国道20号旧道 大垂水峠 前編

公開日 2007.1.28
探索日 2007.1.10

 大垂水峠。

これで「オオタルミ」もしくは濁って「オオダルミ」と読む。この読み方は難読であるが、その印象的な響きは一度覚えると忘れにくい。トウゲという言葉の起源にも何か関わりを持っているのではないかと思わせる、弛んだ名前。
関東地方に住まう人ならば大概が車窓や交通ラジオにこの名を見聞きし、知らず知らずに覚えている。
行楽と、渋滞と、少し前まではローリング族のメッカ。

 大垂水峠。

それは、天下の五街道のひとつ甲州街道を受け継いだ幹線も幹線、国道20号が都心新宿を発って初めて挑む峠。
海抜389mに過ぎないが、日本最大の広さを持つ関東平野、そして大首都圏からの離脱を阻み、文字通り都県の境を成す、決して小さくない峠。

 この峠は地形的に明瞭な鞍部を示しており、古くからこの地方に人が暮らしていたことを考えれば、その道としての興りが古いことは明白である。だが、意外なことに歴史の表舞台にこの名が現れるのは明治期に入ってからとなる。江戸幕府は大垂水峠とは高尾山を挟んだ北方に位置する小仏峠(海抜560m)を正式な街道と定め、ここに関を置き江戸の守りの要とした。そして、近隣の他の峠の通行は禁止した。
明治になり小仏関は廃止されたが、天然の要害でもあった小仏の峠は嶮しく、馬車交通にさえ耐えられぬものであった。そこで明治政府は新道の開発を急いだ。晴れて、明治21年には大垂水峠の新道が開通し、ここが小仏峠に代わる甲州街道の道筋となったのである。
このとき、甲州街道の大部分は國道十六號に指定されていた。
 その後、この大垂水峠を通る道は国道8号の時代を経て、現行の20号という番号が与えられるのは昭和27年のことである。

 さて、首都東京と中部地方を結びつける第一の幹線となった大垂水峠であるが、短い馬車交通の時代が終わり自動車が闊歩する様になってからも暫くは明治以来の道を使っていた。少なくとも、昭和26年に作成された地形図までは明治道が国道として描かれていた。しかし、交通量の増加と車輌の大型化によって峠の交通容量は限界に達したのだろう。昭和31年の地形図からは現在の国道が主役となり、それまでの道はようやく役目から解放された様である。

 その後現在に至る大垂水峠は、引き続き産業経済の動脈としてあり続けただけでなく、富士山などへ都人を誘う行楽の道としても活躍している。やがて小仏峠の復権とばかり、その地底を穿って中央高速が開通したが、なおも一般国道20号の重要度は衰えていない。交通容量は再び限界に達し、近年では安全のため、曜日を区切って原付や軽車両の通行を禁じているほどだ。
昭和中頃に造られたたった2車線のグネグネ道が、今日でもこの立地にあってなお現道であることに、私は驚きを隠せない。


 このレポートでは、明治の旧国道と昭和から現在に至る現国道とを続けて紹介したい。
江戸が東京へと生まれ変わっていく過程に生まれ、戦後に役目を終えた道。
そして、ただ一日も重責から解放されずく、ひたすらに路面を削られ続ける道。

 どちらが道として幸せなのか、 見届けて欲しい。


江戸から東京へ… 生まれ変わった峠

相模原市千木良より旧道へ


8:46

 このレポートは、「神奈川県道515号」攻略の続きになる。
その最終地点、相模原市(旧相模湖町)千木良(ちぎら)より、国道20号旧道の旅は始まる。

 写真を見て欲しい。
旧道へはこの廃県道515号とカタギの517号との交差点から入る。
青看に描かれた細い斜めの線がかつての国道であり、その細い線を右上に延長した方向が旧国道だ。



 上の写真の交差点を直進すると、直ぐにこの突き当たりとなる。
この左が青看に細い線で描かれていた道で、実際にはT字路になっている。
右折する。青看には無かった道だ。



 おばあさんが写っている道がこれから向かう大垂水峠への旧道だ。
集落内の小道を含め変形四差路となっている。
ここには特に旧国道らしい遺物は残っていないが、むしろそのことが意外である。
これは田舎ものの勘違いだったら笑って欲しいが、国道20号と言えば泣く子も黙る主要道路であって、たかだか一世代前の道がこれほど地味な小道に始まろうとは…。

