第三次 日原古道探索 江戸道 最終回

公開日 2007.7.15
探索日 2007.2.21
東京都西多摩郡奥多摩町

江戸道 陥落! 

山行が史上最も接近困難だった隧道


 2007/2/21 15:22 

 江戸道最大の難所である「決壊地」へは、初め私の単独で挑み、遂に3mほど離れた決壊の向こうへ辿り着いたのが、午後3時22分。
最初にここで足止めを食ってから7分経っており、実際に崖に挑んでいたのは1分足らずだったから、大半の時間は、行くか退くかの葛藤に使われた。



 トリ氏には決壊地手前で待ってもらったまま、私はこの足元に復活した道を先へ進んだ。
そして、本当に僅かな距離。5mくらいだったろうか。そのくらい歩いたところで、


 前方に隧道が存在することを、確認した。

当然興奮した。
すぐに踵を返し、トリ氏に隧道があったことを伝えた。
とりあえず、ここさえ超えられれば隧道まではすぐだというニュアンスで伝わったと思う。

これではトリ氏が無理を押してでも来たいと思うのも当然であり…。





 15:30

隧道発見の8分後。
トリ氏もこの決壊地を越えた。

特に、道の高さから最初2mほど崖を下るところが恐かった。
足の着く高さにろくな足がかりが無く、ほぼ腕の力だけで身体を下降させねばならなかった。
その先でやっと足を下ろせるのは、何とも不安定そうな灌木の根。
この根が体重を支えきれるのかが不安だった。
(ここで私は下支えをするべくサポートしたが、それが不要であったばかりでなく、二人分の体重が不安定な斜面に掛かったことになり、無策であった)

結局、ここでは殆ど一人一人の強運(或いは不運でないこと)が試された。
オロナミンCリポビタンDのCMみたいに、墜落を始めた仲間を咄嗟に救うなんて事はまず出来ない。





 ともかく、15分を要して二人は揃って最大の難所を突破した。(写真はこの決壊地を振り返って撮影)

そして、この先に我々の江戸道攻略を邪魔するものはなかった。

そのことは、単に幸運であったばかりでなく、「接近困難だが道は確かに存在した!」という強烈な印象を我々に残した。


 なお、当然のことながら数分後にもう一度、今度は逆側からこの死地に挑まねばならなくなった。
先の負荷によってどこまで弱っているか知れない岩場や灌木の根を頼りにしての行路は、なお恐ろしかったが、逡巡していても生還の道はないので、天運に任せ突破したのであった。

 もう、無策のままにここを通ることはないだろう。


 ■動画【隧道出現!】■




 私のこれまでの探索経験の中で、もっともその接近に苦労した隧道だったと思う。
(森吉の"神の穴"は隧道じゃなさそうだしな…)

実際この場所へたどり着いた瞬間の私は…










 二人とも有頂天を極めたですよ。
そりゃもう当たり前。
だって、こんな徒手空拳でこの場所へ来たんだぞ。

すげーじゃん俺たち。 バカだよバカ。


ヤッho──





 隧道の中はどうやら、時間の流れが周りよりも遅いらしい。
白亜の聖堂と同じく、そこにかつてあった道の姿が真空パックでもされていたかのように残っていた。

その狭さも、短さも、歪な形も。
皆、この江戸道の隧道に与えられた形。
車など通らぬこの道にだけ許された形。

右の写真は、身体で隧道の狭さを表現する事を試みる私。
決して真面目な葛藤に喘いだ姿には見えない。







 隧道の先の道


 15:32

隧道…
本当の名前など知らぬが、今度ばかりは勝手に名付けさせてくれ。

なんのひねりもないけど、 「 とぼう隧道 」 と。

日原集落の天然の大要害、とぼう岩の右翼「一の通り巌山」の下腹部を貫く、僅か3mほどの隧道。
高さ、幅のいずれも人間が通り抜けるにのやっとのサイズであり、床は砂利敷き、内壁は全て素堀。

江戸中期、日原の祖・原島家が中心となり、村人の自力で普請したと伝えられる、苦心惨憺の道。

その、おそらく唯一の 隧道。








達成!

…本当に来れるとは思ってなかった。

なのに、達成!

通り抜けてる、俺たち!


