中世に秩父地方から進入し、この日原の地を拓いた原島家。
彼とその眷属の子孫が連綿と利用し続けた外界との連路、それが「日原みち」の始まりであった。
はじめ、外界側からこの道へ人が踏み込むことは稀であったが、やがて日原の奥地に一石山(日原鍾乳洞)なる信仰の地が現れ、近世には「日原みち」の改良が行われた。
右の図は、『日原風土記』や『新編武蔵風土記稿』などを元にして作成した、歴代の「日原みち」の概要である。
風土記における道の分類(第1期〜5期)に、現道の直接の元となった道を6期として加えている。
このなかで、最も各代の道が輻輳しているのは「とぼう岩」の近辺であり、最も険しい河崖部分を大きく山上に迂回してきた第1期2期の道に対し、初めて谷中に道を開いたと考えられる第3期道は、その後の日原みちの方向性を決定づけたと言える。
この第三期道のとぼう岩開削については、風土記にはこう書かれてある。
第三期の道は旧氷川道の倉沢道分岐点(倉沢わかされ)からとぼうの下腹部を伝わってしらつちを経てせべやでふる道に合し、(中略)この道の開設にはやまじょう(「へ」の下に「山」の屋号…原島家のこと)の先祖の努力によったことが多く、土木技術の幼稚な時代で、岩石の切取りに苦心したものであるという。
とあり、別の資料では、これは江戸時代の文化年間か嘉永年間のことであるとする(資料によってまちまちである)。
いずれにしても、江戸時代の中後期には、初めてとぼう岩の中腹を切り開くような大規模な土木工事が行われたのであろう。
さて、この歴史的な第3期道の現状は、どうなっているのであろうか。
おそらくこの第3期道、別名「江戸道」の探索こそは、日原古道の中でも最も魅惑的でありかつ困難を極める、この地における探索の最終目的になるであろうことは、なんとなく予感されていた。
左の写真は、日原古道との出会いの光景としてまだ記憶に新しいが、旧都道探索時(レポはこちら)に撮影されたもので、崖にへばり付くような道の姿が写っている。
いまとなっては正視に耐えるが、初見時には失禁さえしかけたものである。
その後の二度の挑戦によって、私は幸いにもその全貌を確認し得た。
そして、この道が第4期の道、すなわち大正6年竣工という「大正道」であることを確認した。
荷馬車や、これは正史的には未確認ながらオート三輪さえ通ったという道で、そこは致命的に険しいながらも石垣や橋の遺構も鮮明に残る、れっきとした道であった。
東京が都でなく府を付けて呼ばれていた時代の「府道」でもあった。
トリ氏と共に、初めてとぼう岩を征したあの感激は、色褪せることなく私の記憶に残っている。(レポートはこちら)
だが…
この写真をじっと見つめると、また他のラインが浮かび上がってくる。
二度の探索においても不到達どころか、入り口さえ確認できなかった、別線の存在である。
上の写真とも見比べて欲しいが、右の写真に加えた赤いラインの通りに、確かに道があるように見えるだろう。
また、さらに微かではあるが、この深い谷を跨ぐようにして、一本のワイヤが宙づりになっているのも見える。
画像中では白いラインでハイライトしているが、この一端は「江戸道」の下部に写る穴の中へと引き込まれているように見えなくもない。
これは果たして坑口なのか、自然洞窟なのか。
それにも増して見過ごせないのは、江戸道が途中で隧道を穿っているように見えることだ。
もしこれが本当に隧道で、かつ道が江戸時代に切り開かれたと言うことになれば、それは前代未聞にも等しい「江戸時代の隧道」と言うことになる。
なんとしてでも辿り着きたいと希う江戸道の最終到達目標地として、この「隧道疑惑地」が決定されたのは、言うまでもない。
そして、今回の計画だが、左の図のルートを予定。
最終目的地は先にも言ったとおり、江戸道のかなり上部にある隧道らしき場所。
前回攻略した4期道から下ってアプローチすることも考え無かったわけではないが、思い起こせばあの断崖絶壁。
とても降りていけるような場所はなかった。それに、江戸道を上から目視にて確認することも出来なかったし、上からのアプローチは困難であると判断。
結局、未だ一度も挑戦したことのない、谷底からの登攀によるアプローチを目指すことにした。
なお、矢印で示している部分は、高低差100m近いガレ場斜面の下降となるが、ここは前回の帰路に谷底側から軽く下見しており(まだレポにはなっていないが)、下降は可能であると判断した。
なお、今回の踏査計画を「日原古道第三次探索」と命名し合調参加者を募ったものの、諸般の事情により引き続きトリ氏のみの同行となった。
探索決行日は、第二次探索のほぼ1ヶ月後となる、2007年2月21日であった。
対岸からの写真を見る限りにおいて、とても素人ごときには辿り着けそうもない江戸道の偉容。
この地の地形的な恐ろしさは、前回までの探索で嫌と言うほど味わってきた。
私自身、今回の探索の最大の目標は到達ではなく生還である。
密かにそう心に誓っていたほど、大きな危険と、理性を失いかねない興奮が予想された。
果たして、我々は江戸道へと到達し得たのか。
いま、日原古道への最後の挑戦が、幕を開ける!