 だが、そんな驚きが序の口だったと直ぐに思い知らされるのだった。


 路側線さえ引かれていない1車線の道が、緩やかに上りながら住宅地の中に続く。
入口から400mほど進んだところに、景色に似つかわしくない通行止め予告の標識が建っていた。
それによれば、もう200mで車両通行止めと言うことらしい。
これは、歩行ならばさらに進めると言うことなのか、はたまた言葉の綾なのか。
余り多くは期待せず進むことにする。
それにしても、がっかりするくらい国道らしくない道だ。



 道は、先ほど通った県道515号の一段上を逆行する方向に進んでいく。そして、山の上手には木々の隙間から立派な道路が見えている。大型車が通ると橋の継ぎ目を踏む音がここまで聞こえてくることがある。現在の国道20号である。



 ここで、新旧道の位置関係をご覧頂きたい。
左の図は、昭和26年版の5万分の1地形図より大垂水峠付近である。
普段の着色とは異なり、古い図を元にしているので、青い破線が現国道、そして緑色の破線は現在の県道である。

 このレポートのスタート地点は「現在地」のすぐ左の県道515号と517号の交差点であった。
現在地が県道515号と現国道に挟まれた山の中腹であることが分かる。
ちなみに、当時は県道515号が途中までしか描かれておらず、現国道は当然影も形もない。

 これからだが、このまま旧道を大垂水峠まで登るつもりだ。距離は読図によると残り2.3kmほど。高低差はここからだとプラス200mと言ったところで、さしたるものではない。

 なお、図を見てお分かりの通り、大垂水峠の東京都側(峠の西側が神奈川県相模原市、東側は東京都八王子市である)は今も明治期の道を改良して使い続けている。驚きだ。
驚きだが、今回は旧道で峠に立ったあと現国道でスタート地点に戻ってくる予定である。


 なんと!!

未舗装か!

しかも、まだ民家が続いているのにもかかわらずか!

これはかなり意外だった。

 「…関東ッても、たいしたことねーなー」。

数日前、都心が怖いあまり圏央道を使って引っ越してきた男が独りごつ。



 で、道の右側に沢が現れたと思えばすぐにこれ。
あっという間に全面通行止の看板が現れる。
これが予告されていた「車両通行止め」なのだろうか。いや、これは全面通行止めだから… 
…なんて、そんな無駄なことを言っていても仕方なし。
誰も見ていないし、チャリのまま看板の横を失礼しまーす。



 おいおい…。
本当にこれが国道20号なのかー?
明治時代の道だというのは納得できるが、戦後に至ってもこんなのが東京都と甲信地方を結ぶ幹線だったー?

 正直、余りのしょぼさに驚きを隠せなかった。
が、戦後間もなくの日本の道路事情についての、ある有名なエピソードを思い出す。
昭和31年、日本最初の高速道路である名神高速道路の調査のため、アメリカから招かれたワトキンスという学者は、まず日本の道路の現状を見てこう言ったという。



  「日本の道路は信じ難い程に悪い。工業国にしてこれほど完全にその道路網を無視してきた国は、日本をおいて他にはない。」 と。

 その言葉が日本を奮い立たせたし、新しい高速道路の必要性を内外に理解させるに力となったわけであるが、ともかく実際にその頃の日本の道は、都会であっても相当に悪かったのだ。いやむしろ、人が多く往来する地方であったからこそ、道は荒廃の度をより深めていたのかも知れない。

 終戦からから10年以上を経てもなお、外国人が驚くほどに悪かった日本の道。その証拠品の様な景色が、いま目の前に。

 



 廃道寸前の不整路となって200mほど進むと、車が切り返せるようなスペースがある。
何本かの轍がここで複雑な模様を描いていた。
また、「通行止」とだけ書かれた看板が、端へ寄せられた様にして倒れていた。
まだ轍が奧へ続いているが、それは峠まで続いていそうもない。



 また、この同じ場所には他に、抑止力としては些か弱い折りたたみ式のバリケード1つと、こんな “お願い文” (下)があった。


「この道路は現在崩落、落橋により通行できません。
路肩も崩れやすくなっており、危険ですので通行しないようにして下さい。
尚、やむを得なく通行する場合は、十分注意してください。
皆様には大変ご迷惑をおかけしますが、ご協力をお願いいたします。 相模湖町」