…この岩場だけは、どうしても隧道しかなかったんだろうなぁ。

夕陽色に照らされた、まるで鉄板のような岩盤。
これを越えて道を造るなんて… 人間ってどうかしてる?!





 あ、あれ?!

…レールが ある。


いや、あると言っても一本だけだし、ひっくり返ってるし、元もとここに敷かれていたものでは無い…だろう。

直前の隧道など、まずトロッコが通れる幅など無いのだし。

まさかここでこんなものを見るとは思わなかったが…。




 最大の目的であった隧道には無事到達したが、その先の道は思いのほか“しっかり”存在していた。

…むろん、“これまでと比較して”と言う意味だが。

しかし事実、ここまで来られた者に往けぬ道ではない。

感覚の麻痺した今こそが、江戸道踏破最初にして最後のチャンスだ。


 当然、終わりまで行く!







 ここからしか得られぬ眺めを、この両眼にしっかりと焼き付ける。


余りに深い日原谷は、もう底の方から夜の闇に落ち込んでいた。

ここもあと少ししたらあの闇に呑まれる。


最後を見届けたいが、急がねばならない。

日没は、我らを待たない。



 今までの苦労の全てが報われるような道だった。


そこには、谷を渡る風の他に、我々に干渉するものは何もない。


この道は、もうどれだけの時間を孤独に過ごしてきたのか。


しかし、道はまだその使命を忘れていないかのように、我々をいざなった。


 ■動画【江戸道】■





 何か様子がおかしい。


先ほどのレールもそうだった。

そしていま、無数の金属製の物体が、我々の江戸道を侵食…

──いや、もはや認めなければなるまい。

江戸道は、江戸時代そのまんまの道ではなかった。 と。


それどころか、そもそもこの道は江戸時代の道などと無関係であり、単に鉱山関係で使われた作業路ではないのかという(許したくない)疑念が、今も私の心の中に澱のようになって存在している。

江戸道が“とぼう岩”の部分において4期道と別に(異なる高さに)存在したと考える根拠は、古文書の僅かな記述の解釈次第といえる程度のものであり、はっきり言えば私の思いこみの線を捨てきれない。

なお、この写真に写る谷底へ続く2本のワイヤーは、4期道のトラス残骸に見られるこれの先と思われる。




 隧道の先、加速度的に現れ始める無数の金属片。

(写真左) 片洞門を成す側壁岩盤に打ち込まれたままのロッド(削岩機の先端部)。
(中・右) 路肩に設置された鉄棒。先端には切れ込みがあり、かつてロープを張って転落防止を図っていたと考えられる。

…いずれも、江戸時代には有り得なかった物品である。




 これらの発見は、私とトリ氏に少なからず衝撃と落胆を与えた。

しかし、江戸道のままの姿ではなかったとしても、これが江戸道を元に築造された鉱山通路であった可能性は十分高い。


それに、これらは全て自分の目で見なければ納得されなかった事柄である。

答えを教えられる前に自らこの地を踏んだことは、決して無駄ではなかったと思う。




 隧道からおおよそ30m。

道はここまで緩やかな下りであったが、急激に落ち込んでゆく。

少しこの場所に馴染んだと思った心が、再び墜落の恐怖に震え始める。


この景色、数時間前に一度見た景色にそっくりだ。


「あの場所」が、近づいていた。




 江戸道はひとしきり下ったところで、唐突に終わりを迎えた。


いや、或いは破壊されたか崩壊したのか…。

…そう考えなければ、私の今日一度目の命懸けは、間抜けな無駄骨だったことになってしまう。



 現在地はここ。

どうやら、この道はここでヘアピンカーブを描き、今まで歩いていた道より一段下に入り込むようだ。

江戸道という一連の道を想像していたが、
そして、それを信じて下側からのアプローチを行い、まずまずいいところまで行けたつもりであったが、全て根底から揺らぐ。

江戸道など幻で、あったのは、ここでターンして坑道へ向かう鉱山通路だったのか…?!




