あと一歩のところで突破できなかった斜面。
「あの道」はこのすぐ先にあった筈。
あの日、私は勝者ではなかったのか?
「都内最狂廃道」などと喧伝されてきた都道204号日原鍾乳洞線の旧道を危なげなく踏破した私は、有頂天だった。
旧道の終点で「あの道」を見るまでは。
私は急遽計画を変更し、「あの道」へ行くため対岸の作業道に入った。
決定的に時間が足りなかった。
それでも私は荒れ果てた作業道をチャリで疾駆し、巨大な吊り橋の残骸が残る廃鉱山へ行った。
そのまま、「あの道」目指し、危険きわまりない斜面にも進み出た。
全てが命がけだった。
しかし、孤軍奮闘もそこまでだった… (写真右)
結局私は日原古道の核心部。「あの道」へ辿り着くことは出来ず、迫り来る夕暮れに追い立てられるように撤退した。
再訪ではなく、再攻略を誓って。
…以上が私と日原のファーストコンタクトの要約である。レポートはこちら。
これが「あの道」こと、日原側南岸にそそり立つ“とぼう岩”の古道。 今回はここを目指す。
撤退の翌日、私は近くの図書館へ行き日原や奥多摩町に関する郷土資料を読みあさった。
その成果は前回のレポートで先取りして紹介した部分も多いが、以下に『日原風土記』という本から一節紹介する。今回目指すトボウ岩という地名の由来についてだ。なお、『日原風土記』は昭和43年に日原の開祖の血筋である原島氏が中心になって編纂された郷土誌で、前回紹介した奥多摩町史にある「日原みち」の記載もこの本が元となっている。以後、本レポートでは単に『風土記』と略す。
- とぼう
- 奥多摩工業日原鉱山の基地になっているところで現在は「とぼう」または「とぼう岩」といわれているが以前は「とんぼうぐち」といっていた。「とんぼう」とは住家の出入口を指す方言で、この「とぼう」は日原部落の出入口ということなのである。
字地書 (作者注:明治期の字名を記した書) には「とんぼう口」とあり、一書には「蜻蛉宇山」とあった。(中略)
日原村地誌草稿(地誌)には北岸の岩を「蜻蛉地山」とし南岸の岩を「一の通り巌山」とし「これをもとぼう口といえり」と記している。
上記を受けて本レポートでは“とぼう岩”の表記を平仮名の「とぼう岩」で統一する。
また、前回レポート内での推測通り、とぼう岩は日原川の両岸にあったことが確かめられる。
私が目指す南岸のとぼう岩は特に「一の通り巌山」と言ったらしいが由来などは不明である。読みは「いちのとおりいわやま」であろうか?
次に、今回計画(予定)を地図上で簡単に紹介する。
果たしてその通りに行ったかどうかは、追って判明していくだろう。
今回計画図 (国土地理院発行1/25000地形図 「ウオッちず」http://watchizu.gsi.go.jp/より転載。 一部作者加工。)
もう何度となく紹介してきた日原の地図だが、またご覧いただきたい。
今回の踏破計画のスタート地点は日原集落だ。
前回突破できなかった斜面は何度行っても難しいと思うので、今度は日原みちの終点側からとぼう岩を目指すことにした。地図中の赤い文字や赤いラインが今回の計画に関係する部分である。
地形図には日原集落から日原川へ降りる点線がある。
当初は古道の存在を意識していなかったので何とも思っていなかった小道だが、今となってはこれが非常に怪しい。
残念ながら『日原風土記』を含め私の接した資料には古道を地図上に記したものがないので、この点線が正確に古道をトレースしているかは、行ってみなければ分からない。
この小道に従って日原川に降りると、そこには橋がある。この橋は旧都道からも見えていた。どうも小さな吊り橋らしい。
風土記に「旧日原橋」として何度も出てくるのがこれだと思う。今の橋が何代目かは分からないが、おそらく江戸時代からこの場所に橋が架かっていた。
橋を渡るといよいよ南岸である。この先地形図には何の地名も書かれていないが、風土記には樽沢やせべや、しらつちといった耳慣れない地名が古道の経由地として出てくる。
風土記に樽沢とは「滝が滝が連なっている沢のこと」とあるので、旧都道の“小崩崖”から対岸に見えた沢が(地図中に示した位置)がまさにそれであろうと思う。
「せべや」(狭い谷のこと?)と「しらつち」(白い土…石灰石?)はお手上げだが、風土記中に「とぼうの下腹部を伝わってしらつち、、、、を経てせべや、、、でふる道に合し」とあるので、いずれもとぼう岩と旧日原橋との間にあった地名であろうと推定した。(地図中の位置は推定位置)
ともかく、地名とその位置の関係にはいささか不安は残るが、明治期の地形図の描かれ方を見ても、この図の赤いライン(マーカーラインと点線)のように道が存在していたことは間違いないだろう。
そしてそれは日原みちとしての第4期の道であるようだ。
