2007/1/23 15:51
今回紹介する区間は、以前公開した「第二次 日原古道探索計画」の最終回直後に探索した。
これは当初から計画していたわけではなく、この日序盤の日原川右岸探索中に偶然発見し、これをとぼう岩からの帰り道として利用したのだった。
そしてその結果として、この道が日原集落まで都道とは別ルートで繋がっていることを確認。
晴れて昭和の築造でありながら謎に満ちた5期道ルートが、ほぼ完全に解明されたのであった。
現在地は、樽沢が日原川に滝となって落ちる対岸(左岸)。
樽沢を渡る橋があって然るべき地形だが、現存しない。しかし、前後に鮮明な道の痕跡がある。
この付近で、とぼう岩をへつって大正4年に開通した4期道と、昭和6年に開通した5期道とが接続していた。
厳密にどこが接点であったかは分からないが、ともかく5期道の開通によって初めて氷川〜日原間に荷車、自転車、バイクなどが通れるようになったとされる。
上の写真と同地点から、日原川上流を撮影。
写真中央の斜面に、コンクリート製でラーメン構造の橋台が写っている。
当時の日原川では盛んに「鉄砲出し」(川を使って木材を運搬すること)を行っていたために、水面には橋脚を下ろすことが出来なかったのだろう。
ここに、「惣岳吊橋」という名の巨大な吊り橋が架かっていたという。(目測だが、20〜30mの長さ)
同様の橋台は、右岸側にも残っている。
これが、5期道として記録に残るもっとも下流側のものである。
近づいてみると、このようにかなり大きな構造物である。
そして、この辺りは旧都道の数多い崩壊地の直下となっており、膨大な瓦礫が山腹を埋めている。
登ろうとすると音をたてて足元から崩れる状況で、転落云々というよりも単純にアリジゴク的な徒労を感じる。
なかなか登らせて貰えない。
ともかく、汗を掻いて橋台の上に立つ。
登り着いた左岸橋台付近より、とぼう岩方向を振り返って撮影。
禁漁区であるゆえ、また実は奥多摩工業の立入禁止エリアであるため、ほとんど立ち入る者のない谷底。
そこに失われた府道、「日原氷川線」が存在していたという確かな痕跡である。
昭和27年に都道が開通したことで廃道化したと思われるが、航空写真の記録によればその後も橋は存在し、50年代までは架かったままだったようである。
通常吊り橋が自然に落橋すると言っても、主索(ケーブル)まで消失することはない。
この橋は人工的に取り外されたのだろう。
橋の周囲は一面瓦礫の斜面で、旧都道から押し流されてきたらしいゴミが散乱していた。
それは「ファンタグレープ(250ml缶)」「カルピスソーダ(250ml缶)」「道路照明(グロー付き)」、そして、この看板(写真)。
注意文の最後が変わっている。
というか、これは誤字なのか??
樹木伐採の際は近くの東電"え"
15:55:55
それでは、夕暮れ間近の5期道を、日原へ向け出発進行!
目の前には、確かに道跡と分かるラインが、崖の合間に途切れ途切れ続いている。
日原川の谷を挟んで対岸には、今日の午前中必死に歩いた道が見えている。
今思えば、日原最初の探索のとき、旧都道から谷底対岸にこの石垣を見つけたことが、「旧都道よりも古い道」への興味の発端だった。
しかし、その後の探索によって、皮肉にもこの石垣道の所属は「不明」となってしまった。
5期道は足元にあるのだから違うはずだし、4期道、3期道との直接の繋がりもない。
(写真左) 旧都道との高低差は30mを越える。ガードレールが僅かに写っている。
(写真右) これまでになく路幅が広がった。そして、その先はカーブ。
午前中にも我々の頭をだいぶ悩ませた、橋台擬定石垣の地点に到達。
こちらから見ると、「謎の道」は明確にこの対岸から始まっている。
そして、此岸にも橋台らしき石垣がある。
しかし、この位置にいかなる橋が架かっていたという記録もない。
また、橋台らしき石垣も形は不鮮明で、先端部分は崩壊しているようでもある。
具体的に橋台だと断定できるような構造でもない。ただの角形の石垣である。
不自然な点は、まだ他にもあった。
トリ氏が、そして私が立っているのは5期道の路盤であるが、此岸の“橋台擬定物”とは段差があって、道としては繋がっていないのだ。
対岸の石垣道がこの地点の対岸から唐突に始まっているという状況証拠は重く、おそらくここに両岸を結ぶ何らかの構造物があったことは疑いのないことだろう。
しかし、それが橋であったかは疑問が残る。
結論から言うと、この一連の遺構については未だ解決していない。
5期道の探索が完了して以来、日原関連の道路調査は休止している。
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16:09
や、
やう゛ぇ……
相当クリティカルだぞ…… ここは。
(参考:対岸から見た同地点)
しかも、目の前の致命的な崖でさえ、 「前戯」でしかなかった。
逃れられぬ定め。
いままさに、赤色巨星へと変じた恒星にのみ込まれつつある…
もはや破滅という終章を決した、哀れな惑星。
その惑い星の姿が、道…
或いは、我々に重なる。
ここでも、“日原マジック”は健在だった。
瓦礫が厚く積み重なった斜面は、登ることは困難でも、水平に横断するだけならば、どうにかなった。
もっとも、常に崩れゆく足元のバランスを整えながら、立ち止まらず進む呼吸が必須。
立ち止まっていれば、自然墜落を免れないからだ。
踏み出せば、引き返すことは出来ない。
楽しいが、怖い。
スリル系オブローダーにとっては、まさに酒肴。
だが、賞味するには奮励を要する。
…トリ氏も、ここは、 ここだけは! 滑れない!!
