道路レポート
雄勝峠(杉峠) 旧旧道 最終回
2005.4.8
生還
2004.12.2 11:30
私は、約1時間20分ぶりに、アスファルトの上に戻った。
そこは、不通の隧道を超えた、その先。
すぐ背後にある口を閉ざされた隧道を見ると、超えられぬはずの峠を越えたという、誇らしい実感は、より強固なものとなった。
いま、目の前に転がっているのは、ギネスにも申請予定の、約10mを墜落したチャリの姿。
ピクリとも動かず、その安否が気遣われたものの、起こしてみると、後輪が外れていただけで、殆ど無傷だった。
さすが、我が愛車である。
堅い!!
愛車と、そして私が滑り降りた、旧国道ののり面。
こちらから上ることは出来ない。
旧旧雄勝峠は、事実上一方通行である。
周囲を見回してみたが、やはり旧旧道と、旧道をつなぐ分岐は存在しない。
旧旧道は旧道によって切り取られてしまい、完全に途絶してしまっている。
2年半ぶりに訪れた、雄勝隧道、真室川側坑口である。
前回とその景色は殆ど、変化がない。
今でも倉庫として利用されているのかは分からないが、人影は無い。
日差しに照らされて鮮明な峠の鞍部も、なぜか夢の中の出来事のように遠く感じた。
いくつもの三島道を辿ってきたが、この雄勝峠もまた、山チャリの歴史に残る峠であったと思う。
特に、愛車にとっては、痛みと共に忘れられぬ峠になったことだろう。
ここは、長居をする場所ではないので(私有地である)、感動もそこそこにして下りを始める。
乗ってみると、なにやらブレーキの効きも悪くなっているし、前輪にもガタを感じる。
やはり、相当の衝撃があったのだろう。
結局この1ヶ月後、積雪が本格化すると共におこなった点検を機に、我が愛車は長期の入院を余儀なくされた。
さて、旧国道はおおよそ2km強の下りで、現国道との合流地である、朴木沢集落に至る。
この道は、いまでも私道として利用されているだけあって、それほど荒れてはいない。
途中一カ所、旧道のカーブの外側に、旧旧道時代のものと思われるより平場と、路肩の擁壁らしき石垣を見た。
旧旧道を改良したのが、旧道の道筋であると見て、良さそうだ。
雄勝峠旧道は、秋田県側と、この山形県側で、まったく景色が異なる。
道の作りはよく似ているのだが、その周囲の景色が全然違うために、走行感も全く違ったものとなる。
一言で言えば、秋田県側は原生林。
山形県側は、里山。
この違いだ。
山形県側では、カーブなどの視界も良好で、開放的な下りを満喫できる。
そして、あっという間にゲートを超え、数軒の民家が現れると共に、いつもと変わらぬ長距離トラックの車列が見えてきた。
現道の接近である。
心底ほっとするのが、この瞬間だ。
山チャリスト全てに共通する心境ではないだろうか、これは。
ハードな山道、特に前車の轍が稀な廃道であればなおさら、人の住まう臭いが恋しくなるものだ。
朴木沢(ほおきさわ)は、及位地区最上流の集落だが、その中央には奥羽本線と国道が縦貫しており、山村でありながら交通の便には恵まれたところ。
旧国道は、この集落の生活道路として、現役で利用されている。
雄勝峠をめぐる私と三島の物語は、これにてエピローグを迎える訳だが、
最後にもう一つ、発見があったのでお伝えしよう。
新発見!
2004.12.2 11:50
朴木沢にて旧道と現国道は、朴木沢(河川名)を挟んで、500mほど併走する。
その後、旧道は朴木沢橋を渡って現道に接続している。
そして、今回発見があったのは、この併走区間にて、両者を結ぶ橋があったということ。
これまでは、ススキの原野だとしか思っていなかった場所だが…。
写真には、その橋が写っているのだが、非常に分かりづらい。
しかし、秋枯れのおかげで、なんとか欄干が見えてきた。
この橋が、いったいどのような由来を持つ橋であるかは、分かっていない。
しかし、今回初めて橋上に立ってみて、本格的な昭和初期の特徴を有するコンクリート橋であることが分かった。
これが、旧旧道が現役であった当時の橋である可能性は、高い。
おそらく盛夏期には接近出来ないだろう。
ススキばかりではなく、橋の上に木まで生えており、欄干も何もあったものではない。
そのくらい、浸食されている。
ただ、橋自体は傾いていたりはせず、まだ強度を保っているようだ。
おそらく何十年も打ち捨てられたままであったろう橋に、枯れ草をかき分けつつベキベキと踏み込んでいく。
そして、きらきら輝く朴木沢の清流を渡りきり、現国道の喧騒の元に立った。
国道側は、歩道の柵があって、しかも段差もあって、橋は完全に切り離された存在である。
かろうじてその凝った意匠の一部が確認できる、親柱のうちの一柱。
親柱は4柱とも存在したが、すべて損壊著しく、銘板などは確認できなかった。
作りとしては、昭和初期のものと見て、間違いないだろう。
旧旧道に車道としての改築が施されたのは、他の三島道の例を見ても、おそらく昭和初期と思われる。
この橋も、その際に建設された物と仮定すると、しっくり来る。
基礎部分の構造は、あまり目にすることのない、非常に緩やかなアーチであった。
末期的に腐食しているコンクリートが、冬場ともなれば3m以上にもなる積雪の大重量に耐えられるのは、あとどれほどだろうか。
興味深いのは、橋の直下の河川敷にも、近年のものと思われる護岸ブロックが設置されている点だ。
本橋を敢えて取り壊さずに、護岸工事を行ったのだとすれば、これも異例なことに思える。
しかし、その護岸工事の陰で、橋脚の基礎はしっかりしており、流出という最期は免れそうである。
国道側から見た橋の様子。
ススキの原野が川を渡っているようにしか、見えない。
対岸には旧国道があるが、そのどちらからも見捨てられた存在。
やや下流側から。
どっしりして貫禄のある姿。
この橋はかつて、里と峠とを隔てる、そんな場所だったのかもしれない。
沢山のドライバーが、おそらくこの橋の前後にあっただろう、クランク状の急カーブで、このさきに待ち受ける県境の険しさを予感し、十分に気を引き締めに掛かったに違いない。
橋は、国道の喧騒と、生活道路となった旧道との小さな隙間に、所在なさ気に佇んでいる。
本橋一帯の位置関係は、左図の通りである。
旧道の朴木沢橋より、旧旧橋と思われるコンクリート橋を望む。
背景は、この日の北風が運んできた、雪雲の先兵たちによって、冬の牢獄に閉ざされつつある雄勝峠。
いにしえより国境だった、古木生い茂る、天然の要害。
完
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