 稀に見る低姿勢である。
…とりあえず、通ってもいいようだし。



   というわけで、四輪車の轍は殆ど消え去った道をさらに進む。
この写真で分かるとおり、よく見ると道幅が意外に広い。
明治期に国道となった道は、その時期にもよるが幅五間(約9m)以上というルールがあった。よって、当時の道は意外に広い。万世大路の例を見てもそうだ。
もっとも、この幅のルールは山間部で特に非現実的であって、到底守られていなかったが。



崩壊した明治国道


 9:17

 ここまで集落の端から右手に並行していた小さな沢が、ついに道路の高さまで登ってきた。
沢はこのあたりが谷頭となっていて、モミジの葉状に三方の斜面から小さな沢を集めている。
道はこれらの細かく分岐した沢を相次いで2つ跨ぎ、方向を転換してからさらに峠の高みを目指していく。

 写真はまず現れた一つ目の沢。
かつては小さくてもコンクリート製の橋ないし暗渠があったようだが、現在はその下部だけを残し肝心の橋桁が無い。
代わりに材木を寄せ集めた心許ない橋が架かっている。ここから先は、2輪車以下のみ許される。



 すぐに次の小沢が行く手を遮る。
というよりも、道と沢が一体となってしまっていて、進路を見失いやすい展開。
このまま真っ直ぐ進んでしまえば本当に道をロストしてしまうのだが、当時の地形図と照らし合わせてみれば、道はここで進路を150度変えて右手の山に取り付いていることが分かる。



 この沢地には大量のコンクリートブロック散乱している。年代は特定できないが昭和後半のように見える。
ここにかつてあっただろう橋ないし暗渠のものという可能性もゼロではないが、九割方は谷の上方を通る現道の落とし物であろう。



 ここで跨いだ2つの沢は、好天続きであったこの日も少しだが水が流れており、大雨ともなれば明治道を破壊するだけの水量となることも予想できる。
特に2つめの沢は護岸の類が一切残っておらず、あるいは上部に現道が建設されたことで、明治時代とは水流や量が変わってしまった可能性もある。

 写真は2つめの沢を渡った先の、堆積物によって均されたらしい平坦部より振り返って撮影。
道は右から登ってきて左の斜面へ向かう。



 チャリを押したり引いたりしながら沢地は越えたが、その先の道は案の定荒れ果てている。
辺りは杉の植林地と雑木林が半々で、山仕事の人がときおりは通るのであろうが、路上に堆積した苔生す土砂が廃されてからの年月を感じさせる。
鋪装はもちろん、ガードレールやデリニエータ、道路標識の類など、近代的な道路遺構は何も見当たらない。
頭上にはループ橋さながらのカーブを見せる現道が見えているが、その明暗は対照的だ。



 旧道は、日の当たる場所と薄暗い沢地とを交互に迎えながら、じっくりと高度を上げていく。
大垂水峠は明治期からいままで変わらぬ同じ堀り割りを通過しており、新旧道間に峠道としての本質的優劣(=高低差)はない。
ただし、現道が千木良小前の交差点からすぐに登りかかり、千木良集落との交通を旧道に譲ることで少しでも距離を稼いでいるのに対し、明治道は千木良と赤馬の集落の面倒を見てから登りにかかるので、同じ高度を登るのにも与えられた距離が現道の3分の2しかない。
当然、旧道には厳しい勾配が現れることになる。



 旧道入口から約1.6km地点にて、極端に道幅が広がった。
ここは小さな尾根の上で、比較的道幅に余裕がとれそうな地形ではあるが、目測10mを越える極端な幅がある。
しかも、山側にはわざわざ石垣を築いて道幅を広げている。
その広い部分は長さ30mほど続いていた。

 おそらくここは自動車同士の離合スペースだったのだろう。
この道の末期には、バスや貨物車両など大型の自動車もかなり走っていたはずだ。



 石垣の近景。
よく見られる石垣とはだいぶ印象が異なる。
遠目には平凡な丸石の練り積みに見えたが、よく見るとモルタルも使われていないし、自然石を多少整形しただけで組み上げてある。
どちらかというと、精緻よりは土臭い印象だが、古びた様子は味わい深い。
明治期にまさか離合スペースと言うこともないだろうから、昭和初期頃の築造であろうか。

 こうしてユルユルと始まった明治道探索は、絶景の地を終とする。
以下、次回を待て!