私は今回、日原集落→旧日原橋→樽沢→せべや?→しらつち?→とぼう岩(前回到達地点)というルートで計画した。
ちなみに帰路も同じ道を辿るつもりである。
なお、この計画は合同調査とするつもりであったが、東京へ越してきて日が浅く、また最初の探索からわずか1週間後という急な計画であったため参加できたのは、都内に住むトリ氏だけであった。
彼女も日原には前から興味を持っており、(旧都道の)偵察に単独で行ったこともあるそうなので、相手にとって不足はない(…たぶん)。
いざ本当に危険な場所に行き当たったら無理をせずに待つ事を承知して頂いた上で、2人だけの合同調査隊結成となった。
また、この時点ではまだチャリが故障したままだったので、移動は車で行い探索はすべて徒歩によるものとした。
それではこれより、第二次日原古道探索計画をご覧いただこう。
果たして我々は「あの道」に辿り着くことが出来たのか。
2007/1/23 10:47
思えば、前回探索時は集落のすぐ手前まで来ていながら旧都道へと引き返したので、その姿を間近に見るのはこれが初めてである。
この写真は、集落の東の外れ(下流側)に近い東日原無料駐車場からの眺め。
こうして見ると、日原集落の険しい立地が一目で分かる。集落のどこにも平坦な場所など見られない。
前回見た大沢や小菅の集落にも驚いたが、ここは村落としての規模が段違いに大きく迫力がある。
南向きの斜面に家々が並んでいる姿は前者とも共通している。
手許の昭和43年の日原地区の人口調によれば227世帯887人が暮らしている。今は少し減っているだろうか。
集落の守り神よろしく屹立している岩山がある。
一石山(神社)として中世から近年まで篤い信仰を集めた日原鍾乳洞。そのすぐ側に鋭く切り立つ稲村岩である。
刈り取った後の稲を立てて乾燥させる“いなぶら”に似ているからこの名が付いたとも言うが、奇岩巨峰が多い日原においても格段にユニークな山だ。
日原集落は今では東京都の最奥の袋小路にあるという印象で間違いないが、モータリゼーションが訪れる前はむしろ、北の峰を越えての秩父との連絡が盛んに利用されていた。また、明治26年に至るまでは多摩の殆どは神奈川県に所属しており、東京との結びつきは元来薄かったのである。室町時代に初めてここを開拓した原島氏が秩父から入って来たことからもそれが伺える。他にも奥多摩の一帯には原島一族が開拓して今日の集落となっている場所が少なくないが、一族拡散の拠点が秩父に最も近い日原だったのである。
そのような見方をすれば、日原から氷川へ「下る」道の整備が近代まで遅れていたのも頷けよう。
だが明治以降の日原は首都の後背地として下流へ向き直ることを余儀なくされる。特に太平洋戦争前にあっては、日原が木材および石灰石の供給源と目され、村からそれらを運び出すための産業道路の開発が急がれることとなった。結果生まれたのが旧都道(昭和17年着工 27年完工)であった。
これから挑むのは、それまで使われてきた道だ。
駐車場から下を見ると高層ビルから見下ろすような眺め。
ここ数日で少し雪が降ったようで、日陰には前回無かった量の雪が見える。
とはいえ、探索の邪魔になるほどでもなさそうだ。明治頃に日原でも60cmの積雪を記録したことがあるそうだが。
小菅や大沢に増して密集している家屋は、どれもみな今風に見える。
歴史の深い山村である日原だが、斜面という地形が災いして幾度も大火事に見舞われてきた。
元々は兜造りという勇壮な茅葺き民家が建ち並んでいたというが、昭和に入ってからも大火があって防火のために茅葺き屋根は見直されたのだという。
ここは人が暮らしている生きた集落であるから、風情がどうのこうのなどと言ってはいられないのだろう。
我々が目指すべき道は、おそらくこの方向にある。
駐車場からも細い階段が下っていて近道出来そうだったが、変に道を間違えると上り下りが大変なので、慎重に地形図のルートを選んで歩こうと思い直した。
写真には階段の他に2本の車道が見えているが、結果的に古道へ続くのは手前の道の方だった。
我々は荷物を念入りに確認すると、駐車場から歩き出した。
まずは古道との分岐点まで都道を西へ進む。
日原郵便局には昔懐かしい丸ポストが。
私はここで、ある読者さんへと山行がステッカーを投函した。
日原局が消印になった封筒で届いた読者さんが全国に二人だけいらっしゃるはず。
当日の気温は日中15℃まで上がる予報が出ていた。
しかし、朝の段階では放射冷却で気温が非常に低く、それはトリ氏の重装備を見ても分かる。
でも、すぐに後悔することに…。
天気もすっきり晴れてくれて助かった。
ただでさえ難度の高そうな目的地ゆえ、天候条件は最良で望みたかった。