無事に、約20mの活崩壊斜面を横断。
今一度、片洞門となった道の姿が現れた。
最後の道が。
そして午後4時12分。
惣岳吊橋から約300mの位置にて、前途の道は完全に消失した。
代わりに現れたのは、灰色の支配する大崩崖。
これから、横断する。
各自足回りの最終確認。
トリ氏にとっては、これが初めての大崩崖チャレンジ。
(初めてなのに、いきなりイレギュラーな5期ルート越えとは…不幸だ)
大崩崖横断。
その序盤は、さほどの困難を感じるものではなかった。
重力に支配された斜面の常として、谷底に近づくほどに傾斜は緩くなっている。
あらゆる人工物を押し流してしまったこの大崩崖では、自然の理が通用していた。
旧都道の横断部分はこれより20〜30m上方だが、それよりは横断しやすかった。
だがその一方で、下部に行くほど扇形に広がった崩壊斜面ゆえ、横断せねばならない距離は格段に大きかった。
しかも、何本かの崩壊の中心となる谷筋が明確に刻まれており、その前後は傾斜が急で大きな注意を要した。
当然、旧都道の横断部分とは異なり、一切の踏み跡は存在しない。
谷底に近いことは、けっして転落時のリスク軽減に結びつかないと考えられた。
斜面の崩壊という“上から”の衝撃と、谷の浸蝕という“下から”の衝撃。
その両方がせめぎ合う崩壊末端部は、例外的に傾斜がきつく、一部は垂直に落ち込んでいる。
5期道の横断位置はこの絶壁の縁にそう遠くなく、致命的転落の危険度は旧都道よりも大きいと感じた。
写真は、どこかから墜落してきたレールの切れ端が絶壁の縁にぶら下がっていたのを撮った。
さし渡り200m(地図測定)にも及ぶ崩壊斜面だが、先ほども述べたとおり、途中に何度か谷と尾根がある。
そして、この谷から尾根、尾根から谷への移動が難しかった。
写真の箇所は、2度目の谷から次の尾根の入りを撮影したもの。
灰色の瓦礫の谷は比較的緩やかだが、土色の乾いた斜面は見た目以上に困難だった。
参考:対岸から撮影した現在地
怖じ気づくこともなく、果敢に追従してくるトリ氏。
私が前を進んでいる以上、信じてこの道を辿るよりなかったかもしれない。
谷は、既に薄暗い。
足元からどんどん夕闇は迫っていた。
もはや、ルート変更は難しい。
この大崩崖をがむしゃらに登れば旧都道のラインにぶつかるが、そこに道を見つけ出せるかも分からない。
なにより、この崩壊地の対岸に再び道を見つけ出せるかどうかのチャレンジはスリリングで、我々のオブローダーとしての血を滾(たぎ)らせのかもしれない。
前方の景色には、さほどの変化は無かった。
崖を登ればまた新しい瓦礫の斜面が現れ、そしてまた茶色の崖が現れて…。
変化の乏しい景色の代わりに、トリ氏の頑張り姿を公開。
そして、中盤のインターバルを終え、終盤の活崩壊面へ突入。
後半は大きな凹凸もなく満遍なく瓦礫斜面なので、このような場所に体が慣れてきたこともあって、けっこう余裕が出てきた。
順調に前進を続け、そして遂に…
“陸地”が目前に!
