岩手県の三陸海岸中央部に、宮古市田老地区がある。
そこは平成17(2005)年まで、人口4500人あまりを抱える田老町という独立した町で、中心市街地を守る巨大な防潮堤が有名な「津波防災の町」だった。
田老地区の北部、岩泉町に隣接する辺りを乙部(おとべ)地区という。
この一帯の海岸線は、三陸海岸北部の象徴的風景ともいえる隆起性の巨大な崖の連続で、全ての集落は崖の上の丘に点在している。
右図は平成17年の地形図だが、前述したような地形や集落配置の特徴がよく描かれている。
海岸沿いにはいくつかの漁港はあったが、集落は全て高い位置にあった。
小さな川の河口部には、小規模な沖積平野があったが、そういう所に人はほとんど住んでいなかった。
なぜなら、大きな津波が数十年おきに押し寄せてきて、低地の住居を押し流してしまうからだ。人々は先人の犠牲に学習して丘の上に住んでいた。
昭和45年から51年にかけて、旧田老町はこの乙部地区の生活向上や観光振興を目的に、海岸道路を建設した。
小港漁港付近の前須賀を起点に、沼の浜、重津部(おもつべ)沢を経由して、青野滝漁港へと至る、全長約2180mの「町道沼の浜青の滝線」である。
途中3箇所にトンネル(地図の矢印の位置)を設けるなどした大掛かりな工事の完成によって、一帯は袋小路から脱却できた。
元来の風景の美しさを活用して、沿道の沼の浜には海水浴場やキャンプ場、真崎にはロッジや公園が整備された。
私も、平成15(2003)年7月17日にサイクリングの途中でここを通っている。
ただし、時刻は夜8時過ぎだったので風景はほとんど見えなかったが、トンネルが3本あるというのが気になったので、宮古から岩泉へ向かう途中で、わざわざ遠回りして通ったのだ。
(この日の夜は岩泉駅で駅寝し、翌朝に押角峠を走った。その模様は、初期作である「道路レポート第20弾」で紹介した)
あの日、見えない風景の代わりに印象に残ったのは、すぐ足元から聞こえてくる波の音の底知れないような恐ろしさだった。
月の出の前の暗い晩で、海面もろくに見えなかったが、周囲の崖に反響している波の音が全方位的で喧しく、聞いていると道路と海の境目が怪しくなるような気がして、今よりもいくらか臆病で純粋だった私を震えさせた。
そんな道だった。
この3枚の写真はその時のもので、ガードレールはなく駒止だけが並ぶ海岸道路、地形図の3本のトンネルの他にあったロックシェッド、最後の青野滝漁港で海上に昇ってきた月の情景だ。
そんな想い出の道が、平成23(2011)年3月11日の後でどうなったのか。
秘かに気にしていた。
東日本大震災の津波は、海面高10mを誇っていた日本一の田老防潮堤を突破して、多くの犠牲者を出した。
もとより防波堤を持たなかった件の市道が、完全に海面下に呑み込まれたことは想像に難くないが、その後の状況はなかなか耳に届かなかった。
自分で見に行くことも何度か考えたが、私が見たいのは災害によって壊された直後の道ではなかったし、ある程度時間が経過してからは、現在進行形で復旧工事が行なわれているものであろうと、訪問を遠慮していた。
右図は、最新の地理院地図だ。
これを見ると、市道沼の浜青の滝線の北側3分の2に相当する大部分が、ごっそり消滅しているのが分かる。
ああ……やっぱり……。
そう思った。
この道の地図から消された部分は、致命的なダメージを受けたのだろうと察した。
2本のトンネルやロックシェッドも、道ごと消えていた。
そして、ようやく最近になって、岩手県発表の資料によって、この市道が「どうなるのか」を知ることが出来た。
この市道を復旧させるのか、させないのか、分かった。
市道は、ちゃんと復旧させるという。
ただし!
「二級市道沼の浜青の滝線道路災害復旧(23災663号)工事 工事概要」より
査定時は現道復旧で計画を行なっていたが、現道の復旧工事は波浪の影響を受けやすいため施工が非常に困難であることや、道路を山側へ振るバイパス案の方が事業費を削減できることから現道復旧ではなく、バイパスでの復旧を行なう。
大部分は現道復旧ではない。
右図の赤線の部分は現道復旧(=地理院地図に道が描かれている区間)させるが、青線の部分は放棄して(=地理院地図の消滅区間)、代わりに緑と黄色の区間を建設・整備するという。
従来よりも遙かに距離も高低差も迂回の大きなルートだが、施工の容易性や事業費削減のために、この代替ルートでの市道復旧を行なうことが、既に決定していて、工事が進められているという。
というわけで、私があの晩通り抜けたトンネルのうち2本までは、廃道が確定してしまった。
このことを把握できたタイミングで、いよいよ探索を行なうことにした。
前回走行から17年後、被災から9年後となる、2020(令和2)年3月26日、探索決行!