都道が日原集落の入り口まで開通したのは先に述べたとおり昭和27年だが、そこから集落を貫通して奥日原(鍾乳洞方面)へと林道を延ばす工事が続けて行われた。元々車が通れるような敷地の無かった集落内だけに拡幅するのも難儀したが、最後は村民一致団結して道を通したと風土記にある。
現在も集落内の都道は狭く、ワンマンバスが来るとすれ違いは困難だ。道の両側とも古びた石垣で情緒深いものがある。
写真は駐在所の前から分かれる仙元峠への道。
秩父と日原を結ぶ代表的な道であったが、現在はハイキングコースとなっている。
駐在所では興味深いお話を聞くことが出来た。
我々がオブ装備(山歩きの装備です)で通りかかると、そこに話し好きそうなお巡りさんが出てきて、ちょっとばかり話し込んだ。
我々が登山をするのだと思ったらしいが、古道へ行くつもりだと言うと意外にも協力的だった。
お陰で集落から古道へと入る目印(鹿よけの緑のネット)を教えてもらえたし、旧日原橋が今も存在することが分かった。
地元の人はその橋を「おはし(大橋)」と呼ぶそうだ。
これは余談だが、旧日原橋には「無妙橋」という銘板があるが、これは別の場所にあった橋が崩されたときに、誰かが銘板だけそのまま移植したものらしいという話を伺った。暢気だー。
あまり時間もないので、感謝を述べて立ち去る。
間もなく地形図にある古道との分岐地点。
果たしてそこには都道から下流側へ分岐する急坂があった。
その分岐地点は集落上手から見た追分となっている。
いかにも新旧道の分岐地点ではないか。 ちょっと興奮する。
車一台がようやく通れるような狭い急坂。
半分宙に浮いたような駐車スペースを持つ家が多いが、驚くほど上手に大きな車も収まっている。
やはり、日原の人たちは超人…?
10:58
下っていく途中に、こぢんまりとしたお地蔵様が見守っていた。
向かって左の石仏には、読み取れる範囲には内容が刻まれていた。
大同四年 先祖〜
元治元甲子年五月 再建〜
大同年間は大層昔の年号で、西暦806年〜810年である。室町時代どころか平安初期の年号だ。どのような謂われでここにあるのだろう?
元治元年は十干十二支では甲子にあたり、西暦は1864年、江戸時代最末期である。
幾つも斜面に沿った方向の枝道がある。
思っていたとおり、最初にあたりを付けてから下ってきて良かった。
いきなりだとまず正しいルートを選べなかっただろう。
こうして舗装路になっている小道が、実は古道だったのである。
大分下ってきたし、それとともに集落の外れに近づいてきた。
見上げるとやっぱり“高層ビル”だった駐車場。
この数階建ての屋上が駐車場になっている。都道との高低差はゼロだから、いかに集落が急傾斜地であるかお分かり頂けよう。
こういう施設でもなければ駐車場のスペースもないのだ。
出発から10分ほどで日原の東の外れに達した。
舗装路も測ったようにここで終わり、広場の先には狭い砂利道が見える。
また、広場の上には骨組みだけになった作業所のような建物がある。
かなり都道からは下ったが、まだ日原川の谷底は50m近くも下にある。
日陰になった対岸の斜面は、怖いほど真っ暗。
微かにゴーーという渓声が聞こえている。
日原橋は谷底で渡るので、初っぱなから結構大変かも知れない…。
おまわりさんは「気をつけてね」と妙に寛容な感じだったが…。(行くなと言われるかと思った)
おまわりさーーーーん!!
通行止めだおーー!
…って、貴方はなにも悪くありません。
そう。
こんな変な場所に向かおうという我々がいけないのです。
きっと、この旅も一筋縄でいかないものになりそうだ…。
私は嬉しい予感に武者ぶるッた。
砂利道どころか、広場の先で人が歩けるだけの狭い道になってしまった。
これは予想外。(写真は振り返り撮影)
この道は旧都道が出来る前までの地形図に描かれているルートで、てっきり第5期の改修工事後のルートだろうと考えていた。第5期ルートというのは、昭和6年に「せべや」から日原までを幅1.8mの荷者の通れる道に改良した工事のことである。
だが、どう見てもこの日原集落から下っていく古道(おまわりさんも認めていた)は、ちょっと違うような気も…
うーーーむ。
いきなりの予想外の展開?
これが第5期ルートで無いとすれば、当然それ以前の古道だったろうと言うことになる…。
まあ、行ってみよう。
うむー。
やはりこれは歩き専用の道な気が。
一応電線が道に沿って続いているが、先は長くなさそうな気も。
目印の鹿よけネットと言うのも見えてこない。
道を間違えたのか?
間違えてなかった。
すぐに我々は野外に開け放たれた扉と出会った。
傍らには緑のネット。
ここが、鹿達にとっての日原集落のとんぼう口なのだ。
そして… 我々にとって、生還への逆さとんぼう口…
果たして、何人がこの門へ生きて戻って来れるだろう。
(トリ氏を殺す気か?!)
「あの道」突破への新たなる挑戦が、いま 始まる!!