっくり流れているように感じられた。
しかし、同じ隧道の構成員であっても、経年に弱い者もいる。
金属だ。
かつては照明も片側に取り付けられていたようだが、その多くが原型を留めないほどに腐食し、落下している物さえあった。
使われていたのは、まだナトリウムネオンが主流になる前の、白色蛍光灯だ。
ここまで朽ちていても、ガラス製の蛍光灯はいまでも点灯しそうなほど綺麗だった。
殺伐とした雰囲気の隧道だが、遠くの壁に仄かな明かりが見えてきた。
最後まで、ながーい左カーブが続く。
400m近い洞内は完全一車線で、自動車同士が離合できる場所はない。
当時を知る方の言によれば、末期のこの隧道では信号機による交互通行が実施されていたという。
この奧にある日原鍾乳洞は戦前から有名な参拝地だったが、戦後は観光ブームにのって都内有数の観光地となった。
昭和40年代、週末のたびに何台もの観光バスが寿司詰めに客を乗せて、ここを通っていたのだろう。
右の写真は、壁に生じた巨大なコンクリート鍾乳石。
コンクリートの石灰分が地下水で溶け出した物だが、ここの場合は地下水自体も石灰分を相当に含んでいるだろうから成長も早いのかも知れない。
出口が近付くと、それまで落ち葉や土砂や照明の残骸しかなかった路面に、ブルーシートに覆われた機材やら木材など、使われなくなった物が雑多に置かれている。歩くのに障害があるほどではない。
例のバラバラ事件後には、警察ではこんなブルーシートも念入りに探したのだろう。
入洞から8分を経て、愛車の待つ日原側坑口へ内側から再接近となった。
だが、こんなに近付いてはいても、出ることは出来ない。
帰りはここを通れるのなら、どんなに気持ちが楽だったろう。
なんだかんだ言っても、やっぱりあの崖を渡るのは怖い。相当怖い。
今度も無事に渡れるとは限らない、そんな危うさがある。
この時点では踏み跡の存在も知らなかったゆえ、尚更だ。
お願いトンネルを通る時は、このスイッチを入れトンネル内の照明を点灯して、通過後出口側にあるスイッチを切って照明を消してください。
消灯は必ず守ってください。
誰へ宛てて書かれた物なのだろう。
おそらくは日原の住人に向けられた物だと思うが、書いたのは氷川鉱山の関係者か。
都道としては旧道となって廃止された後も、暫くは生活道路として使われていたのだろうか。
公道時代の物ではあり得ない。
もう二度と触れられることはない操作ボックス。
公道時代には、トンネルの照明をここで管理していたのだろう。
ボックスの下には、注意書きにあったスイッチが確かに取り付けられていた。
飾り気の無いボタンにはオンとオフの色分けもなく、ただ小さな字で「ON」「OFF」と書かれているだけだ。
無邪気に押してみたくなったが、万が一通電していたらと思い、踏みとどまった。
最初にこの坑門の前に来てから、まだ1時間も経っていないが、随分と探索したように感じられた。
そこにあるのは、穏やかそうな冬枯れの道。
でも、さっきまでの私にとってそこは心穏やかになどいられない、挑戦者の道だった。
今はまた、その本来の美しさが心に届く。
ひとつ、とても現実的な問題が生じていた。
私は、チャリだけでなくリュックをも置き去りにしてきていたが、一緒にペットボトルの飲み物も置いてきてしまっていた。
いま腰にあるポシェットの中には、殆ど空になったお茶しか無い。
この後、湧水が得られる場所があるだろうか。
すぐに行き止まりにでもなってくれれば、納得して帰れるのだが…。
この日は、1月のくせに意外に温かく、喉はよく渇いた。
うっかりミスだった。
坑口に面したそこは、緊張の解れる居心地のよい場所だったが、微睡むのはこの探索にとって意味のある時間とは言えなかった。
すでに、この隧道内からして鉱山の立ち入り禁止領域に立ち入っているのだ。
のんびりしていて見つかりでもしたら、旧道を奧まで究めたいという最大の目的を果たせず終わってしまう。
水分補給の件は気になったが、黙っていて解決するものでもない。
いまは、立ち止まるよりも、速やかに最後まで行ってしまうことが重要だ。
私はそのことに気づいたとき急に目が醒めた気持ちになって、早歩きをして隧道を戻った。
それにしても、洞内のコンクリ吹きつけ部分は短く、僅か50mくらいだった。
なぜ、中途半端に残ったのだろう。…分からない。
建設された当初は全部素堀であったものが、後から一部は吹きつけ大部分が巻立てとなったのか。あるいは最初からこのような構造だったのか。昭和40年代の竣功を考えれば、当初から現状のようであったと思うが、如何か。
路面の鋪装については、当初は砂利道だったと思う。
金網の隙間を縫って、再び最前線へ。
次回、いよいよ前進を再開。
旧道は、まだ“牙”を隠していた!
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