しかし、“上陸”してからのほうが、より困難だった。
それも道理で、明らかに向こうの方が勾配が急なのだ。
16:32
約20分を要して大崩崖を横断したが、横断中出来る限り水平移動を心がけたにもかかわらず、“上陸”した先に道はなかった。
見える範囲で上や下を観察しても、やはり道はない。
この期に及んで道をロストしたのかと私は戦慄したが、冷静になって考えれば、この斜面も様子がおかしい。
木は生えているもののどれも矮木で、しかも疎らである。下地に草もほとんど生えていないし、なぜか幹が埃っぽい。
そして、なぜかトタンの切れ端や炊飯ジャーなど、大小様々なゴミが散らかっていた。
私は思った。
この斜面もまた、大崩崖の一部なのだろうと。
いまでも頻繁に崩壊は発生し(木を根こそぎ折ってしまわない程度の規模の)、この埃っぽい斜面を“活かし”続けているのだろうと。
道を消し去った斜面の崩壊は、予想以上の広範囲に及んだのではないか。
そして案の定、明らかな崩壊地形が矢継ぎ早に現れた。
いまだ、道の行き先は全く見えない。
先導する立場として、この展開は心苦しい…。
…ちなみに、この写真のトリ氏は足が粘着質にでもなったような(アプト?)傾斜に留まっているが、これはカメラが傾いていたのだろう…(笑)。
16:45
道だー。
ホッとした。
大崩崖。
5期道レベルでの横断は、旧都道上でのそれよりも、
遙かに困難であった。
約30分を要し、
ようやく横断を完了した。
久々に復活した道ではあったが…
むしろ、全く逃げ場のない状況となった。
道幅も、記録されている1.8mを大きく下回る。
…もし、この先でどうにもならないような道の断絶があったとしたら…。
まるで、童話の中に出てくる魔王の住む城へ続く唯一の道。
そんな風景だった。
なにせ、現在地は対岸からだと、このように見えているのだ。
これでまともな道な筈がない。
むしろ、途絶えていないことが不思議なくらいである。
そして出てきた、謎の穴……。
半日前、この穴の正体をいろいろと妄想したものだ。
もしかしたら、隧道になっているのかも知れないとも考えた。
いざ、その正体は?!
<答え>
なんでもありませんでした。
凹みでした。
岩の。
人工的な掘削によるものだとは思うのだが…。
なにかの試掘坑なのか、はたまた待避所…?
荷車と人が行き違いするための……?
そんな考えも夢があるが、これまた正体は不明である。
この日投げかけた謎は、その多くを同日中に回収することが出来たといえる。
難航した5期道の攻略も、ようやくその終わりが見えてきた。
旧都道を通り越し、現都道の登竜橋が思いのほか近くに現れたのだ。
(実際には、前2回に紹介したとおり、まだもう少し先は(カオス・オブロード)あるのだが)
何とも美しい、金色の空き缶を発見。
その名も、トレッカ・コーヒー。
…またしても、トレッカ。
日原には、トレッカが良く普及していたようである。
ちなみに、廃道一番人気の「ジョージアオリジナル」はこの地ではさほど見られない。
ここに多いのは、「ファンタグレープ」だった。
生還を強く意識し、目立って足早になった我々の前に、最後の道の途絶が。
5期道は、最後の最後で僅かに寸断され、そこには素堀の坑道から飛び出す2本のレールが。
こんなところ(都道のすぐ下である)にも、坑道が口を開けていたとは…。
別にこれまで探してきたわけではないが、出発地の間近にも存在していたのは驚きだった。
驚きついでに、なんとこの坑道の奥の方には、入口から見てもはっきりと分かる照明が照らされていた。
この封鎖された坑道の奥には、今も現役のエリアが存在しているようだ。
特に何かの音が漏れだしていると言うこともなく、ただ僅かに風の流れを感じるのみである。
我々は、何か得体の知れない坑道世界の沢山詰まった山の表面を、四苦八苦して歩き回ってきただけらしい。
軽く脱力感を覚えたが、そんな気持ちもすぐに吹っ飛んだ。
いよいよ、丸一日かけた第二次の日原探索が、成功裏に幕を下ろそうとしていたのだから。
坑口から引き出されたレールは、そのまま中空に放り出されて途切れていた。
かつて、ここには90度右にカーブする橋が架かっていたのだろう。
そして、事故なのか故意なのかは分からないが、坑口直下の谷間には何輌ものトロが残骸となって放置されていた。
廃坑ではないことが分かるだけに、坑内外の“温度差”が余計に異様な感じを与えた。
前回レポートの最終地点(合流地点)である。
ここから右へ、九十九折りで登竜橋袂へ脱出する廃歩道が存在している。
我々は、時間的にもその存在に大いに助けられた。
階段の最後の急なところは半ば這うような姿勢で登り、どうにかやっとか、都道へ脱出。
おおよそ8時間ぶりのアスファルトの感触は、堅い生還の喜びそのものであった。