 写真左は、この無理矢理なターンの様子。
画像にカーソルを会わせて欲しい。
こんな道を鉱山で使ったとしても、果たして何が出来たというのか。
何かを運搬することには、ろくに使えなかったろう。緊急時に人が避難したりするくらいの用途か。

そして、4期道から隧道を経てここまでの通路は日原古道としての「江戸道」を活用した可能性があるが、少なくともこれから先、この「下段の道」は、坑道に行くために造られた、昭和の道であろう。

 写真右は、よもや半日間も置き去りにされると思わなかったろう私のリュック。
かなり寂しそう。




 因縁の道 終点す


 15:42

切り返した後も、やはり道は続いていた。

だいぶ高度は下がってきたが、なお墜落すればマンション5階から落ちるくらいのダメージは受けるだろうという高さ。
一切欄干など無い道幅1m未満、しかも全体的に荒れ果てた、まさに廃道、廃歩道を黙々と歩く。

もう細かな部分まで観察している時間がない。残念ながら。


日没まで1時間を切っている!!



帰り道どーすんだー!!





 慌てず、けれど急いで先へ進む。
そして遂に来た。
予想通りの景色。

午後3時43分。 《現在地》

終点だ。

あの谷底に墜落した大鉄橋が架けられていた、これまで不可触と思われていた坑道。

その入り口に来た。

もう二度と来ないと思うから、中も探険したかったが、如何せん… 
時間がなさ過ぎる!
こんな所で夜になったら大変なことになる。


坑口付近だけ覗いて、撤収せざるを得ない…。




 ここには、穴が二つ並ぶようにして口を開けていた。

一つは、レールが出入りしている巨大な穴。
おそらくは本坑。

それと並んで隣に小さな口を開けているのが、この写真の穴。
内部は雑然としていて、しかも奥行きと言えるものはほとんど無い。
天井も極端に低く、おそらくは隣の本坑で使う火薬類を保管するための危険物庫の跡だろうと思う。




 坑口前の踊り場は極めて狭く、十分に坑口から離れて二つ並んだ坑口を撮影するなどと言うことは、不可能である。
坑口から2mも歩くと、もはや日原川の崖に足場を失う。

 本坑坑口。
しっかりと枕木に固定された太いレールが二本、行儀よく出てきており、前回の探索で最後に遭遇した、おそらくズリ出し用と思われる坑道とは一線を画す。
坑口前にはアーチ形の架線柱が組まれており、近代的鉱山の営みを感じさせる。




 坑口前から私のここへ来た道を振り返って撮影。

といっても、写っているのはドラム缶までの僅かな距離。
その向こうは岩場の陰となり見えない。
ただ、この画像だけでも十分分かるだろう。

ここに来るための道が、如何に細いかは。

それが近年の鉱山関係であったにしても、まともな道では有り得なかった。




 坑口からそのまま緩やかな放物線を描き、渓声とどろく谷底へと消えていくレール・・・。

なんだか、自分がとんでもない場所に来ているにもかかわらず、遊園地のアトラクションを見ているような、現実と乖離した奇妙な錯覚を憶えた。


 向こう岸、ここと同じ高さにもう一つの坑口が見えている。
あの穴の内部には、今も生き続ける地下駅が存在するそうだ。
周辺の山々を削って運び出された石灰石を集積し、更に氷川から大東京へと積み出すための地下駅が。

昭和30年代にその駅から出発し、地底を突き抜け谷に達し、更にこれを渡って私の背後の山へ潜る。そしてその内部を虫食いにした、「戸望二号線」という軌道があった。
いつしか廃止され、危険防止のためかはたまた災害によるものか、巨大なトラス橋も落ちた。







以って本坑は、


「 封 印 」 された。




終 章  「 封 印 坑 」



 江戸道をたどっていたつもりが、なぜが最後は坑道に。

前回と大差ない展開じゃないか!

やはり悶々とした気持ちが芽生えたが、今それに構っていては機を失う。

とにかく今は、一分でも多くの奥地を体験しておこう。

私は、15分間という厳重なタイムリミットを自身に課し、坑口へ潜った。

15時45分 〜封印坑 入坑〜




 坑口からは、様々なものが地上へと出ていた。

しかし、ここに真っ当な地上など無い。

外へ出たものは、その全てが例外なく切断、或いは谷底へと無惨に引きずり込まれていた。


なお、橋が落ちたとき、既にこの坑道は用済みだったようだ。
洞内のレールの片側は、謎の鉄管に乗っ取られるように隠されていた。




 入坑10mで、坑道は後方へと分岐した。

写真は振り返って撮影。
右へ分かれる坑道の行く先は、やはり地上。

レールは敷かれておらず、二回り以上も断面は小さい。


その行く手は、だいたい想像が付いた。

先にこちらへ行ってみよう。




 廃材やら使われなくなった機械類が色々と放置された支坑。
やはり10m以内で地上に達して、終了。

ただし、こちらは外へ出ることは出来ない。

もし出たら自殺してしまう。







 坑道の断面は本坑より狭いが、坑口はラッパ状に広がっており、断面が大きい。
ただ、何となく乱暴に造られたという感じで、形は整っていない。
掘られたというか、崩したという感じさえする坑口だ。

そして、この坑口の意義は一つ。
入り口を塞ぐ金網の柵から外へ出て、そのまま頭上へと消えていく鉄の管。それのみ。




 そう。

いままで遠目にはワイヤーだと思っていたそれは、なんと直径10cmくらいはある鉄の管だった。

こんなものが、細いワイヤーに吊られるようにして、やや撓りながら谷を跨いでいたのだ。
索道などではなかった。

そして、このパイプの目的も、坑内側の行き先を丁寧に追いかけていくことで、間もなく判明した。

現在もこの鉄管が生きているとしたら、対岸の現役採石場施設と廃坑とが、唯一結ばれたラインと言うことになる。
決して貨客は通行不可能だが。




 再び暗がりへと戻る。

そして本坑を、SF501の明かりを頼りに先へと進む。

分岐点より奥は、これまでと比べものにならない重苦しい空気、闇が満ちていた。

そして、風が無くなった。


土の臭いが、 してきた。




 あっけない最後だった。

坑口より30mも行くか行かないか。
振り返ればまだ坑口の明かりが見える位置で、本坑は白いコンクリートの壁でしっかりと塞がれていた。

その閉塞壁には、先ほど支坑より入ってきた鉄管が突き刺さるように入っていた。
また、巨大なバルブと蛇口がいくつか、やはり壁からニョッキリと突きだしていた。

辺りは静寂に包まれていた。
天井には、碍子やら笠電球やらが、だらしなくぶら下がっており、終の地の雰囲気としては、申し分なかった。





 いや、まだ終わりとは言えなかった。


壁の上部には、人がギリギリ通り抜けられるくらいの、隙間が存在していた。


私は迷った。

もし、この奥にもまだ坑道が続いていたら、どうしよう。

どうするのだろう、私は…。


先を見ることが恐ろしかった。
しかし、よじ登っていた。




 ホッ  終わった。

不要になった戸望二号坑道は、対岸の採石場で生じたズリやスライム(鉱滓)を投棄するための、ズリ捨て坑となっていたようだ。

そして、全洞を支配する静けさや錆び付いた雰囲気は、その最後の役目も既に終えている事を、教えてくれた。

幾多の支坑や不要となった諸設備を残したまま、とぼう岩の大岩盤に蟻の巣のように張り巡らされた戸望二号坑道は、残滓の底へと消えていた。


 地と地の混濁。

もはや、二度と人の手が及ぶことのない、静けき 終点。




 午後3時52分。

タイムリミットに幾ばくの余裕を残し、坑道の探索を終了。


全撤収行程に移った。




 現地の模式図。

苦労して辿り着いた江戸道が、本当に江戸時代に由緒のある道であったかは、今後のさらなる調査を待たねばならない。
主に、机上調査を。


しかし、とにもかくにも、「山行が史上最も接近困難な隧道」を仕留めた喜びは、小さなものでは有り得なかった。







 二人は、今回の全ての成果を持ち帰るべく、最大限の緊張感を持って4期道への帰還を図った。
4期道も危険な道に違いはないが、とにかくこの足元の江戸道さえ乗り切れれば、何とかなる。

 そして午後4時10分、4期道へと復帰。

さらに4期道を上流へ戻り、谷に下り、私のリュックを回収し、再び旧都道へガレ場を上り、来たときの逆ルートで日原へと帰った。

午後5時40分、
日原駐車場

─生還。








こうして、
私の三度に及ぶ日原古道探索は、
一応の区切りを迎えた。


いくつかの謎を、残して…。